因果
「じいちゃん、相変わらず行き詰ってるみたいだね」
ミヤは私の家に来るなりそう言った。
「ツーリング行こう、ツーリング。久しぶりにバイク乗せてくりー」
こうして、私は後ろにミヤを乗せて富士山へ向かうことになった。いまは246を西に走っているところだ。
「おー、ポルシェ。かっちょええ。うっ、でも、運転してるおっちゃん、腹出てるわー」
インカムを通してミヤの独り言が伝わって来る。ちょっとうるさいが、孫の声を聞いていると何故かにやにやしてしまう。ヘルメットがフルフェイスでなかったら通行人に通報されかねない。
「山っぽくなってきましたー」
道志みちに入ると、ミヤの独り言は風景の解説に変わった。
「休憩する?」
道の駅手前で聞いてみた。
「うーん、まだいい。あそこ、前に来た時さー、ひっどい行列だったもん。あれはヤダ」
――別の道の駅で良いか。
数十分後、二人は浅間神社にいた。
参拝を終えて――
「この神社、どう思う?」
「結構大きいし、由緒がありそう」
「何か気がつかない?」
入口の鳥居まで戻ったところで、私はミヤに聞いてみた。
「えー、わからん」
「あそこ、気にならない?」
私は右手にある小道を指差した。
「出口じゃないの?」
「そうかな?ちょっと行ってみよう」
私はそう言って歩き出した。
「あっ、別の神社があるんだ。こんなのわかんないよ」
その道の先には諏訪神社があった。ミヤが言うように、ほとんどの人は気がつかずに帰って行く。
「敗者の扱いって感じだよね」
「この神社の神様って負けたの?」
「相撲で負けったっていうのが子ども向けの話で、手足をもがれたっていう残酷な話が正式な方」
「ふーん。でも、この隠された神社の演出は神秘さマシマシでアリだと思う。結界で隠された聖域、みたいな」
「確かに。入口の神社より雰囲気があるね」
私とミヤは諏訪神社を参拝し、駐車場へと戻った。
「昼飯は蕎麦で良い?」
「じいちゃんの行きつけの店?」
「そうだね。あそこの蕎麦を知ったら、江戸前の蕎麦なんて食えなくなるよ」
「ほー、ずいぶんな自信よのう。わらわの舌を満足させてみせよ」
その店は些かわかりにくいところにある。交通量の少ない通りから、知らないと見つけられない細い私道を登っていく。その私道の終点に目当ての店はある。外見は古民家の趣。中に入ると昭和の山小屋を思い起こさせる雰囲気だ。
席につくと、ミヤは慣れない雰囲気に落ち着かないらしく、あちこちを見回していた。
「お待ちどうさま」
私とミヤの前に、ぶっかけの大盛が来た。
「いっただきまーす」
ミヤはすぐに食べ始める。
「あっ、ちがうね。初めての食感だよ」
「蕎麦が生きてるって感じでしょ?」
「うん」
ミヤはしゃべらなくなった。蕎麦を味わうのに専念したいらしい。
そして、食べ終わると、「じいちゃんさあ、もっと早く連れてきてほしかったよ。おいしい店の独り占めはダメだよ」と、叱られてしまった。
店を出た後、忍野を経て山中湖に近づくと、ミヤは声を上げた。
「おー、すげえ、一面花だよ」
「寄ってく?」
「もっちろん」
花の都公園。
ここは富士山を背景に、季節の花が咲き乱れる名所だ。いまは色とりどりの百日草が咲いている。
「じいちゃん、美少女撮影会だよ。カメラ出して」
私はミヤの指示に従って何度もシャッターを押した。
ミヤが満足するまで、その作業は30分以上つづいた。
「つぎはスイーツだー」
ミヤは私の手を引き、施設の中に入って言く。
「おー、信玄餅のソフト。あれいこう。じいちゃんにもおごってあげる」
ミヤはポケットから小さながま口を出した。
――何でがま口?
私はそう思ったが、口には出さなかった。
帰り道、後ろでカクンという動きがあり、ミヤのヘルメットが私の後頭部にぶつかる。
「眠いの?寝るなよ」
私はそう言って、自分の腰にまわされているミヤの手を軽く叩いた。
「大丈夫ー」
「どっかで休憩する?」
「ん、いい」
ミヤはそう答えたが、眠そうだった。
「コーヒー飲みたいからファミレス行かない?」
私は気を利かせて、自分からそう言った。
「じゃあ、チョコパフェおごって」
「おー」
246をもう少し行くと、左手にファミレスがある。私はそう考え、左に車線を変えた。
そのとき、後ろから白い商用バンが車間を詰めて来た。パッシングをしながら蛇行している。バイクのミラーには、運転する作業着姿の中年男と助手席に置かれた熊のぬいぐるみが映っていた。
私はスピードを上げる。だが、後ろの車も加速して車間を詰めて来る。
――これ以上スピードを上げるのはまずい。
道が混んでいれば、車の間をすり抜けて、煽って来る車を撒くのは容易だ。
だが、こんな時に限って道は空いている。
何度か車線を変えても煽りは続く。
「じいちゃん、怖い……」
ミヤが囁くように言う。私の腰にまわされたミヤの手が震えている。
私は、ぽんぽんとその手を叩いた。
脇道に逸れるか。
そう思い、私は減速した。
その減速を挑発と受け取ったのか、後ろの車は減速せずに突っ込んで来た。
私の身体は宙を舞い、一瞬、相手の車が視界に入る。
そして地面にたたきつけられた。
ぬいぐるみだと思っていたのは、熊のマスクをした人だ。
いや、ちがう。こちらを指差しながら、熊の口が動いている。
マスクじゃない。
アスファルトが身体を削る。
私はミヤに手を伸ばす。
車はブレーキをかけず、そのまま突っ込んでくる。
「おとうさん……」
最後にヘルメット内のスピーカーからミヤの声が聞こえた。
私は夢を見ていた。
いや、夢こそが現実。
これまで現実と思っていたものが夢なのだ。
真実の世界は混沌の中にある。
そこには過去も未来もない。
周りは望むものあるいは恐れるものに変化する。
人が現実と呼ぶものは、その中に生まれた泡。
その泡の中は、一見して秩序があるように見受けられる。
だが、混沌の影響を受けないわけではない。
現実だと思っていた世界は、いくつもの泡がぶつかって成長した世界。ひとつひとつの泡は、混沌の影響ゆえに、繰り返し書き換えられて独自の層構造を持っている。泡と泡との間は断層のようになっている場所もある。
夢の中――『あちら』の世界にいるとき、私はこの世の秘密に触れている。しかし、その知識は、目覚める過程でいつも失われてしまう。目覚めてぼんやりと憶えているのは最後の場面だけ。
『あちら』の世界で私がいる場所。
それは現世――『こちら』の世界――の欠片からできた私の居場所。
歳とともに広がっていく私の領域。
そこはたぶん死後の私が暮らす場所。
私はそこでミヤを探していた。
最後の『おとうさん』という言葉は、たぶん私のことだ。
私がミヤだと思っていたのは、遠い何処かで別れた私の娘。
その魂か魄の欠片だろう。
彼女は私を見つけてくれたのだ。
今度は私が――