2 秀行のダチ編 ※
「おぉ~い、帰ったぞー」
大学から帰ってきた克己は、〝ただいまコール〟と共に玄関のドアを開けた。しかし、すぐに返ってくるはずの返事がないうえに、部屋の中はいつもと違って薄暗い。
「ヒデェ…?」
ポイポイと靴を脱ぎ捨てて電気のスイッチに手を伸ばせば、パチンと音がして克己の周囲が明るくなった。
自分の部屋に軽すぎるほどのかばんを放り投げ、一応電気をつけてみる。だが当たり前と言うべきか、誰もいなかった。
「ヒデェ…?」
どこからか秀行が顔を出すだろうと思っていたが、人の動く気配すらない。
(今日って、バイトの日じゃねーよな?)
そう確認しながら、秀行の部屋や、トイレや風呂まで覗いてみた。克己が覗いた後は、煌々と明かりがついている。
(ひょっとして、長い昼寝か?)
探す場所もリビングとキッチンだけになり、高い可能性が弾き出された。
リビングのソファで読書をするのが秀行の日課なのだが、時々、昼間の陽気に誘われて昼寝をしたりもする。たいがいは克己が帰って来る前か、遅くても帰ってきた時の音で目が覚めるのだが、稀に克己が起こしても起きない時があるのだ。そういう時の昼寝は、かなり長い。どれくらい長時間かというと…。
一度、いつまで寝るのかとそのまま放っておいたら、翌朝まで目覚めなかった。お蔭で克己の夕食はおあずけ。そのうえ起きた時の反応を見ようと決めていたため、一睡もできずに朝を迎えたのだった。もちろん、次の日の学校は休んだが…。
(長い昼寝なら、ぜってー起こしてやる。ハラが減って死にそーなんだ…)
リビングの電気をつけると、ソファの上でブランケットにくるまっている姿が目に入る。ジュニアも定位置とばかりにその上で眠っていた。
(やっぱ、昼寝か…)
「おい、起きろよ、ヒデ。勤勉な学生様が帰ったんだぞ。おい、ヒデ──…のわっっっ!!」
ジュニアを抱いてブランケットを剥がせば、そこに現れた見知らぬ男の寝顔に驚いた。
女でも驚くが、男はもっと驚く。
「お、おい…誰だよ、てめぇ…?」
恐る恐る──だが、少し乱暴に揺らすと寝ていた男が唸る。
「あぁ~~…もう少し…」
「……もう少しもくそもあるか…おい、起きろよ!!」
〝見知らぬ男が勝手に家に上がりこんだ上に、可愛いジュニアと寝てんじゃねーよ!〟
──と叫ぶ代わりに、ソファごと大きく揺らし男を床に落としてやった。
〝ドスン〟という鈍い音がして、ようやく男も目を覚ます。
「ってぇーなぁ…地震かぁ…?」
床で──とは言っても絨毯が敷いてはあるが──打った頭を抑え眠そうな目を開ければ、ソファの後ろで怒っている男が目に入る。
「あ? ──だれだ、てめぇ?」
「そりゃ、こっちの台詞だ。おめーこそ誰だよ?」
「おいおい、人に名前を訊く時は自分から名乗るもんだって習わなかったか?」
ゆっくりと起き上がりながら、男はバカにするような態度を見せた。
「てめーがゆー事かよ!? 人んち、勝手に上がりこみやがって…。空き巣狙いにしても、昼寝してるたぁ、いい度胸じゃねーか!」
「空き巣って…失礼なヤツだな…。だいたい、ここは秀行の部屋じゃねーのか?」
「それがどうした? 俺の部屋でもあんだよ──」
男の口から〝秀行の部屋〟と聞かされれば、誰だって秀行の知り合いだという事は分かるものだ。しかし、そんなことに気付くほど克己は冷静ではない。逆に男の方は落ち着いていて、ハタと何かを悟ったようだ。
「ひょっとして、お前あいつの…?」
「ああ、そうだ!」
「ウソだろ!?」
男は片手で顔を覆った。
「とうとう、そっちに走っちまったのか?」
「なに!?」
「──いや、確かに年下の男にはモテたが…まさか、あいつが…?」
「お、おい…?」
「だいたい、オレというものがいながらだな─…ああ、でもやっぱ年くうと年下の方が可愛く見えるってゆーしなぁ…」
「お…い、なんのことだよ…?」
〝何のことだ〟と問うてはみるが、さすがの克己もヤバイ方向の話になっていると気付き始める。
「よく見れば、かなりレベルは高いし…オレには敵わねーかも…」
品定めするようにマジマジと見つめられ、克己は気持ち悪くなって後ずさりした。
「よ、寄るな……だいたい…てめーは誰なんだよ…ヒデのなんなんだ…?」
さっきまでの怒りはどこへやら…気味の悪さに弱々しく質問する。しかし、その答えを聞きたいとは思わない。克己は自分の保身と癒しを求めるようにジュニアを抱きしめた。
(ヒ、ヒデ…お前ノーマルだっつったろ…?)
