4 惚れた理由編 ※
冷蔵庫を開けた秀行は小さな溜め息を漏らした。
「カツ…」
「おぉ、なんだ?」
「卵買ってきてくれないか?」
「卵?」
「ああ。買い忘れた…」
「マジ? オムライスに卵がなかったら、ただのチャーハンじゃねーか!」
克己からの夕飯のオーダーはオムライス。急なオーダーなら〝仕方ないだろ〟と言えるが、三日前からのオーダーではそうも言えまい。
「だから、買ってきてくれって頼んでるだろ? オレは、その間に野菜を切って炒めておくから」
秀行自身が買いに行ってもいいが、腹を空かせた克己にとっては一分でも早くご飯が食べたい。ならば自分が買いに行ってる間に他のものをこしらえてもらっている方が、断然いいのだ。
「だぁ~、しゃーねーなぁ…」
秀行に財布を渡され渋々立ち上がった克己が玄関のドアを開けた時、外からドアノブに手を掛けようとしていた直哉が現れた。
「ビ、ビックリしたぁ~」
「オレもだ」
「あ、夕飯、もうちょい遅れるぜ」
「なんでだ?」
最近は会社の帰りに直哉が寄る。一人で食事するより楽しいからだ。秀行も克己も、それをごく自然のように受け入れていた。
「ヒデが、卵買い忘れたんだよ。三日前からオムライスが食いてぇーって言ってたのによ…」
「──で、今から買いに行くのか?」
「ああ」
「そっか。んじゃ、気ぃ付けろな」
さっさと家に入り、靴を脱ぎだす直哉。
「え…? 山ちゃん、行かねーの?」
「なんで? カツが頼まれたんだろ?」
「いや、そうだけどよ…」
「オレは、秀行と一緒にいるほうがいいからなぁ」
──と、なんとも意味ありげな言葉を吐く。
(うげっ…山ちゃん、ヒデを狙ってやがるな…。そうはいくかよ!!)
「山ちゃんも買物に行くんだよ! いっつも夕飯食いにきてんだから、それくらいしろよな!」
「おぉ…。珍しく筋が通ってる…」
〝そう言われては仕方がない〟と、直哉はキッチンに向かうのを諦め再び靴を履き出した。
「しゃーねーなぁ。んじゃ、とっとと済ませようぜ」
「よっしゃぁ!」
とりあえず秀行と二人っきりにさせないことに成功した克己は、ホッと胸を撫で下ろしスーパーへと向かった。
歩き始めて一分もすると、克己は前々から聞きたかったことを直哉に尋ねた。
「山ちゃんってさぁ、何でそんなにヒデが好きなんだ?」
「ばぁ~か、好きじゃなくて惚れてんだよ」
直球に直球で返され、思わず照れてしまう克己。
「そ…んなの、どっちでも同じじゃねーか…」
「そうか? 男が好きになる男ってゆーより、男が惚れる男ってゆー方がカッコ良くねぇ?」
「あ…あぁ~、そー言われれば…」
「──だろ? 他のヤツがどー思うか知らねーけど、オレの中では同性同士の〝好き〟はあっち系で、〝惚れる〟っつーのはまた違うわけよ。目指すものっつーのかなぁ」
秀行がいないからか、直哉は珍しく真面目に答えていた。そんな直哉を見るのは、克己にとって初めてのことだ。
「ふ~ん。んじゃぁ、山ちゃんはあっち系じゃないんだな?」
「──ったりめーだろ。最初に秀行が言った通り、完全なノーマルさ」
「へ…ぇ。じゃぁ、何でそんなに惚れたんだよ、ヒデに? 口数は少ねーし、無表情だし、ケンカはしねーし、天然まで入ってるしよ…。どこを選んでも、目指すものってなさそーだぜ?」
「それがいいんじゃねーか。噛めば噛むほど味があるっつーかな。意外性だらけで面白い。──まぁ、だけど惚れたキッカケっつーのは、やっぱ高校の時かなぁー」
「高校? その時になんかあったのか?」
「ああ。オレにとっては人生の転機よ」
「なんだ、それ?」
「ききてぇ?」
もったいぶるように問いかければ、普通の男なら意地でも〝別に…〟と返してくるのだろうが──
「おぅ、ききてぇ!!」
素直に答える克己の目は興味津々。そんな目を向けられては話すしかないだろう。
直哉は、一度空を仰ぎ見てから大きく息を吸い込んだ。
「オレの親…実は、ヤクザなんだ」
「えっ…マジッッッ!?」
「ああ。ヤクザの現役親分さん」
「へ…ぇ。──あ、もしかして山本組じゃねーよな!?」
