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生きていてほしいから(2)

 十数年前、私は恵子と出会った。

 あの頃はまだ、私は自分のことを「俺」と言っていた。

 いつのまにか「俺」と言うことができなくなり、親族と話すときでさえ「私」と言うようになっていた。

 その変化のきっかけは――

 あのころの私の中にはまだ若さがあった。

 だから恋をしたのだ。

 かつての私は、好きな女性とは距離をとることにしていた。それは、私が自分のいくつもの前世を朧気に憶えていたからだ。死後、愛する人への思いを断ち切れないのは地獄のようなもの。耐えがたい思いの源を増やしたくはない。それに、私の中には、名前も顔も思い出せない誰かを求める『私』がいる。

 私は一者の夢を見る。

 一者とは、物心つく前から夢に見る存在だ。

 夢の中で、私は一者の前にいる。

 私は一者の前で、畏れで押しつぶされそうになっている。

 一者の威は、目覚めている時には感じたことのない強さ。

 その畏れと比べると、起きている間に感じるあらゆる恐怖は何ほどのものでもないと思える。

 その一者の前で、私はいくつもの生を思い出す。

 いや、思い出すのではなく、実際にその時を生きていると言った方が良いかもしれない。

 あの場所は時を超越しており、いくつもの生を記録したライブラリィであるとも言える。

 私はそのライブラリィに飲み込まれ、かつての生を再び体験する。

 目覚めてしまえば、あそこで体験したかつての生はおぼろげなものとなる。

 しかし、私があの時空にいたことは確かであり、顔も思い出せない大切な誰かへの思いは、耐えがたい胸苦しさとして残る。

 目覚めた私は強烈な喪失感に苛まれ、泣き続ける。

『あちら』との距離が十分に隔てられるまで。

 だから、私は無意識のうちに行動してしまう。

 大切な人を作らないでおこうと。

 だから、私は本当に好きになった人に告白することはない。

 無意識のうちに距離をとってしまう。

 だが、恵子は例外だった。

 

 恵子と出会ったのは研究所に異動した時だった。

 彼女は同僚の研究者のひとり。

 あの当時、事業部から異動になった私は、課長から頻繁に嫌がらせを受けていた。

 事業部と研究所は敵対関係にある。事業部から研究所に異動した私は、その敵意を一身に受けることになった。私は過去の仕事で、研究所と協力することが何度もあったが、常に成果を横取りされていた。彼らは、私の成果を自分たちが主導したように偽装し、特許を出願した。私を発明者に含めずに。それだけではなく、彼らは私の悪評を社内に広めてくれた。自分たちの不正を隠蔽するために。

 そう、研究所は常に私の敵であった。

 あの当時、研究所のトップは常務が兼任していた。一方で、事業部長は取締役ではない。つまり、事業部は権力の面で劣っており、研究所による成果の横取りは常態化していた。

「結城、内山課長に目ぇつけられてるみたいだけど、大丈夫か?」

 私を敵視する課長の内山は、表面的には優し気な印象だが、中身は陰湿な人物として知られていた。その一方で、主任の権藤は強面で職場では浮いた存在だが、私のことを気遣ってくれる。

「事業部から来たのが気に食わないんですかね?」

「いやあ、お前の顔が怖いからじゃねえの?」

「顔の怖さじゃぁ権藤さんにかないませんよ」

「よく言うわ。でも、お前、気をつけろよ。内山課長は笑顔で人を刺すようなタイプだからな。それに、あの人の奥さんは常務の姪御さんだから、閨閥とか言われてる。権力を使って裏でいろいろやられるぞ」

「噂の若い奥さん、常務の姪なんだ」

 内山課長は四十代。奥さんは二十代。昨年子どもが生まれたばかりだ。

 権藤は私の後ろをちらりと見、軽く手を挙げて離れて行った。

 内山課長が会議から帰って来たのだ。

「結城、ちょっと良い?」

「はい」

 内山課長は私を自分の席に呼んだ。

「あの耐久性の特許、吉田に書かせるから」

「えっ」

 その耐久性に関する技術は、この研究所では長年課題になっていたものである。私が配属されるまでは目途さえ立っていなかった案件だ。私はそれを独力で解決した。かかった期間はたったの一ヶ月。それは、担当していた連中の無能を証明する形になり、私はさらに敵視されることになった。

 その結果がこれだ。

 吉田はこの件に一切かかわっていない。彼はただの窓際族で、雑用程度の仕事しかしていない。やらせてもできない。だが、内山課長の小間使いとしては重宝されている。

「吉田を課長に上げるのに必要なんだよ。お前は能力あるんだから、これからいくらでも成果を上げられるだろ。あいつは能力がないんだ。譲ってやれ」

 当の吉田は、能力がないと明言されたのに怒る様子もなく、私をチラチラと見ていた。

 これで五回目。

 自分の成果を取り上げられたのは、事業部にいた時に二回、この研究所に来てからは三回。私は搾取されるばかりで一度として正しく評価されたことはない。

 いくらでも成果を上げられる?

 この搾取されるだけの状態は、ここにいる限り将来に渡って変わる見込みはないだろう。

 私は暗澹とした気分で席を立ち、実験棟に向かった。

 外は雨が降っていた。

 土砂降りだ。

 まるで自分の心のよう。

 実験棟に着くと、私はちゃぷちゃぷと音を立てる靴を脱ぎ、靴下も脱いだ。

 本来ならここでスリッパを履くが、ここの使い古されたスリッパは水虫がうつりそうで、素足で履く気にはならない。

 私は素足のままぺたぺたと足音を立ててクリーンルームの前室に向かった。

 更衣室は無人。クリーンルーム内も無人。隣接する薬品室も無人。

 周りには誰もいない。

 私は上下の社服を脱いで下着姿になり、そのまま無塵服を着た。濡れたズボンはハンガーにかけ、半開きにしたロッカーの扉にぶら下げた。

「結城さん、凄い雨ですね」

 振り返ると恵子がいた。

 クリーンルームの更衣室は男女共用。服の上から無塵服を着るので、男女別にする必要がないのだ。

 小池恵子。

 どちらかというと、見た目は不細工だ。ちょっと豚鼻で、癖毛、色黒。だが、愛嬌がある。私はそんな彼女に魅かれていた。

「ああ、酷かったね。ぐしょ濡れだから、脱いで乾かしてるところ」

「ひょっとして、その下は下着?」

「見る?」

「あー、セクハラだぁ」

「ちょっと、いじめないでくれる?ただでさえ、内山課長にいじめられて泣きそうなんだから」

「よしよし。頭なでなでしてあげるぅ」

 そう言って、彼女は頭を撫でるふりをした。

 だが、実際に触れることはない。

「それより、濡れたままだと風邪ひくよ」

「あたしも脱いで無塵服着よっと」

 彼女はそう言って、自分のロッカーのドアを開け、無塵服を取り出した。

 だが、ここで着替えず薬品室に向かう。

 そして、ドアの前で振り返る。

「覗くなよ」


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