ファーストコンタクト(1)
心の平安が欲しいとき、私はバイクで戸隠に行く。
今日は平日。
山道ですれ違う車は稀。
何事もなく目当ての店に着いた。
ここは、江戸時代、旅籠を営んでいたという蕎麦屋だ。皇室御用達でもある。戸隠の有名店は中社の近くに集まっているが、私はいつもこの店に来る。そして、いつも蕎麦定食を注文する。
テーブルの上には急須と湯飲み、そして漬物が置かれている。
私は畳の上でくつろぎつつ、茶をすすり、漬物をかじる。
しばらくすると、割烹着を着た女性が来た。
「岩名の塩焼きはもう少しお待ちください」
そう言って、彼女はテーブルの上に料理を並べた。
盛り蕎麦、きのこや山菜のオードブル、天ぷらの盛り合わせ。全部地の物。テーブルの上は賑やかだ。もう少し待てば、ここに岩名も加わる。
私はまず『ぼっち盛り』を一束箸で掴み、蕎麦猪口に入れた。
最初の一口で、日々の生活で溜まった澱が洗い流される。
――蕎麦は水。
都会の水では絶対にこの味を出すことができない。
この蕎麦を食べると、東京の自称蕎麦通が滑稽に思えてならない。
つゆにどっぷり浸けるな?
それはまずい蕎麦を食べるためのテクニックだろ?
ここに来ると、いつもそんなことを考える。
目の前に自称蕎麦通がいることを想像し、蕎麦をどっぷりとつゆに浸ける。
そして、蕎麦を口に運ぶ。
これがいい。
食べ終わって蕎麦湯を飲むと、私はすぐに席を立った。
時間があまりない。
この後、宝光社、火之御子社、中社を経由して奥社に登るのだ。
いま、私は奥社へと続く、杉の巨木に挟まれた参道にいる。
私が戸隠を知ったのは中学のとき。半村良氏の戸隠伝説を通じて。もう何十年も前のことなので、内容ははっきり憶えていない。その憶えている内容も、同氏の産霊山秘録とごっちゃになってしまっている。しかし、雰囲気だけは憶えている。あれは、私にとって、ひどく馴染みやすいものだった。
私は小説の雰囲気を思い出しながら参道を進む。
今日は不思議なことに参道で誰とも出会わない。それに、何かがおかしい。このあたりには登山道へ分岐する道があり、その道標が立っていたはずだ。しかし、それもない。それどころか、現代文明を感じさせるものが何もない。
私は不思議に思いながらも参道を歩きつづけた。
熊?
異様な気配を感じて目をやると、そこには二足歩行する熊がいた。
私をじっと見ている。
熊は身長170cmくらい。
痩せている。
反応が動物のものではない気がする。
戦意は?
わからない。
でも、これくらいなら勝てる。
私はそう判断した。
問題は――
殺した場合、鳥獣保護法違反になるのか、正当防衛になるのか。
私は呑気に考えていた。
その余裕を見てとったのか、熊は森の中に消えていった。
二足歩行のままで。
――着ぐるみなのか?
絶対に自然界の熊は、あんな風に歩かない。
では、あれは何だったのか?
追いかけてみたいが、怪我をしてもつまらない。
気を取り直して歩いていくと、視界の端にまた動きを捉えた。そちらを見ると、今度は森の際に白い霞が見えた。狐か鼬のような形をしている。その霞は、地面をつつくようなしぐさをしたあと、森の中に消えていった。
何かを教えてくれたような気がして、私はその場所を確認しに行った。
低い草むらをかき分けてみると、急に周りの雰囲気が変わった。
草むらが消えた。
私は土の道――参道にいた。
少し離れたところには、派手なウィンドブレーカーを着た中年とおぼしきグループがいる。
――いままで異界に迷い込んでいたのか?
一応、自分のいた場所を記録しておこうと思い、地面と四方を写真に撮る。
何かの際に戻って来られるように。
ゲームで言うセーブポイントだ。
そして、再び歩き始める。
私は神社巡りが好きだ。
いくつもの神社をまわったが、稀に不思議な体験をする。
今回のように。
そんなときは、何も気づかなかったように振る舞い、その場を立ち去るものだと思っている。今回は熊と目が合ってしまったが、これ以上の深入りせずに立ち去ろう。気が向けば、また戻ってくればいい。
私は足を速め、前を歩いている中年グループを追い抜いた。この先は確か石づくりの階段。階段はペースが落ちる。そんな場所で前を塞がれてはたまらない。
――追い抜けるうちに追い抜く。
こうして私は奥社にたどり着いたのだが、そこは騒ぎの最中だった。
本殿に何らかの液体がぶちまけられていたらしい。
最近、神社や霊山で、聖水と称する汚水をぶちまけたり、さまざまな破壊工作をする連中がいる。
テレビで報道されていたのは、オレンジの妙な服を着たカルト集団だった。
――そういえば、どこかの民族の神話だと、熊と人の間にできたのが……。
このとき、私の頭に、あの熊が犯人なのではないかという考えが浮かんだ。家に帰るまでその考えは私の頭から去ることはなかった。
帰り道、関越のSAで休憩した折、旅行者と思しき一団の会話が耳に入った。
「今日、同時多発テロみたいに、あちこちの神社で液体が撒かれたってよ」
「三峰神社だけじゃなかったんだ」
「今日だけでも十カ所以上の神社がやられたんだって」
彼らは車二台に分乗して三峰神社に行っていたらしい。
少し話を聞いてみようかとも思ったが、時間を食いそうなので思いとどまった。
それにしても、戸隠神社だけでなく、三峰神社やその他の神社でも同じことがあったとは。
考えていたら、またあの熊を思い出した。
そして私の考えはオカルトへと方向を転じる。
各地の聖域を汚し、日本の守りを弱めるとか。
私は楽しく妄想に浸った。
そのおかげで大事なことを忘れてしまった。
その大事なことを思い出したのは圏央道に入ってから。
――ガソリン!
警告等がずいぶん前から点灯していたのに、給油するのをすっかり忘れていた。
圏央道の西側には給油できるところがない。
このままでは高速道路上でガス欠になる。
私は仕方なく、高速から降りることにした。