同じ〝山〟が付くからか、咄嗟に思い浮かんだのはいつぞやの山本組。できるならそうであってほしくないと願い、語尾にも力が入る。
克己の僅かな心配は、ありがたいことに即否定された。
「あんなのと同じにされたかねーな。同じヤクザでも〝格〟が違う」
「そ、そうか…そうだよな。あいつらは最悪だ!」
礼儀も何もあったものじゃない…というのは、過去の出来事で身を持って体験した克己だ。〝おっちゃん〟はどうであれ、今の山本組は〝悪い〟としか言いようがない。
まぁ、ヤクザ相手に〝礼儀〟を求めるのもおかしな話だろうが、本物の出来たヤクザは素人には手を出さない…というぐらいの事は、克己でも知っていることだった。
「──けど、山ちゃんの親父さんがヤクザなんて─…見えねーよな?」
「それは、オレのことか?」
「ああ。どー見ても、フツーの家庭で育ったみてーだ。ヒデと出会った時の屋上の話もそうだけどよ、正義の旗、掲げてるじゃん」
「まぁな。ヤクザっつっても、ヤクザらしからぬ正統派だったからなぁ~。ま、今のヤクザがタチ悪いだけかもしれねーけどよ。礼儀もしつけも厳しかったのは確かだな」
「へぇ。──それで?」
克己にとっては極々当たり前の言葉だったが、直哉は少々拍子抜けた。──というより、妙に嬉しかった。
(──ったく、この反応どうよ?)
言葉こそ違うが、〝そんなことは俺の知ったこっちゃねぇんだ。とっとと先を話しやがれ〟という意味には違いないだろう。
(ほんと、いい性格してるよ。お前ら二人は…)
思わずフッと笑った所で、直哉は再び口を開いた。
「ヤクザの息子ってだけで周りの反応はみな同じさ。オレがどれだけフツーにしてても、寄ってくる奴はいない。父親のことを隠して仲良くなった友達がいても、バレたらそれで終わり。だーれも、近づいてこねーんだよな。どれだけ隠そうとしても、学校の行き帰りに車に乗せられたら意味がねえ。黒張りの車にフツーじゃない格好の大人。嫌でもバレるわな」
「車の登下校か…。羨ましいぜ…」
ボソリと聞こえたその言葉に思わず笑いたくもなるが、直哉の中では安心感の方が勝っていた。何を聞かされても〝動じない〟という安心感だ。
「あ…じゃぁ、昔は友達いなかったんだな?」
「ああ」
「──けどよ、親父に言やぁいいじゃねーか。〝一人で学校行く〟って」
「言ったさ。言ったけど聞くわきゃねーだろ。職が職だけに、いつどこで命狙われるかわからねーんだからよ」
「あぁー、そうか…。じゃあ、車の男と話つければ? 表面上は送迎してるように見せかけて、裏で話し合わせてもらったりしてよ…」
「それもやったさ。けど、〝親分の命令に逆らうことは出来ません。万が一、坊ちゃんに何かあったら自分の命だけじゃぁ足りないんです〟なぁーんて言われてみろよ。それ以上、頼めるか?」
「うぅ~ん…。坊ちゃんかぁ…」
──と、これまたズレた観点からの呟き。しかし直哉は気にしなかった。
「ほんと、参るよなー。オレの我がままのせいで、命落とされてもなーって思うだろ?」
「確かになぁ~。──で、そっからヒデとはどう繋がるんだ?」
「だから、高校の時さ。高校になってまでもそんなことされてたまるか…って思ってたからよ、家からかなり離れた所に通うことにしたんだ。けど、親には内緒」
「内緒?」
「ああ。まったく正反対の場所にある学校名を教えた」
「でも送ってくれるんだろ、その学校に?」
「まぁな」
「んじゃ、すぐバレるじゃねーか」
「一応、部活の朝練あるからってことで早めに家を出て、校門の前で別れてから、即行、本来の学校に通ってたんだよ。わざわざ他校の制服まで用意してだぜ?」
「マジ!? すっげーな」
「まぁ、意地だわな」
「へぇー」
「けど、やっぱいつかはバレるんだよなぁ。行きはまだしも、帰りになると学校とは違う方向からオレが走ってくるのを見つけてよ。数回は何とか騙せたんだけど、どうもおかしい…って事になって、あっちゅー間にバレたってわけ。──で、オレが通う学校を突き止めた親父の舎弟が、前みたいに学校に来るようになったんだよ。朝だけは勘弁してくれっつったけどな」
「ふぅ~ん」
