生きていてほしいから(4)
井沢に会った後、私はあのサイクリングロードを独りで歩いた。
あの場所に行き着くと、花畑は刈り取られていた。
行政指導で勝手に花を植えることを禁じられたんだよ。
近くにいた老人がそう言って歩き去った。
花畑の名残か、タチアオイが何本か花を咲かせている。
タチアオイの花を見て、私は涙を堪えられなくなった。
老人がこちらを振り返り、何かを言おうとしているようだ。
私は涙を拭ってその場を立ち去った。
私は夢を通じていくつもの前世を朧気に憶えている。
私は何度も転生した。
これまでも、こんな別れを何度も経験しているのだろうか。
辛い出来事を憶えていないことは救済なのかもしれない。
私は、あの日の帰り道、そんなことを考えていた。
時々、私の脳裏に知らない人の顔が浮かぶことがある。
彼らは夢の中で会った人たちだ。
きっと私は多くの人と出会い、忘れてしまっている。
ああ、胸が苦しい。
長く連れ添った相手が亡くなった後、残された者が後を追うように亡くなってしまうことがあるのは、この胸の苦しさによるものではないのか。
――胸苦しさに身を任せて死んだら、恵子に会えるのではないか。
私の意識はそこで途絶えた。
私は布団の中で目覚めた。
私はあの夢を朧気に憶えている。
あれは夢ではなく現実であり、自分が時間を巻き戻したのだろうと理解している。
これまで何度もあったことだ。
今日、私は研究所に異動する。
行けば、あの恵子という人に会うのだろう。
だが会ってどうする?
不幸にすることはわかっている。
私が努力すれば、彼女は幸せになるのだろうか。
私は、意識的にではないが、時々時間を巻き戻している。
私は因果の外にいるらしい。未来を知って行動を選び直し、来るべき未来を変えてしまう。書き換えた未来には『因』となった出来事は存在しない。つまり、私は『因』のない『果』を得ているわけだ。それは、この世の理から外れており、周囲に悪影響を及ぼすかもしれない。
私の周りには、時々もう一人の私が現れ、多くの場合、問題を引き起こしてくれる。私も時を巻き戻し、別の私に対して同じことをしているかもしれない。そんな風に、私は周囲の因果を壊し、知らないうちに他人の運命に影響を与えている可能性がある。
恵子の癌はそれで――
「山下さん、小池さん、おめでとう」
昼礼で恵子の結婚式の日取りが発表された。
相手は同僚の山下だ。
山下は温和で真面目な男。
恵子と平和な家庭を作るだろう。
私のような者よりも――
時が巻き戻って以来、私は恵子と一定の距離を維持するよう心掛けた。
私は恵子を不幸にしてしまう。
私は彼女に近づくべきではない。
それが私の結論だった。
昼礼の後、挨拶が一段落したところで恵子がこちらを向いた。
彼女はすぐに視線を逸らせたが、その目には悲しみが浮かんでいたような気がした。
ひょっとして、彼女には前の記憶が――
いや、止そう。
笑って送り出すのだ。
だが、見ているのは辛すぎる。
この数日後、私は退職届を提出し、残っているすべての有休を消化することにした。
もう出社はしない。
私の仕事の成果はすべて吉田がやったことになっている。
だから建前上は引継ぎの必要がない。
心情的にもそんな気にならない。
内山にしてみれば、下手につついて人事に真実が露見するのを避けたいだろうから、私に文句を言うこともないだろう。