「…フム。こうして見ると、オレの好みでもあるかもな…」
(お、俺…なんか狙われてる…)
背筋がゾッとなり、ジュニアを抱く腕にも思わず力が入る。後ずさりしても、その分男は近づいて来る。今や背中は壁にへばりつき、逃げ場所がなくなってしまった。
男は壁に手をつき克己の顔に自分の顔を寄せると、耳元でそっと囁いた。
「お前さぁ…」
「な、なな、なんだよ…?」
背筋が凍りつく。
「…怒られるぞ」
「………は?」
克己の反応に、男がいきなり笑い出した。
「どぅわっはっはっはっはっはー!! おんもしれーな、お前って…」
「な、なんなんだよ…?」
突然の変化に、克己はついていけない。しかし、男はそんな克己の反応を楽しんでいた。
「あー…ははは、おもしれぇ……」
「だから──」
「だからぁ、怒られるって言ったんだよ…」
笑いを堪えながら、〝怒られる〟と言った理由を話し始める男。
「こんなに、電気つけてたら──」
──とそこまで言った時、玄関のドアが開いて買物袋を下げた秀行が帰ってきた。
「ヒデ──」
何が何だか分からなくなった克己が、ちょうど帰ってきた秀行に助けを求めたが…。
「おぉー!! 愛しの秀行ぃー、無事に帰ってきてオレは嬉しいぜー。来た時にはいなかったから、チョー寂しかったけどなー」
反応は男の方が早く、あっという間に秀行に抱きついていった。反射的に克己の体も動く。
「て、てめぇ…離れやがれ…! 変なバイキンが移ったらどーしてくれるんだっ…」
抱きついた男を秀行から必死で離そうとする克己。突然の事に、秀行はただ立ち尽くしていた。しかし、すぐに我に返る。
「おい、カツ…?」
「あ? ああ…俺も知らねーヤツなんだ…。帰ったらいきなりコイツがソファで寝てて──」
「そうじゃなくて──」
「な、なんだ?」
「使ってない所の電気は消せと、いつも言ってるだろ?」
「は…?」
「ほらな、だから言ったろ? 怒られるってよ」
(な、なんなんだ…この状況は…? どう考えても、第一声がそれじゃぁねーだろ!?)
そう言いたかったが、あまりにも思わぬ反応に声も出ない。
(天然にもほどがあるぞ、ヒデ…!?)
何も言えない状態では言われた通り電気を消すしかなく…克己は自分の部屋から秀行の部屋、玄関、風呂場…と順番に電気を消していった。そして途中、秀行は買ったものを冷蔵庫に入れながら一言付け足した。
「トイレも消せよ」
「…………」
返事の代わりに〝パチン〟と音がする。
「……ヒデ」
「ああ、すまんな」
リビング以外の電気を消し、ようやく秀行のもとに戻ってきた克己が口を開けば、秀行からは思ってもみない言葉が返ってきて、克己の心臓はドキリと鳴った。
(ま、まさか…ヒデ…?)
「ミンチと鶏肉が安かったからハンバーグにしようか唐揚げにしようか迷って…それで遅くなった」
「は…?」
聞かされた謝罪の理由に、一瞬思考が停止する。
「お、おい…そうじゃなくて…」
「なんだ?」
「いや、だから…この状況みて、なんかゆー事ねーの…?」
「…そういう事か」
「そういう事って…それしかねーだろ、フツーはよ…?」
「そうか?」
「そうだ!! ──ってか、だいたい誰なんだよ、コイツわ!?」
「あー、オレも聞きてーなぁ。この、面白いヤツだれ?」
カーテンを閉めながら、克己の質問に続いたのは見知らぬ男。一瞬窓の外を見た秀行だが、何を思ったか男にお礼を言った。
「サンキュー」
「ああ」
そのお礼が何に対してなのか、男も分かっているようだ。分からないのは克己だけだった。
「な、なんだよ…? 何、お礼なんか言ってんだ?」
「見ろよ。洗濯物取り込んで、ちゃんとたたんであるだろ?」
〝だから、お礼を言ったんだ〟と強く主張する。しかし、克己にとってそんなことはどうでもいいことだ。
「──ヒデ!!」
「ああ、分かった、分かった」
克己が痺れを切らした為、ようやく秀行も本題を口にした。
「カツ、コイツはオレの高校時代のダチだ。数少ない、な」
「な…ダチ…?」
「ああ。山﨑直哉だ。直哉、こっちは克己…オレの弟だ」
「お、弟ぉー!?」
「ああ」
「いつから…?」
「いつからって…カツが生まれた時からに決まってんだろ」
「マジ!?」
「オレがウソついてどうなる?」