「そうなると、学校側も周りの連中も手の平返したように変わった。それまで結構な人気者だったんだけどなぁ。いやほんと、あの時はマジ、ムカついたわ。気ぃ遣う奴もいたし、オレから距離を置いた奴も大勢いたしな」
「じゃぁ、ヒデは?」
「あいつは…なんも、だな」
「なんも?」
「ああ」
直哉はもう一度大きく息を吸い込むと、その時のことを思い出しながら語り始めた。
それは秀行と直哉がツルみ始めたころ。高校一年の九月だった。
屋上から金網越しに校門を見下ろせば、見覚えのある顔と黒張りの車が一台。
「──っくそ、あいつら…」
腹立たしいやら悔しいやらで、金網を掴む手に力が入ると同時に感情を言葉にしていた。そんな時、不意にペラリと軽い音が聞こえてきた。振り返ると、いつもの場所にいつも姿がある。熱く怒りに満ちた直哉とは対照的に、涼しい顔で本を読んでいるのは秀行だ。涼しいというより、無表情さゆえの冷ややかさだろうか。秀行の姿を目にした途端、直哉は冷静さを取り戻し始めた。
「よぉ、秀行。今度は何の本だ?」
「精神破壊ホラー」
本から顔も上げずに、いつもの口調で答える。
「あ…そう」
「探偵シリーズは今日だ」
「あ…?」
「今日が発売日」
「あ、ああ…そうか。あぁ~、でも今日はやめとくわ」
「…そうか」
直哉は、以前から秀行がよく行く本屋に連れて行ってくれと頼んでいた。本をよく読む秀行から、何気に奪い取って読んだのは探偵シリーズ。その面白さにどっぷりハマってしまったのだった。
「ワリーな。また今度つれてってくれ」
「…………」
本読みに夢中なのか、〝イエス〟とも〝ノー〟とも返ってこない。〝少し黙ってくれ〟という意味か…と思い、それからしばらくは直哉も黙っていた。しかし、それは長く続かなかった。聞きたい事があるなら尚更のことだ。思ったことを口にする直哉にとって、欲求を我慢するなど、どだいムリな話だろう。
「な、なぁ…秀行…?」
「なんだ?」
「お前はその─…距離 おいたりしねーの?」
「…何から?」
「いや、例えばヤな奴とか、あぶねー奴とかから──」
「しない」
秀行が被せるように言った。
「なんで?」
「オレが距離を置く前に相手が離れる」
「あ…ああ、それもそうか」
「それに、寄ってくるような珍しい奴も殆どいないしな」
(そりゃ、オレのことかよ?)
そうは思ったが口に出すのはやめた。それよりも話を進めたかったからだ。
「──けど、そいつがすんげー変わっててよ…秀行は離れたいのに、そいつが意地でも離れなかったら?」
「関係ない」
「は…?」
「離れるにせよ、離れないにせよ…オレにはそんな理由、関係ない。距離を縮めたのはそいつなんだから、オレがわざわざ動く必要もないだろ」
「あぁ~、そうねぇ~」
(それはつまり…別に、どうでもいいって事だよな…)
距離を置かれる寂しさは、嫌になるほど経験済み。慣れたといっても過言じゃないだろう。だが〝どうでもいい〟と思われるのは、初めての寂しさだった。
直哉が黙れば、秀行もそれ以上の事は話さない。
しばらく無言の状態のまま続いていたが、不意にパタンという音が静寂の中で聞こえた。
「帰る」
振り返れば、秀行がカバンに本をしまい立ち上がるところだった。
「あ、ああ…」
非常階段に向かう秀行の背中を何気に見送っていると、秀行の足がふと止まった。
「直哉」
「…んあ?」
最初に話しかけた時と同様、こちらを振り返りもせず話し始める。
「オレの性格、調査済みなんだろ?」
「…ああ」
確かに調査済みだった。ウォークマンの一件以来、秀行に興味を持った直哉は、接するたびに新たな性格を発見していったのだ。だからこそ、面白い奴だと知ってツルんでいる。
「面倒なことは?」
「だいっ嫌い」
「その通り。二度手間なんてもってのほかだ」
「あ…?」
「そういう事だ。──じゃあな」
それだけ言うと、さっさと非常階段を降りていった。
(わ、わけ分かんねぇ……)
意味も分からず再び校門に目を向けた直哉。しばらくすると、校門を出て行く秀行の後姿が目に入った。
(何を言いたかったんだ、いったい?)
