由美と美也子(3)
「ただいま」
「おかえり」
由美が帰ると、真志はソファで仕事をしていた。受託したデータを解析する、データアナリストとしての仕事だ。
「かなりひっかかれたんだね」
猫を捕獲機からケージに移す際、ひと悶着あったのだ。
「私には向いていないみたい」
「そうだね。君には向いていない」
「どういうこと?」
由美は何か自分が否定されたような気がして聞き返した。もっとも、由美は真志が自分を否定するようなことを言うはずがないことも知っている。由美がむっとして聞き返したのは、言ってみれば八つ当たりのようなものだ。
「その子、出してあげれば?」
真志は由美の言葉に応えずにそう言った。
猫が暴れて部屋がめちゃくちゃになるかもしれないとも思ったが、由美はケージの扉を開いた。たぶん、猫のことは真志が何とかするだろう。
ケージの扉が開くと、猫は一目散に真志の元に走った。そして、ソファに跳びあがり、真志の腿とひじ掛けの間の隙間に潜り込む。
「じゃ、そのねこちゃん、お風呂に入れといてね。私はご飯作るから」
「待って。先に君の腕の手当てをしよう」
「うん」
真志は猫の背をひと撫でして立ち上がった。そして、ラップトップをテーブルに置くと、救急箱を取りに行く。猫は真志の後をついてまわり、足に纏わりついていた。その猫の態度は初対面だとは到底思えない。
猫は真志が由美の手当てをするのを近寄って見ていた。この猫は悪いことをしたと思っているのだろうか、と由美は訝った。でも、猫からすれば正当防衛なのだ。
由美がそう思ったとき、猫は由美を見て、小さく「にゃあ」と鳴いた。
その後、猫はおとなしく洗われ、ふかふかになった。いまは洗ってくれた真志の膝の上でくつろいでいる。
夕食の支度ができるころ、美也子が自分の部屋から出て来た。
「あ、猫。どうしたの?」
美也子は猫に手を伸ばした。しかし、猫は「ふー」と威嚇し、真志の陰に隠れた。
「避妊手術まで家で預かるの。手術が済んだら放すのよ」
「なんかかわいそう」
「でも、そうしないと駆除されちゃうのよ」
由美が言い返そうとしたとき、真志が口を開いた。
「私の実家にはいろいろな猫が遊びに来ていたけど、避妊処置をされた猫はひどく差別されていたよ。盛りの季節でも、オス猫たちに『ふー』って威嚇されていた。そうやって威嚇されていたから、いつもびくびくしていた。野生が残った猫たちにとって、子孫が残せるかどうかは重要なことなんだろうね」
「私、責められてるの?」
真志は答えなかった。
「ねえ、この子、うちで飼おうよ」
「でも、お父さんは動物を飼うのは嫌いなのよ」
「えー、何で?」
由美は美也子の矛先を真志に誘導し、自分はキッチンに逃げた。
「動物に野生を失ってほしくないんだよ」
「でも、避妊か駆除しか選択肢がないんでしょ?」
「そうだね」
真志は、しばらく考えた後、諦めたようだった。
「しょうがないのかな。この件は美也子に任せるよ」
「じゃあ、今日からうちの子ね」
「朝五時とか六時とかにご飯を請求されると思うけど、美也子がやるんだよ」
「うん。任せて」
美也子は調子の良いことを言っているが、約束を守るつもりがないことは明らかだ。それでも、由美と真志は何も言わなかった。二人とも別の選択肢を選びたくなかったから。
「その子を甘やかして馬鹿猫にしないようにね」
「はーい」
真志は念を押したが、美也子はそれを適当にあしらい、猫を抱き上げた。
猫は事情を察したのか、もう美也子を警戒していない。
「ところで、この猫、名前あるの?」
「トラって呼ばれてたわよ」
「トラちゃんでしゅか」
美也子は早速猫を甘やかし始めた。
由美はそれを横目で見ながら、この後どうしようか悩んでいた。押し付けられたとはいえ、いまの由美は地域猫保護活動のリーダー。たぶん、トラの避妊を拒むことで、グループ内で軋轢が生じる。由美は自分がリーダーを降りて活動から抜けるのが一番良いと思うのだが、突然辞めるのも問題であると感じていた。由美は料理をしながら思い悩んでいた。
今夜は焼肉だ。肉を焼き始めると、トラは由美の足に纏わりつき、しまいには由美の足を支えに二本足で立ち上がり、爪を立てて登ってきそうな雰囲気になった。
「ミヤちゃん、トラちゃんを連れて行ってくれない?」
「はーい」
結局、由美はトラ用に、味付けしていない牛肉を二枚焼いた。そして、それを小さく切ってカリカリの上に置いてやる。甘やかさないように決めたのに結局甘々だ。
人と猫は一緒に夕食をとった。トラは肉を食べ終わると由美に追加をねだった。しかし、だめだと言われると、聞き分け良くカリカリを食べ始めた。今朝まで野良だったのだから、カリカリでもおいしそうに食べてくれる。いまは。だが、美也子が甘やかし続けたら、この先どうなることか。
夕食後、由美は田中をはじめとするメンバーに電話した。田中には、次のリーダーになってくれるようにお願いした。
「そういうわけなの、田中さん。本当にごめんなさい」
由美は、真志の提案通り、家族会議で押し切られてどうしようもないという言い訳を話した。加えて、このまま続ければ、家族崩壊になりそうだと話を盛った。
「しょうがないわよね。結城さんも無理やり押し付けられてリーダーしていたんだし。わかりました。私がやります」
由美はリーダーを押し付けられたのが田中の罠ではないかと疑っていたので、田中があっさりとリーダー役を引き受けてくれたことは拍子抜けだった。
「ありがとう。ほんとにありがとう。今度何かで埋め合わせをさせてね」
「じゃあ、期待してます」
引継ぎは終わった。少し後ろめたくはあったが、可哀想なことをせずに済み、安堵していた。




