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混沌に浮かぶ泡  作者: 藤原時照


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エデン(2)

「待ってー」

 後ろから女の声が聞こえる。

 振り向くと、メルセデスに乗っていた女がいた。

 もちろん裸で。

「待てない。一緒に来るなら走ってついて来て」

 私は少しペースを落とし、女にそう言った。

「はいっ」

 私は女と行動を共にすることにした。少なくとも、化け物たちは人体がでたらめに結合した状態なのでバランスが悪い。ちゃんと走ることができない。多少ペースを落としても大丈夫だ。

 しばらく走ると、私は不思議なことに気づいた。

 走っても鼓動が激しくならない。

 膝の関節も痛まない。

――世界が変わったら自分の身体も変化した?

 私は走りながら冷静に自分の身体を観察した。

 自分の身体の生体機能が働いていないように感じる。

 いまの状態は、まるで夢の中のよう。

――いまの自分は霊体?

 いま気づいたのだが、私は呼吸をしていない。

 世界が変化したとき、自分は死んだのかもしれない。

――ここは地獄か?

 だが、隣を走る女を見ると、明らかに肉体から解放されているようには見えない。彼女は口で喘ぐように息をしている。そして、彼女のゆったりとした身体は、足が地面を蹴る度にあちこちがプルンプルンと揺れている。

――おかしいのは私だけなのか?

 私は女から目を逸らし、化け物の様子を見ようと振り返った。

――甘かった。

 化け物の中には足の速いものがいた。

 その化け物の身体は、三人分の身体がギリシァ数字のⅢのように、きれいに並んで結合している。バランスが良く、力の伝達効率も良い。

 女の速度に合わせていては、その足の速い個体に追いつかれてしまう。私は、一瞬だけ女を見捨てて逃げようかと思ったが――

「このままでは追いつかれる。もう少しペースを上げて」

「無理です」

「じゃあ、あそこの木が囲んでいる場所まで走って。少し攪乱してみる」

「えっ?」

「いいから行って」

 私は少しだけペースを落とし、足の速い化け物に近づいた。

 化け物が跳びかかる瞬間、方向を変える。

 何度もそれを繰り返す。

 挑発しながら誘導することで、女との距離が開いた。

――こんなもんで良いかな。

 女との距離が百メートル以上離れたのを確認すると、私は女のいる方向とは90度違う方向に向かって全力疾走した。

 速い。

 私は自分がこれほど速く走れることに驚いた。

 走るのが楽しい。

 しばらく走ると、化け物が追ってくる気配はなくなった。

 追手がいないことを確認し、さきほどの女が走って行った方向に向かう。

 走っても息が切れない。

 そもそも呼吸をしていないのだから。

 鼓動も激しくならない。

 心臓は動いていないから。

 私は走りながら自分のことを確認した。

 いまの自分は霊体のようだが、肉体を失った記憶はない。

 感覚はこれまでと何も変わりはない。

 少なくとも自分が気づく範囲では。

――ひょっとして、いまの自分の身体は肉体であり霊体?

 昔流行ったアセンションという言葉を思い出した。

 しばらく走ると女に追いついた。

「もう走らなくても良いよ」

 後ろから声をかけると、女は私に気づき、走る速度を落とした。

 女は息が荒い。

 私と違って明らかに肉体の枷に囚われている。

「何かスポーツやってるんですか?」

 女は激しい呼吸の合間に尋ねた。

「そういうわけじゃないけど。何だか突然若返った気がする。走っても苦しくないし、最近悩んでいた関節痛なんかも良くなっているんだよね」

「私は……全然、そんなふうに……なりませんけど……ずるいです」

 女は、はあはあと激しく息をしながらそう言った。

 二人は並木道に到着し、かつての住宅地に入った。そのあたりでは、老人の単独死体がひくひくと動いていたが、襲いかかって来る様子はなかった。複数の老人から成る化け物もいたが、カルシウムが足りないせいか、手足が折れている。あれでは人に襲いかかることはできないだろう。

 生きた人々は、遠巻きに老人の化け物を見ながら立ち竦んでいた。

「ここまで来れば一安心かな」

「はい」

「申し遅れましたが、結城真志です」

「橘由美です」

「この辺の人?」

「いえ、仕事で」

「そうなんだ」

 沈黙が訪れた。

「あの、あっちで少し休憩しませんか?」

 橘由美が木々や花々に囲まれた草地を指差した。たぶん公園の跡だ。

「そうだね」

 今度は由美が先に立って歩き始めた。

 私は由美の後姿を見る。

 彼女はややぽっちゃりした体形だが、太っているというほどではない。豊満というべき体形だった。私はそれを見て、自分の一部が硬くなるのを感じ、そして慌てた。いまはそれを隠すものが何もないのだ。

 木陰に来ると、由美は振り返った。

「ベンチも何もないですね」

 彼女はそう言いながら、視線を下に向けた。

 その視線の先には、私の硬くなったものがある。

 そして、周りを見回し――


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