背中にその答えが書いてあるはずもないが、なんとなく目で追ってしまう。そんな時、秀行の不思議な行動を目にした。
(なに…やってんだよ…? そいつらに近づいたら──)
それは、秀行が黒張りの車の横で立っている一人の男に近づいていく所だったのだ。思わず金網を握りその行動を注視する。握る手にも力がこもるが、秀行が男と二言三言 話をすると、何故か男は車に乗り込み走り去っていった。秀行もそれから何をするわけでもなく、一人さっさと歩き出した。
(な、なんだ…?)
何がなんだかよく分からなかったが、邪魔な相手がいなくなったのはありがたいことだ。とりあえず、秀行を追いかける直哉。校門から出て、最初の曲がり角を曲がった所で秀行に追いついた。
「ひ、秀行…?」
「なんだ?」
突然声をかけられたのに、秀行は至って平然と答えた。少なからず呼吸を乱す直哉とは対照的だ。まるで、直哉が走って追いかけてくることを予想していたかのように…。
「な、何したんだよ?」
「別に、ちょっと話しただけ」
「なんて?」
「〝山﨑直哉さんは、体調がすぐれないので二時間ほど前に早退しました〟」
「は…? も、もしかして…それだけ?」
「それだけ」
「…んなわけあるかよ?」
「……………」
平然としているその目を見て、直哉は悟った。
「マジ…なのか?」
「ああ」
「え…けど…そんな簡単な理由で…納得する奴らじゃねーのに…なんで……?」
「さぁな」
「さぁな…って………い、いや…絶対、何かあるはずだぞ。何か他にも言っただろ?」
強く問われ、一瞬 考え込む。
「フム…。言ったとすれば──」
「言ったとすれば…?」
「──名前だな」
「え…な、名前?」
「ああ。──それ以外はない」
「…………」
〝確かに、それ以外にはない〟と、直哉も思った。いや、もっと正確にいえばそれだけで十分だったのだ。
先に名前を名乗る…そのことだけで、秀行はあの連中に信頼されたのだった。
(は、はは…やってくれるぜ、こいつ…)
思わず口元が緩んでいた直哉に秀行が気付く。
「何かおかしいか?」
「あ…? い、いや…別に…。それより、なんでそんなこと言ったんだよ?」
「言ったろ。二度手間はもってのほかだって」
「は…?」
一瞬 意味が分からなかったものの、しばらく歩いてある場所に到着すると、やっと理解することができた。
「ま、まさか…秀行…?」
「なんだ?」
「本屋を教える為に…か?」
「ああ。今日が発売日だから、今日ここに来る予定だった。それ以外に、わざわざ足は運びたくない」
思わぬ返答に直哉は呆気に取られた。つまり、本屋を教える為にわざわざ出向くなんてごめんこうむる…ということなのだ。
「秀行…?」
「なんだ?」
「あ、あのよ…。別に…今度、秀行が本屋に行く時に連れてってくれれば良かったんじゃないのか? そーすりゃ…二度手間にはなんねーと思うんだが…?」
「……………」
無表情の顔からは、何を考えているのかは読み取れない。ところが次に返ってきた一言は、直哉を爆笑させた。
「……そうか」
(こ、この…天然ってば─…)
本を買い終わると、直哉は秀行のアパートに寄った。体調が悪いと言った手前、家に帰るのが当たり前なのだろうが、どうしても帰る気にならなかったのだ。結局、何とか理由をつけて秀行の家に泊まることになった。
電話をしたのは秀行の母親。
