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生きていてほしいから(3)

 苦しみの中、恵子との思い出が走馬灯のように浮かんでは消える。

 あのすぐあと、私たちは付き合いはじめた。

 何年か付き合ったあと、彼女は私のもとを去った。

 彼女との思い出は、甘美であると同時に苦痛をもたらすもの。

 すでに彼女はこの世にはいない。

 私は彼女を独りで死なせたのだ。

 私には、あの日のことを忘れることができない。

――ああ、胸が苦しい……。


 恵子は私のもとを去った。

 私はフラれたのだ。

 だが、その数年後――

「結城さん……」

 私の前で、三十代後半と思しき女性が立ち止まった。

 その顔には見覚えがある。

「ええと、井沢さん?」

 彼女は総務担当で、恵子の友人だったはずだ。

「どうして……」

 この日、私は恵子の死を知らされた。

 私は知らなかった。

 私と別れる一年前、恵子は子宮癌であると告知された。

 医者からは子宮の摘出手術を勧められた。

 しかし、彼女はそれを拒んだ。

 私には何の相談もなかった。

 井沢が言うには、恵子は私の子どもを産むことを最優先に考え、子宮の摘出を拒んだ。そのうえで何か他に方法がないか情報を集めていたそうだ。

 しかし、そんな都合の良い話はない。

 そして、手遅れになった。

 彼女は私に何も告げず、私の前から去ることを選んだ。

 あのとき、彼女は私に気を遣わせまいとしていたのだ。

 だが、私はそれを知らず、黙って別れてしまった。

 当時、私は見苦しい真似はしまいと思っていた。

 それが彼女のためだと思っていた。

 その後、私はほかの地区に異動となったから、真実を知ることはなかった。

 だが、彼女も私の真実を知らなかったのだ。

 彼女は、私が子ども好きだと思い込んでいたらしい。

 彼女がそう思い込んだのは――


 あの日、私と恵子は川沿いのサイクリングロードを歩いていた。サイクリングロードとは言っても、道幅は狭く、走っている自転車は少ない。そもそも、舗装がひび割れたまま放置されているので、ロードバイクにはやさしくない。そんな状態だから、そこにいるのは散歩をする老人ばかりだ。

 当時、私の住んでいたマンションはその川の近くにあった。このサイクリングロードはテレビドラマの撮影で使われることが多く、恵子は私を相手にドラマのシーンを再現して楽しんでいた。

「ここはねぇ、手をつないで歩くの」

 私は周囲を見回し、人目がないことを確認してから恵子の手を握った。

 さらに一キロほど歩くと、花が咲き乱れている場所があった。土手一面が花畑になっている。サイクリングロードと花畑を隔てるフェンスにもさまざまな蔦植物が巻き付き、色とりどりの花が咲き乱れていた。ここの花は近所の人が勝手に植えているらしいのだが、地元の人たちにとって、なくてはならない憩いの場所になっている。

「きれいー。でも、ここってドラマで使われてないよね。もったいなくない?」

「植えた人の権利を気にしたのかな?ああ、でも、勝手に植えているだけだから、権利も何もないか……」

「でもでも、有名にならない方が良いかも。人がいっぱい来ると、いまみたいに、私たちだけで独占できなくなっちゃうからね」

 彼女はタチアオイの花をつつきながらそう言った。

 花畑からの帰り道、私たちは道端で泣いている男の子を見つけた。

「どうした?」

 私が問いかけると、男の子は無言で自転車のチェーンを指差した。

 私が外れたチェーンを直してやると、男の子は「ありがと」と言って走り出した。まさしく、さっき鳴いたカラスが、という変わりようであった。

「はい、これ」

 油まみれになった私の手を見て、恵子はティッシュを差し出した。

「子ども好き?」

「どうかな?」

「好きなんだ」

 たぶん、あのときだろう。私が子ども好きだと思いこんだのは。

 だが、そうじゃない。

 あれは、恵子に良いところを見せようとしただけなのだ。

 ただそれだけのことだったのに。


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