「いや、そうだけどよ…。高校の時はいなかったじゃねーか…?」
「まぁ、それはちょっと事情があって別々で暮らしてたから──」
「…そうか。で、今は一緒に住んでんだな?」
「ああ」
「お、おい…ヒデ…」
直哉との会話が一段落して、克己が恐る恐る忠告する。
「コイツ、ヤバイぞ?」
「…何がだ?」
「あっちの気があるんだ。ヒデも狙われてるし…俺も──」
──とそこまで言うと、さっきの事を思い出して気分が悪くなった。秀行は、そんな克己の様子を見て溜め息をついた。
「直哉…」
「ああ?」
「その趣味、何とかならんのか?」
「だってー、面白れーからよー」
悪びれた様子もなく楽しそうに話す直哉。秀行は〝ぜってー、ヤバイ奴だ〟と、直哉から距離を置く克己に向き直る。
「安心しろ、カツ。直哉は完全なノーマルだ」
「けど──」
「あーやって、からかうのが趣味なだけなんだよ」
「なに!?」
〝マジかよ!?〟と直哉を睨めば、彼も〝その通り〟と頷く。
「…悪趣味」
「あん? なんか言ったか?」
「…いや、別に。──それよりよ、コイツがヒデとダチなのは分かったけど、なんで勝手に上がりこんでんだよ?」
もちろんその質問は秀行に向けられたものだが、答えたのは直哉だった。
「おい…年上に向かって〝コイツ〟はねーだろーが?」
「じゃあ、なんて呼べばいいんだ?」
「そうだな…。秀行をヒデと呼ぶなら、オレは〝ナオ〟だな」
「ナオ…?」
不思議そうな顔をする克己。
「なんだ、何か不満か?」
「いや、ただ女みてぇだなーと思ってよ…」
素直な感想を述べた克己に対して、今度は直哉が一瞬にして黙る。怒っているわけではなく、次の候補を考えているのだ。
「──んじゃ、〝山ちゃん〟ってのはどうだ?」
〝女みてぇ〟と言われて気にするのが直哉だ。
直哉の性格は、秀行と克己を足して二で割ったようなものだった。秀行のように真面目な顔して人をからかうが、彼と違う所はポーカーフェイスではないということ。面白いものは面白いと口に出して笑うし、人の言ったことは結構素直に受け止めるのだ。
「山ちゃんか…まぁ、フツーだな」
「フツーかよ…」
ちょっと、ショック気味…。
「──で、その山ちゃんが、なんで誰もいない家に入れたんだ?」
今度は、直哉へ直接質問した。
「そりゃ、お前─…て、オレはお前のことなんて呼べばいいんだ?」
半分どうでもいいような疑問が繰り返され、なかなか本題に入れない…。
そんな二人の会話を聞きながら、秀行はさっさと夕飯の準備に取り掛かっていった。それに気付いた直哉が、極々当たり前のようにキッチンに入り、秀行の手伝いを始めていく。
「別に、何でも。〝カツ〟でもいいし〝カツミ〟でもいいし─…何なら〝つっちー〟でもいいぜ?」
「つっちー? なんで、そーなる?」
「苗字が筒原だからだよ」
「なに!? 苗字が違うのか?」
「ああ」
「なんで? 腹違いの弟なのかよ?」
「ちげーよ。親が離婚して、それぞれ別々に引き取られたんだ。ヒデは母親だったから、佐々木秀行。俺は父親だったから、筒原克己」
「そうか…」
そう納得しながらも、〝筒原克己〟というフルネームを耳にして、どこかで聞いたような気がしていた。しかし、考えても浮かんでこない。こういう時は深く考えないのが一番だ。
「──で、なんで家に入れたんだよ?」
再度、克己からの質問が飛ぶ。
「決まってんだろ、愛の鍵を貰ってんだ」
「なっ…!?」
誰もいない家に入れるという事は、同じ鍵を持っているという事だ。それぐらい考えなくてもすぐ分かる。──だが〝合鍵〟ならぬ、〝愛の鍵〟と言われては、先ほど取り払われた疑いが蘇ってくるのだ。
克己はその疑いが脳裏によぎり、カウンター越しだというのに一歩後ずさってしまった。
しかし、直哉は付け足す。
「──しかも、高校の時にな」
「なにぃ!?」
「ほら──」
〝見てみな〟と言うように、ポケットから出した鍵を放られ、克己は両手で受け取った。その鍵と自分の鍵を重ね合わせてみる。鍵の凹凸は見事に一致していた。
「オレらの仲は、そんじょそこらの関係じゃねーからよ」
「──お、おい…ヒデ!?」
何も言わない秀行に、〝何とか言ってくれ〟と懇願する。
玉ねぎのみじん切りをしていた秀行は顔を上げ、水中眼鏡の奥から克己を見つめた。