直哉の家庭の事情を聞いた母親は、さすが秀行の母親と言うべきだろうか、一向に動じなかった。それよりも直哉のことを気に入っていた為、〝これからも、よろしくね〟とまで言い放ったのだ。
受話器を置いた母親は、開口一番こう言った。
「さすが、本物は違うわねぇ。なんかこう…揺るがない鋼が一本、体の中を通ってるような感じで…今時いないわ、あんな男」 それは、どう間違っても非難している言葉ではなかった。褒めている。大いに、褒めている言葉だ。
その夜、二人は秀行の部屋で寝ることになった。暗い部屋が苦手な直哉だったが、弱点はまだ言えない。
部屋が暗いという事を誤魔化そうとして、頭まで布団にもぐりこむ直哉。その時、不意に秀行の声が聞こえた。
「直哉…」
「あ、ああ?」
「目には目を、歯には歯を…だな」
「な、なんだ…?」
「お前の親父だ」
「は…? わけ分かんねーんだけど…?」
「学生生活、今までと同じこと繰り返したくないんだろ?」
「それって、ヤクザにはヤクザ…ってことか?」
「いや。本物には本物を…だな」
「…………?」
「お前は、その親父に育てられたんだろ? なら、お前にも〝本物〟があるはずだ」
口数少なく、言い方も変化球。普通ならなかなか理解できないところだが、直哉は謎解きが大好きだ。故に探偵シリーズにハマったのだが…。
それ以上は何も言わず眠りに入った秀行。静かな部屋で、直哉は秀行の言わんとすることを理解した。
(本気でちゃんと話してみろってことか…)
暗くて顔も見えないというのに、なぜか秀行の感情が直哉の心に伝わってきた。
〝頑張ってみろよ〟
そんな言葉が、グルグルと頭の中で回っていた。
しばらくして秀行の寝息が聞こえてくると、あんなに苦手だった暗さが、驚くほどなんでもないもののように感じた。
暗さが苦手だった理由を、直哉はこのとき初めて知った気がした。暗闇がトラウマになるような実質的な経験はなかったため、自分でも不思議だったのだ。しかし、今は分かる。目に見える暗闇が問題ではなく、ヤクザの世界にいる自分が、普通の世界から一人隔離されている…そんな心の闇が怖かったのだと。けれど秀行の寝息が聞こえ、短い会話に隠された意味を理解した時、普通の世界にいると…いや、いれると思えた。
それ以来、誰かと一緒の部屋なら何の問題もなく暗くても眠れるようになったのだった。
その日をキッカケに、直哉は本気で父親にぶつかっていった。最初こそものの一分で交渉決裂状態だったが、次第に父親の方も直哉の本気を理解し、一ヶ月もすると黒張りの車は現れなくなった。そして直哉の高校生活が平穏に過ぎていったのだった。
誰もいない学校の屋上で、いつもの秀行と直哉がそこにいた。
「やっぱり、本物は違ったな…」
直哉に問いかける風でもなく呟いたのは秀行。
しかし、直哉の耳には届く。
「何のことだ?」
「親父さん率いる、ヤクザの連中」
「………?」
「センスが違ったからな…」
「はぁ…?」
「服のセンスだ。ヤクザの服のセンスは、そこら辺の不良より悪すぎだからな」
「…………」
「その点、本物のヤクザのセンスはオレも認めた」
「な、なぁ…お前…そんな事まで本物の基準に入れてんのか?」
「ああ」
〝絶対に外せない基準だ〟という言葉が聞こえてきそうなほど、秀行は言い切った。
「……は、はは…ぶわっははははははははぁー」
(なんかもう…よく分かんねーけど、サイコーだぁ!!)
