黒い水(1)
気づくと私は山の中にいた。少し離れたところに舗装されていない道が見える。
――あの道は戸隠奥社の参道?
遠くに杉の巨木の道が見える。やはり戸隠だ。その道をさらに下っていくと、奥社入口の食事処があった。
そこまで歩いて、自分がバイクウェアを着ていることに気づいた。
家に帰った記憶は何なのか。
そもそも家にいたのは夜。
いまは昼間だ。
時間が巻戻ったのだろうか?
駐車場にバイクはあるのか?
疑問がつぎつぎに浮かぶ。
果たして、駐車場にバイクはあった。
しかし、その周りには警察がいる。
「あんた、このバイクの持ち主?」
「はい、そうです」
「いままでどこにおった?行方不明だって連絡があって、これから山岳調査に入るかって話になっとったんだよ」
下手に隠し立てをして妙な疑いをかけられてもかなわない。オカルトめいた話ではあるが、私は本当のことを話すことにした。小鬼のことを除いて。
「実は、ちょっとオカルトめいた話なんですが――」
私の説明を聞き、その警官の表情は不審げなものに変わった。
「ちょっと変わってくれるかな」
そう言って、警官の後ろにいたスーツ姿の人物が前に出た。
「長谷川です」
「井田です」
彼らはそう言って身分証を見せた。所属は言わない。
「ひょっとして、あなた、何かに襲われたんですか」
長谷川と名乗った男が私の左肩や肘を指差した。
長谷川の指差した先を確認すると、肘に木片が刺さっていた。
肩には棒で殴られた痕が汚れとして残っている。
両方とも、下にプロテクタが入っているから気づかなかったのだ。
これらは間違いなく緑の小鬼と戦った名残。
だが、説明のしかた次第で誤解を招くかもしれない。
それなら正攻法で行くしかないと腹をくくった。
「信じてもらえないかもしれないですけど、小鬼――」
「あ、ちょっと待って。話は車の中でお願いします」
そう言って長谷川は私をクラウンの後部座席に乗せた。クラウンのナンバーは品川だ。所属は警視庁だろうか。
車の中には、もう一人、スーツ姿の人物が待っていた。
その男は米山と名乗った。だが、米山は所属を言わない。身分証も見せない。雰囲気からして長谷川や井田とは違うので、警察の上層部か別の組織に所属する者であろう。
「結城です」
私は米山に合わせ、細かい自己紹介はしなかった。
長谷川は助手席、井田は運転席に座った。
「小鬼、で間違いないですか?」
長谷川は話を続けた。
「間違いないかと言われても困るけど……。まあ、それっぽいのが二十ほどいました」
「二十?よく無事でしたね」
「動きが鈍かったんで、そう危なくもなかったかな。何か身体の部品を適当につなぎ合わせたような感じで、腕や脚の長さや太さは出鱈目だったし。それで、バランスをとるのにも苦労しているような感じだったから」
「ふーん」
この間、井田は一切口をはさまず、メモをとっていた。
「ところで、小鬼が実在する前提で話をされているようですが?」
「いや、実はですね、似たような事件が頻発してるんですよ。ただね、何と言うか、大っぴらにしにくい事件なもんで、対応に困っておるんですわ。結城さんみたいに別の世界に行っていたなんて人も何人かいるし」
「別の世界なのか、化かされていたのかわかりませんが。小鬼の後、横浜の自宅に帰ったのに、気がついたらまたここでしょ?服装も元に戻っているし。正直、どうなっているんだ、って感じですよ」
「なるほど」
米山が口を挿んだ。
その声に返事をしようと向き直ると――
米山の目は焦点を結んでいない。口は半開きのまま動きを止めている。
――おかしい。
そう思った瞬間、車内が暗くなった。
長谷川と井田の方を見ると、米山を睨んで硬直していた。
もう一度米山に目を向ける。すると、彼の身体は闇に覆われていた。
「何だ、これは」
長谷川の声がしたが、私にはそれに応える暇などなく、ドアを開けて外に飛び出した。あの闇に触れられたら自分の中の何かが侵食される。そんな気がした。
「くそっ」
長谷川と井田もドアを開けて外に逃げた。
もう車の中は闇で満たされている。その闇は、次第に車のボディを侵食し、ついには車の形をした闇が残った。そして、その闇から米山の頭が生えた。
「結城さん、さがって。井田、威嚇は不要。撃つぞ」
「了解」
二人は連続して三回ずつ発砲した。米山の頭を狙ったようだ。しかし、ダメージがあったようには見受けられない。闇はさらに広がっていく。すでに車の形ではない。
「無駄か。一旦距離をとる。結城さん、走って」
私たちは、時々振り返りながら走った。
「逃がさないよー、一緒に黒い水に行こう」
それは小さく甲高い声だった。
しかし、その声の出処は、米山の頭ではなく私の耳元。
咄嗟に声のしたあたりを見ると、そこには指があった。
人間の指。
そして、そのつけ根の部分に唇がある。
これは米山の指?
私はぞっとして、反射的にそれを払い落した。
闇が拡がるのは止まったようだ。
しかし、それは我々を追いかけて来る。
距離は一定のまま。
わざとペースを合わせて追ってきているのではないかと思えるほど一定のまま。
追いつかれることもなく、引き離されることもない。
――ひょっとして、恐怖心を煽るため、わざと歩調を合わせているのでは?
そう考えた瞬間、闇が弾けるように広がった。