「──鍵は本物か?」
「あ、ああ」
「なら、入れるだろ」
「いや…そーゆー問題じゃないだろ、ヒデ…。俺が言いたいのはだな──」
「──マジに取るな」
「あ…?」
「からかうのが趣味だって言っただろ」
「…………………」
「高校の時に直哉と知り合って、ずっとつるんでてな…。お袋がいる時から、しょっちゅう遊びに来てたんだよ。高三の時にお袋が死んじまったから、直哉が心配してしばらく泊まってくれてたんだ。その時に渡したスペアキーがそのままだったってだけだ。分かったか?」
〝またからかわれたのか…〟と悟ると同時に、秀行の説明から直哉が悪い奴ではないとも思えてきて、克己は無言で頷いた。
何気にキッチンを見れば、さっきまで秀行の隣にいた直哉がいないことに気付く。
「お…い、山ちゃん?」
カウンター越しに身を乗り出しキッチンを覗くと、座り込んでいる直哉が目に入る。何事かと思い声をかけようとした時、みじん切りを再開した秀行が呟いた。
「心配するな。笑ってるだけだ」
「は?」
途端に、苦しそうな声が聞こえてきた。
「…お、おもしれぇ…サイコーだよ、お前…。あー、あー、ハラいてぇ…。た、助けてくれ…秀行…」
大根おろしの大根を片手に、腹を抱えてそれだけ搾り出すのがやっとだった。克己は、そんな直哉の態度に気分を損ね、憂さ晴らしとばかりにジュニアと遊び始める。しばらくして、ようやく立ち上がった直哉が克己に聞こえないように喋りだした。
「秀行…お前の弟、サイコーだな…?」
「ああ」
「今度、一日貸してくれ」
「断る」
「なんでだよ。いーじゃねーか、一日ぐらい」
「その一日が退屈だ」
「そりゃ、そうだけどよ…。あ…ひょっとして結構、気に入ってんな?」
「面白いからな」
「おー、その気持ち分かる分かる。──お前、昔っから、妙に変わったもんっつーか、面白いもんが好きだったもんなぁー」
「ああ」
「──っつーことは、あの猫も面白いんだよな? じゃなけりゃ、大量に毛が抜ける動物を、面倒臭がりのお前が飼うわけねーもんな?」
「まぁな」
「──で、どこが面白いんだ?」
「二重人格」
「な~るほど。──で、名前は?」
「ジュニア」
「…お前が付けたんだろ?」
「ああ」
「ジュニアか。──となると、性格はお前ら二人に似てるって事だな。そりゃ、面白い」
質問というよりは、一人で納得していた。
みじん切りを終えフライパンで炒め始めた時、さっきまで聞こえてきた克己とジュニアの声が聞こえなくなったことに秀行が気付いた。
(またか…)
「おい、直哉。ちょっと代わってくれ」
そう言って直哉にフライパンを渡すと、〝なんだ、なんだ?〟と聞き返す声を背に秀行は救急箱を取りにいった。
一人で暮らしている時は殆ど使わないものだったが、克己が来てからはよく活躍する。特にジュニアが来てからというもの、毎日のように…。
(これだけ役に立てば、救急箱も本望だろう)
──と、これまた訳の分からないことを考える秀行だった。
「今度はどこだ?」
明後日のほうを向き無言のまま右手を差し出せば、腕の内側に引っ掻き傷がお目見えする。場所的にうしろ足で蹴られたのだろう。
「ジュニアには勝てないな」
溜め息混じりに消毒し絆創膏を張ると、少々青かった顔も血の気が戻ってきた。
「あいつは卑怯なだけだ」
「どこが?」
「爪だよ、爪! 俺もあれぐらい鋭けりゃ、負けはしねぇさ」
(なんでそうなるかなぁ、カツは…)
発想の違いに、呆れるやら笑えるやら…。
「フム…。じゃぁ、お前も爪磨くか?」
もちろん冗談で言ったが、受け取った克己は本気だ。
「そうだな」
その一言に、秀行は〝お前の爪を磨く前に、ジュニアの爪を切れ〟と、彼の間違いを訂正する気などもはや起きてこなかった。
消毒した後のティッシュやら絆創膏のゴミやらを片付け始めた時だった。
「あぁー!!」
突然、直哉の叫び声が聞こえた。
「な、なんだよ、突然…!?」
叫び声に驚いたのは克己だ。
「筒原克己って…どこかで聞いたことあると思ったら、今思い出した! あの、筒原だよなぁ!?」
「どの筒原だよ?」
わけが分からず、ムッとする。
「メチャメチャ、ケンカの強い奴さ。十人や二十人が束になってかかっても、負けたことがねーとかゆー、あの筒原だ、違うか?」
