孫との語らい-1
私は布団の中で目を覚ました。夢の中でミヤと気になることを話していたような気がする。
――思い出せない。
だが、そろそろ時間。考えている時間はない。ミヤが来るまでにパンを焼いておかなければならないのだ。
「ところでさ、冷蔵庫に入ってるタッパーって何?」
ミヤには私の食生活をチェックする習慣がある。
「あれはマドレーヌになりたかった何か、かな」
それはきのう試作したもの。失敗作だ。スチームオーブンレンジの取扱説明書にあったレシピ通りに作ったつもりだったのだが。
「でも、味は悪くないと思うんだ。食べてみる?」
「じゃあ、いっただきー」
もぐもぐと咀嚼すると、ミヤは目を見開いた。
「何これ、おいしいっ。マドレーヌじゃないけど」
「練らずに木ベラで混ぜろって書いてあるところを泡だて器で混ぜちゃって……。逆に、最初に卵を泡立てる部分がちょっと不十分だったみたい」
「それでぬれせんべいみたいなんだ。洋菓子だからぬれクッキー?でも、マドレーヌより洗練された感じの味だね」
「砂糖と卵少なめにして、レモンとバター増量したんだ」
「マドレーヌってぱさぱさしてるし味がくどいから、こっちが正解だよ。ねえねえ、残り持って帰っていい?」
「いいよ」
「にゅふふふふ。あたし、じいちゃんの孫で幸せだよ」
そう言いながら、ミヤはタッパーを冷蔵庫に戻し、代わりにかたいパンをかじり始めた。
「そういえば異世界モノでさ、料理で無双するのとかあるじゃん?で、二次発酵すればフカフカのパンができるって言うのが定番だけど、これ、二次発酵してないの?」
「してるよ」
「え、じゃあ、あれ嘘なの?」
「二次発酵は理由の一つだけど、それだけでふかふかにはならないんじゃないかな。水の量や捏ね方も影響あるみたいだし。あと異世界なら小麦粉の品種とかイースト菌の種類とかも問題になりそう」
「うーん。異世界転生の夢が崩れていく……」
「転生って……。ミヤに死なれたらじいちゃん泣くよ」
「ふふーん、じゃあ、じいちゃんも長生きしてね」
「わかりました」
「ところでさ、じいちゃん、何書くか決めたの?」
「うん、だいたい決まってきたかな。プロットよりも、情報で読者を惹きつける小説に挑戦してみようと思う」
「情報って?」
「この世の秘密」
「たとえば?」
「現世と死後の世界とか」
「仏教とかの話?」
「じゃなくて、自分の体験ベース」
「あー、じいちゃん、枕元にノート置いて見た夢を記録してるもんね」
ミヤの目には憐れむような色が浮かんでいるように感じられた。
「あと、グノーシスとかバルドソドルを組み合わせようかと思ってる」
「グノーシスは名前だけ知ってるけど、バルドソドルは知んない。何それ?」
「バルドソドルは通称チベットの死者の書って言われてる。死んだらどうなるかが具体的に書いてある本」
「地獄がどうとかっていう話?」
「その前段階の話かな。死後三日半は幻覚を見ている状態で、そのあといろいろな神様が順番に迎えに来るって話。死んでからの攻略本だね」
「ということは臨死体験って幻覚なの?」
「そういうことになるかな」
「その本ちょっと読んでみたい気がする」
「本棚にあるよ」
「じゃあ、あとで見てみる。で、グノーシスは?」
「定義としては光と闇の戦いの話ってことになっているけど、キリスト教のグノーシスは、無能な神が世界を作ったから酷い世の中なんだっていう批判一色というか……」
「それって悪魔信仰とかなの?」
「そうじゃないよ。いろいろ調べたら、イエスの教えはグノーシスの方が正統派だって思えて来るし」
「どういうこと?」
調べていくうちに、私は、外典であるトマスによる福音書の方が正典よりも正しいのではないかと考えるようになった。トマスはイエスの双子の兄弟である可能性が高い。実際に、いまは削除されてしまったが、古い正典にも、『双子なるトマス』という記述があったのだ。
そのトマスによる福音書はグノーシス派に分類される。つまり、正典とは反対の方向を向いている。外典のいくつかでは、マグダラのマリアがキリストの妻であり、ほかの弟子よりも重用されている。彼女は売春婦などではないのだ。こちらの記述が正しいと仮定すれば、正典派が推すイエスの弟子たちはイエスの敵で、現在のキリスト教は反キリストということになる。
考えてみれば、すべての弟子がイエスを裏切ったのに、正義面をしてユダだけを責める連中は、日本人の感性からすればクズ以外の何物でもない。そんなクズどもが聖人として扱われているのだ。キリスト教がさまざまな問題を引き起こして来たのも頷ける。そう考えてしまう。
「よし、じいちゃん、キリスト教に喧嘩を売るのだ」
「売ったら消されるかもよ」
「またまた」
「いやいや、キリスト教界隈って、結構ヤバいと思うんだ」
「たとえば?」
「二十世紀になっても異端狩りとかしていたんだよ」
「ほー」
「それに、以前、徳富蘇峰が書いた近代日本国民史の初版本に、キリスト教の奴隷売買について書かれていたって発表されたんだけど、すぐに間違いだったって削除されたんだ。理由説明もなしに全サイトであっという間にだよ。普通、間違いなら根拠を書くし、反対意見もあるはずなのに、全サイトで理由も示さず消されたんだよね」
「ほう、陰謀の臭いがする。うん」
「でもさ、奴隷売買でもめた話なんかはイエズス会の年報にも書いてあるから、キリスト教が奴隷売買していたのは隠しようがない事実なんだけどね」
「そうなんだ。でもさ、キリスト教が奴隷売買をやってたのなら、なんで黒人のキリスト教徒がいるの?」
「そこ、不思議だよね。カルトの洗脳みたいなものかな」
「ふっふっふ。世界的陰謀ですな」
『一般の死者がそうであるように、たびかさなる導きにもかかわらず死者がカルマのためにバルド存在の四十九日間を通過しなければならないとすると、まず最初に「平和の神々の夜明け」が次第に明らかになって来る。この七日間に彼が出合い、勝利を得ようと企てねばならない毎日の試練が説明される。第一日目は、彼が死んで再誕生へと逆行している途上にいるのだと目覚める死後三日半から四日目である』
バルドソドル 第二章(一)序