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生きていてほしいから(1)

 幼い子どもは――一部の大人もだが――暗闇を恐れる。それは母親の胎内にいた記憶がおぼろげに残っているから。

 私はそう考える。

 心地良い寝具を表現するとき、母親の胎内にいるようだ、などと表現する者がいる。だが、それは間違いだ。暗く狭いところに独り閉じ込められるのは拷問。人が狂う可能性が高い拷問。胎内とはそういう環境なのだ。

 この世に生まれ、感覚器官と脳が機能し始めたとき、その拷問が始まる。その拷問は、ただそれだけでは終わらない。なぜなら、胎内にいる子どもは、生まれる前にいた世界――『あちら』につながっているのだから。

 あなたは眠りに入る瞬間を知っているか?

 健康な人間なら、憶えていないだろう。

 しかし、高熱に耐えている時、肉体や精神の限界が訪れた時、泥酔している時、その瞬間を体験することができる。

 現実に夢の世界が重なる瞬間を。

 あなたが現実と思っている世界と、夢だと思っている世界が重なる。

 夢と現実の境がなくなる。

 そこでは、あなたの思考がある程度世界に影響を与える。強く望むもの、あるいは恐れるものが現れるだろう。そのとき持っている悩みが反映するかもしれない。

 その中途半端な状態では、あなたの霊体は肉体から若干ずれた位置にあるので、あなたの身体は動かない。それがいわゆる金縛りの状態。

 胎内ではずっとそんな状態なのだ。

 あなたはふと考えてしまった恐怖から逃げ出すことはできない。

 胎内は暗闇。光の中に逃げることもできない。もしも恐ろしいことを想像してしまえば、あなたは母親の胎内で地獄を体験し続ける。

 恐怖が臨界を迎えたとき、あなたの精神は壊れ、この世に生まれる以前の記憶を失ってしまう。こうしてあなたは幼児退行する。あなたは赤子として『こちら』に存在を確定させる。だが、あなたは完全に忘れ去ることはできない。何かを微かに思い出し、あなたは暗闇に恐怖を覚え、泣く。それが子どもの夜泣きというものだ。


 目覚めたとき、私は自分が誰なのかも思い出せなかった。

 それほど深い眠りだったのだろうか。

 あるいは、『あちら』のかなり深い所まで潜っていたのだろうか。

 今回の夢は、前世で死ぬ瞬間のものではない。

 そのあとのもの。

 生まれる直前の夢だ。

 だが、その前にも夢を見ていた。

――あれは……。

 夢の中で、私は老人であった。

 孫娘と楽しい時を過ごしていた。

 しかし、事故に遭って孫娘を失った。

――あれは現実だった。

 私の十数年後?

 未来?

 私には、どうしてもあれが現実だと思えてならない。

 これから熊の頭をした者と出会い、敵対するのか?

 夢の記憶は私の心をかき乱した。

 そして、心の乱れは身体にも影響を及ぼす。

 この数日、何となく身体がだるく、気力も減退していた。

 しかし、私は体調が悪化する気配を無視した。

 いま、私はそのツケを支払っている。

 頭痛がひどい。

 吐き気が周期的に押し寄せて来る。

 熱もある。

 滝のように、とは言わないまでも、大量の汗が流れ出る。

――布団が湿る。

 ただでさえ身体がべとべとしているのに、布団までべとべとになってはたまらない。 

 そう考えた私は、風呂に入ることにした。

 いまは真冬。布団から出ると、エアコンを消したままの部屋は冷え切っていた。身体の汗が急速に冷却される。しかし、私は堪えて風呂に向かった。

 風呂場はさらに冷えていた。きっと十度を下回っている。ここは安アパート。気密性はあまり良くない。冬場は寒冷地獄だ。

 私は浴槽に栓をし、急いで湯を入れた。そして、冷蔵庫に貼りつけてあるキッチンタイマーを手に取ると、八分にセットする。このアパートは、先月まで住んでいたマンションと違い、風呂に追炊き機能が付いていない。かつての便利な生活を思い出し、風呂に湯を張る度に、自分が落ちぶれたことを実感する。

 私は急いで和室に戻り、布団をかぶった。

 少しの時間出ていただけなのに、布団の中はすでに冷え切っていた。

 震えが止まらない。

 意識が遠のく。

 いまうっかり眠ってしまうと、湯が溢れて面倒な事になる。

 眠るわけにはいかない。

 そもそも、こんなに寒い中で眠ったら――

 絶対に眠るわけにはいかない。

 私は震えながら待った。

 八分が過ぎ、私は震えながら服を脱ぐ。

 震えはさらに大きくなる。

 私はもう若くない。そんな風に思いつつ、湯船に飛び込んだ。だが、思いのほか温かく感じない。冷えた身体によって、湯の温度が急速に低下したのではないか。そんな風に感じられる。湯を継ぎ足せば良いのだが、このときは気が回らず、そのままじっとして身体が温まるのを待っていた。

 そうしている内にも、徐々に視野が暗くなっていく。

 魂が半分だけ身体からずれ、『あちら』方向にはみ出しているようだ。

 そして、門が開いた。

 忘れていたいくつもの前世の記憶が漏れ出して来る。

 何か大切なことを思い出しそうだ。

 しかし、それを思い出す前に、胸が苦しくなる。

『あちら』には、時の彼方で失ってしまった、何か大切なものの記憶が残っている。

 それを思い出す前に、はっきりしない記憶の残滓が私を責め立てる。

 郷愁。

 喪失感。

 後悔。

 強烈な感情が押し寄せる。

――苦しい。

「恵子……」 

 私はすでにこの世にいない、かつて愛した人の名前を口にした。


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