「それがなんだよ?」
「そーか、お前がそうなのか!! ──っつー事は、確かオレらより四つ下なんだよな?」
「だから?」
「いやぁー、年下でそんな強い奴なら、一度会ってみてぇって思ってたんだよ、実は」
「会って、どーするつもりだったんだよ?」
「決まってんじゃねーか。オレもケンカにゃ負けたことがねーんだぜ?」
「だから?」
「だからぁー、ぶっ潰す!」
「なに!?」
「…なーんてな、冗談さ」
「てめぇ…」
「まぁまぁ、そう怒んなって。──いや、会ってみたいと思ったのはマジだけど─…いや、まさかこんな形で…しかも秀行の弟だったとはな。すげー、偶然だよなぁー」
キッチンに戻った秀行と交代した直哉は、話しながらも手を休めることはない。ハンバーグのタネを混ぜ合わせる秀行の傍らで、今度はサラダを作り始めた。
「──けど、なんで自分で消毒しないんだ?」
キュウリを切る軽快なリズムの乗せ聞いた。
「…苦手…なんだよ」
弱点など言いたくはないが、秀行のダチだという事が大きな要因なのだろうか。克己はなぜか、素直に口に出していた。
「苦手って何が?」
「決まってんだろ、血だよ、血!!」
「なに…?」
さすがに、この時ばかりは直哉の手が止まった。
「あれ見ると力が抜けんだよ。気持ち悪くなって──」
「マ…ジ…?」
「ああ…」
「ケンカの強いお前が?」
「ああ! ワリーかよ!?」
「だって…ケンカには付きもんだろ、血なんて…。矛盾してんじゃねーかよ?」
「そうだけど…しゃーねーだろ、苦手なもんは苦手なんだから…」
それ以上の言葉はないと、最後の方は声が小さくなっていった。そんな克己を前にして、直哉は一瞬の間をおいて吹き出していた。
「ぶっはっ…ぶはははは…おもしれぇー!! お前、ほんっとにサイコー!!」
「笑うなよ! ──だいたい、矛盾っつったら、ヒデだって矛盾してんだろーが」
「ど、どこがだよ…?」
笑いを堪えながら聞き返す。
「血が好きなくせに痛いのは苦手だとか言って─…ぜってーケンカしねーだろ」
「あー、そーいや、そうだな。おっ前ら、ほんっと…二人しておもしれーよなぁ」
秀行と克己を交互に見ては、包丁を持ちながらお腹を抱い続ける直哉。──と、その時、あることも理解した。
「…そうか…そうだったのか…」
「な…今度はなんだよ…?」
まだ何かあるのかと、あからさまに嫌な顔をする克己。
「いや…ゲームだよ、ゲーム」
克己の心臓がドキリと鳴った。というよりは、嫌な部分に気付かれた時の心臓の音だろう。
「秀行の趣味じゃねーのがいっぱい並んでるなぁーって思ってたんだよ。しかも、DVDもねーだろ? オレは走り物も好きだけど、ああいったものも好きだから、どこにやったんだと思って探したんだ。そしたら、ちょうど走り物の後ろにあったり、下の引き出しにあったりして、どうも隠してるだったからさ。それが不思議だったんだけど─…そうか、そういうことだったんだな…」
「フン! あんなもの見て楽しむヤツの方が、ぜってー おかしーって!!」
「そうか?」
「そうだ!!」
「じゃぁ、ここでああいったゲームは禁止なのか?」
「──ったりめーだ!」
「そりゃ、残念だな。せっかく、忍者シリーズの最新作持ってきたのによ…」
その言葉に、休みなく動いていた秀行の手がピタリと止まった。もちろん、直哉はそれに気付く。
「お、やるか?」
「…ああ」
「だぁーめぇーだぁー!!」
潜めた会話を地獄耳のように捉え、即、却下する克己。
「いーじゃねーか、久しぶりに秀行のダチが来たんだぜ? 少しくらい客をもてなせよ?」
「ぜってーダメだ! あんなものを見たあとは、必ず悪夢に襲われるんだ、俺は!」
「──んじゃ、お前が寝てからならいーんだな?」
「うっ…」
正当な理由に反論できなかった。
「よし、決まり! ──よかったな、秀行。カツからのお許しが出たぞ?」
〝ああ〟と答える代わりに、秀行は止まっていた手を動かした。
それから十分もすると、ハンバーグ定食が出来上がった。秀行だけでも十分手際がよいが、いつも以上に早く仕上がったのは直哉が手伝ってくれたお蔭だ。これが克己だったら、そうはいかない。〝今まで何を食ってきたんだ?〟と言いたくなるほど、たわいもない疑問を投げてくるからだ。