直哉は、〝何がそんなにおかしい?〟という目を向ける秀行を見ながら、一人で笑い転げていった。
直哉の人生を大きく変えた、秀行の数少ない言葉。そして存在そのものが、直哉の目指すものになったのだった。
「──で、秀行に惚れたってわけ。マジに、こいつとダチになりてぇ…ってな」
「へ、ぇ…」
思ってもみない直哉の過去に、克己は少々驚いていた。
「──けど、安心しろ。惚れたっつっても、一人の男として人間的に惚れただけだからよ」
「あ、ああ。分かった…」
今や、直哉の気持ちが十分に分かった克己だ。自分が直哉の立場でも、やはり惚れるだろうと思ったからだ。それに山本組の一件で、秀行の顔が見えない時にも言葉だけで感情が伝わってきたのは、克己も経験済みだった。兄貴の〝優しさ〟に気付いて甘えられる自分がいるというのも、正直、よく分かっていた。
「なぁ、でも…ヒデはどうなんだろーな?」
「何が?」
「ヒデは、山ちゃんに惚れてんのか?」
「さーな。でも、気に入られてはいると思うぜ?」
「どうして分かんだ?」
「だって、オレ、最初に名前名乗ったもん♪」
「はぃ…?」
「あいつが、まったくの他人に興味を抱く基準、自分から名前を名乗ることなんだぜ」
「え…マジ…?」
「ああ。今時、珍しいからな、そーゆー奴も」
「は、はは…そんなことかよ…」
なんて単純なんだ…と言いたいところだったが、よくよく考えてみれば、自分も最初に名乗ってたような…。
そこに気付いた克己は、一瞬 呆れたものの、同時に安心もした。少なくとも自分は気に入られているんだ、と思えたからだ。
そして気分も疑いも晴れてすっきりした頃、目的のスーパーに到着した。
カゴを持ち卵を追い求めて歩き出せば、野菜売り場の近くでお目当てのものを発見する。
「おぉー、あった、あった ♪」
これだとばかりに手を伸ばした克己だったが、普通の卵の横で、見たこともないものを発見してしまった。
「すっげー!! なんだこの卵!?」
「なんだ?」
「ほら、これだよ、これ!!」
克己が手に取ったものにも驚いたが、それよりももっと驚いたのは克己のその反応だ。
しばらく黙っていた直哉だったが、
「それはな──」
──と言い始めると、そのあとの言葉は克己の耳元で囁いた。
「え…? マジ!?」
「ああ」
「へぇ…。これ、ヒデに見せたら驚くかな?」
「…ああ、多分な」
(買うまでの過程を話したら、おそらく、な)
なんて思いながら、直哉は必死で笑いを堪えていた。
克己はたまごのMパックを一つと、初めて見る小さな卵もカゴに入れレジに向かった。そして代金を払い終わると、なぜか楽しげに笑っている直哉と共にスーパーを後にした。
直哉に教えられた珍しい卵が手に入った興奮と、直哉への誤解が解けて妙に嬉しい克己。
家に着いた途端、克己は開口一番言い放った。
「ヒデ、ヒデ、珍しいもん買ってきた!」
「珍しいもの?」
「ああ。見て驚くなよ?」
〝ジャジャーン!〟と、自分で効果音を出しながら袋から取り出したのは小さな卵。
「……………」
驚くというよりは、驚く必要もない代物に秀行は声も出ない。
「ヒデ、すっげーだろ?」
「…どこがだ?」
「どこって…この卵に決まってんだろ。スズメだぜ、スズメ!」
「スズメ?」
「ああ。この辺によくいるスズメの卵だ」
言い切る克己に、秀行はこめかみを押さえ大げさなほど大きな溜め息をついた。
「な、なんだよ、その溜め息は…?」
「カツ…。この卵が置いてある所には、なんて書いてあったんだ?」
「なんてって…〝うずらの卵〟って…」
「だったらスズメじゃなくて、うずらの卵だろ?」
「だからぁ~、うずらの卵がスズメの卵なんだって」
「…………?」
「ヒデも騙されてんだよ。〝ウズラ〟は世を忍ぶ仮の名前で、本当はスズメなんだって! なぁ、山ちゃん!」
秀行を納得させようと後ろにいた直哉に問いかける。しかしそこには、声も出さずにお腹を抱えて座っている直哉が目に入った。
「…山…ちゃん……?」
「どぅわははははははははははははー!! いや…もう、だめ…く、くるしい…あはははははははははは~~……はぁ~はぁ~…もっ、面白すぎっ……」
この時になって、克己はようやく自分が騙されていたことを知った。
「──んのぉ~~!!」
秀行は、その後の二人のじゃれあいを横目で見ながら、さっさとオムライス作りに取り掛かり始めたのだった。