ある時、サラダに使う人参とキュウリを切るよう命じたら、〝人参は中も外も同じ色なのに、キュウリは、なんで色が違うんだ?〟と聞いてきたことがあった。正直、秀行は答えに詰まった。いや、おそらく、秀行じゃなくても答えられないだろう。なぜなら、人参もキュウリも昔からそういうものだったからだ。それが人参であり、キュウリである。
〝なんでだ?〟と訊くほうが間違っているのだ。そういうものだから仕方がない。だから秀行もそのまま答えた、〝そういうものだ〟と。その答えに満足したかどうかは定かではないが、何度も同じようなことを繰り返しているうちに、答えなどどうでもいいという事も分かってきた。単に、ふと思いついた疑問を口に出していただけで、ちゃんとした答えを求めていたのではなかったのだ。
それ以外にも呆れる事は多々あったが、どうしても勘弁して欲しいことが重なった。
目を離すとすぐ、いろんなものに興味を持つ克己が遊び始めるのだ。〝遊び始める〟という事は、つまり〝散らかる〟という事。料理中であり、尚且つ面倒臭がりな秀行にとって、これほど迷惑なことはない。それ以来、キッチンへの立ち入りを固く禁じたのはいうまでもなかった。
秀行と直哉が机に夕食を並べ始めると、克己がジュニアにエサをちらつかせる。犬のように〝お座り・お手・お代わり〟を教えようと奮闘中の克己を、秀行は面白そうに眺める。心の中で〝ムリだろう〟と思ってはいるが、決して口には出さない。なぜなら、克己の行動こそが面白いからだ。自分では思いつかないことを平気でやり始める。それがとても真剣だから見ていて飽きないのだ。
しばらくすると、自分の空腹感が我慢できなくなるのか、諦めてジュニアにエサを与えた。
「──ったく、覚え悪すぎだぞ、ジュニア」
「そんなもんだろ、猫は」
独り言のように呟いた克己に直哉が反応する。
「だいたい犬じゃねーんだし、猫にそんなこと教えるヤツのほうが珍しいぞ?」
「そうか?」
「ああ。──ほら、これ持っていけ」
手を洗った克己に、直哉がグラスを三つ渡した。
「………?」
直哉の腕には、缶ビールやウイスキー、日本酒などが抱えられている。
「…グラスは二つでいいだろ?」
──と渡されたグラスのひとつを片付けようとすると、直哉が不思議な顔をする。
「なんだ、未成年だからか?」
「フツーは、ヒデや山ちゃんたちが止める方だろーが?」
「…ンなわけねーじゃん。オレだって秀行だって高校の時からタバコやアルコール飲んでたんだぜ?」
「マジ!?」
「ああ。高校からでも遅いほうじゃねーの、今じゃ?」
「そ、そうか…?」
「もしかして…自分のことはさて置いて、秀行が止めてんだな、未成年だからって?」
「あ…いや──」
「秀行ぃ~、今日ぐらいいいーだろ、カツに飲ませたってよ?」
克己の言葉を最後まで聞かずに、直哉が御飯の前に座っている秀行に問いかける。しかし、返ってきた言葉に直哉の目がテンになった。
「…い…ま…なんつった…?」
「だから…勧めたことはあっても止めたことはない」
「え、マジ…?」
「ああ」
その短い返答に直哉が驚きの表情を克己に向けた。
「おまっ…まさか…?」
「な、なんだよ…?」
「自分で守ってんのか…? 二十歳になるまでは…って?」
「べ、別に──」
「コーヒーは飲み物じゃないんだと、カツの中ではな」
「なに!?」
「ちょ、ヒデ…!!」
秀行の言葉の意味を理解した直哉が、ストレートに口を開く。
「お前…まさか飲めねーのか、コーヒーもアルコールも…?」
答え次第では大笑いされると分かる為、克己もすぐには答えられない。しかし、答えられずに黙っていること自体が、既に答えとなっていた。
「ぶわーはっはっはっはっはっー!! ま、マジかよ!? 信じられねー!! お前を恐れてるやつは大勢いるぜ? そのお前が、飲めねーの!?」
「ワ、ワリィかよ!!」
「…い、いや…悪かねーぞ……ぶわははは…た、ただ…おもしれーだけだ…い、いや…もう、サイコー!!」
「ケッ、言ってやがれ!!」
拗ねた克己がグラスをひとつ片付けてから机の前に座ると、笑いで苦しんでいる直哉をムシして御飯を食べ始めた。
「…おい、〝いただきます〟がないぞ?」
静かな口調で秀行に注意され、克己の箸がピタリと止まった。
「こんな時に、そんな話かよ? ──だいたい、ヒデのせいで笑われてんだぞ、オレは!?」
「お前が飲めないのはオレのせいなのか?」
「いや、そうじゃねーけど…」
「なら、どこがオレのせいだ?」
「だ、だから──」
思い出してみるが、〝カツは飲めないんだ〟とは言っていない。普通に考えればそれと分かるようなことを言ったというだけで、〝言ったも同然だ〟と責められておかしくないのだが、そこは克己だ。考えが及ばないというか、確実なことを言ってないために責められないというか…返す言葉もなく黙ってしまった。その代わり違う言葉を呟いた。
「…いただきます」
その言葉に秀行も無言で頷く。
「──直哉、いつまでも笑ってないで、食うぞ?」
「…あ、ああ…」
それだけ言うのがやっとの直哉。それでも何とか、克己が片付けたグラスを再び取り出すと、お酒を机の上に無造作に置きグラスを克己の前に置いた。
「……………」
「いっただきぃーっす!!」
直哉のあとに秀行も続き、やっと、三人の食事が始まった。
一口食べると、すぐにビールに手を伸ばし秀行にも渡す。
「サンキュ…」
次いで、克己のグラスにも赤い液体を注いだ。
「…だ…から…俺は飲まねーって…」
拒否の訴えも虚しく、なみなみと注がれていく。
「おい…きーてんのかよ…?」
「よぉーし! そいじゃぁ、乾杯しよーぜ?」
「何にだ?」
「な…だから…おいって──」
「そうだなぁ。とりあえずオレと秀行の久々の再会、それから新しいダチとの出会いに…ってーのはどうだ?」
「フム、いいだろ」
「よくねーって──」
「よし、決まり!! んじゃ、そーゆーことで…」
「おい、待てって──」
「カンパーイ!!」
克己の必死の抵抗も、秀行や直哉には通じなかった。
グビグビと喉を鳴らし、二人ともビールを飲む。克己にとって、苦いだけのビールはやはり飲み物ではない。美味しそうに聞こえる喉の音も、克己には不快だ。目の前に注がれた赤い液体は、色こそ綺麗だがどうしても口をつけることが出来ない…。
「飲まねーのか、カツ?」
「だから、言ったろーがぁ──」
「これ、アルコールじゃねーぞ?」
「なに…?」
「飲めねーから、ジュースにしたんだよ。ブドウジュースにな」
〝ほら、飲んでみろ?〟と直哉にグラスを渡され、疑いの眼差しでグラスと直哉を交互に見つめる。
「マジだって!」
真剣な眼差しに、半信半疑でグラスを受け取る。ゆっくり口をつけてチョビッと飲んでみれば、途端に克己の顔がパッと明るくなる。
「どうだ?」
「おぅ、ブドウジュースだ」
「──だろ?」
まさかこの時、〝うまい、甘い〟とお茶のようにブドウジュースを飲む克己を見て、秀行と直哉が心の中で大笑いしているとは思ってもみなかっただろう。
「──けどよ、山ちゃんは、どうやってヒデと知り合ったんだ?」
「気になるか?」
「ああ。だって、ヒデって昔っからこうなんだろ?」
「こうとは?」
「むひょーじょう」
「あ、ああ、そうだな」
「数少ないダチっつーよりも、ダチなんかいねーと思ってた」
「まぁ…フツーの奴らは、そー思うだろーなぁ。けど、これでもなかなか人気だったんだぜ?」
「マジ!? 誰に?」
「後輩にも先輩にも─…まぁ、その殆どが男だったけどな」
「ブッ…! マジかよ?」
「ああ。もちろん、オレは女に人気だったけど?」
「へ…ぇ。それで?」
「おいおい、スルーかよ」
「山ちゃんが誰に人気とか興味ねーもん」
「なんだよ、寂しいなぁ…」
「もう、そういうのいいから。ほら教えろって」
「なにが?」
「だからぁー、知り合ったキッカケだよ!」
「ああ、そうだったな」
本題からいつもズレていくのが、直哉でもあった。
「あれは高校一年の夏休み前だったかな…。なぁ、秀行?」
「…ああ」
「夏休み直前っつーと、期末試験が終わったあとだから、授業たって大した内容じゃねーんだよな」
「それはそーだな。高校の時も追試メンバーの為の時間だったりしてたもんなぁ、確か…」
「──だろ? だから、授業もフケる奴が多いんだよ。オレも秀行もその一人でさ。こう見えて試験の点数はよかったからなー、追試もなかったし…。それで授業をフケて、それぞれが屋上に行ってたんだ。秀行はウォークマンで音楽聞きながら本読んでてよ、オレは青空の下、風の流れを感じてたんだ」
「風の…流れ?」
「──ただの、昼寝だ」
不思議な顔で聞き返す克己に、秀行が補足した。
「な…んだ、そうゆーことか。紛らわしい…」
「──で、その時に他にも授業をフケた野郎が来たわけさ。一人でヒマ潰せばいいものを、弱っちぃ学生捕まえてきてよ──」
「ひょっとして、カツ上げか?」
「そのとーり。──で、オレがそこに割って入ったわけよ」
「それで?」
「もちろん、相手は先輩だし素直にやめるわけねーわな」
「体で勝負ってか?」
「そーゆーこと。すぐ近くに秀行もいたんだけどな、なに知らぬ顔で読書に没頭中。オレもケンカにゃ自信あったし、一人で片付けたんだけどよ。逃げた弱っちぃ学生が好意でセンコー呼んできちまって…」
「かぁ~、マジかよ!? あったまワリーな、そいつ」
「だろぉ~?」
「けど、先輩たちが罰せられたんだろ?」
「最終的にはな」
「なんだよ、その最終的には…って?」
「逃げた学生は〝助けてくれた〟と言うより、〝屋上でケンカです〟って言ったらしいんだよ」
「それじゃぁ…状況的に山ちゃんが──」
「そーゆーこと。センコーも近くにいた秀行に状況を聞こうとしたんだが、隠しゃぁいいのに、堂々とヘッドフォンしてたもんだから、秀行も職員室に連れて行かれちまって。そういう奴の言う事なんか信じねーだろ、センコーって。しかも、授業フケてる奴だぜ?」
「ま、まぁ…そうだな。──それで?」
「無表情の秀行だぜ? しかも口数も少ない」
「面倒くさいからトラブルには巻き込まれたくないと、何も喋らなかったんだな、ヒデは?」
「おぉー、よく分かってんじゃねーか。そのとーりだ。逃げた学生もそのまま家に帰っちまったし…。ただな、最後の最後に秀行が一言だけ言いやがったんだ」
「──んて?」
「〝このテープ、サイコーですよ〟ってな」
「……………?」
不思議な顔をする克己を見て、直哉が〝ニヤッ〟と笑う。
「その時のオレもセンコーも同じ顔してたぞ。けどな、ちぃ~っとも、ラチがあかないから、殆どやけくそでそのテープを聴いたんだ。そしたら──」
「そ、そしたら──?」
興味にそそられて、身を乗り出す克己。
「記録されてたんだ、一部始終な」
「記録?」
「ああ。秀行のウォークマンは珍しく録音機能も付いててな、先輩たちが屋上に来た時から録音ボタンを押してたんだよ」
「おぉー!! なるほど、それで一気に解決か!?」
「そーゆーこと。ウォークマンの没収を免れて、オレたちも無罪放免ってわけ」
「へぇー。やったな!!」
「ああ。それから秀行と話すようになって、色々と面白い奴だって分かったんだ。目を見れば強い奴だってことぐらい分かったからよ、〝なんであの時、ムシしてたんだ?〟って聞いたんだ」
「〝痛いのは苦手〟って言ったんだろ?」
「そうそう。あまりにも意味不明な答えに大笑いしちまって…。なんだかんだ言いながらもつるむようになったんだ。無表情の中にも微妙にあるんだよな、笑いとかがよ。天然もあるし、妙に綺麗好きだったり…。もー、サイコーよ、こいつ。即、気に入ったね。お蔭で、三年間は楽しかったぜー。その一件があってから、オレは表のヒーロー、秀行は裏のヒーローって言われるようになったんだ」
「へ…ぇ。でも表より裏のヒーローのほうがカッコよくね?」
「…やっぱ、そー思うか?」
「ああ」
(そういう問題か? オレはどっちにしろ、そう呼ばれてるほうが恥ずかしいと思うがな…)
──と秀行が思っているなんて、この時の二人が知る由もなかった…。
今や、克己は直哉のことを見直していた。秀行と直哉が知り合ったキッカケを聞いたというのもあるが、直哉という人間が、なかなか正義感のある奴だというのを知ったからだ。しかも、直哉だけでなく秀行も直哉を気に入っている。もしどうでもいいような奴であれば、秀行が今までダチをやってないはずなのだ。
からかわれていたことなどすっかり忘れて、克己の気分はだんだん陽気になっていった。
「それにしても、ハンバーグにブドウジュースって合うんだなぁー」
気付けば、ブドウジュースの瓶も空に近い。
「山ちゃんてさぁ、似てるよなー?」
「誰に?」
「ヒデだよ、ヒデェー」
「そうか?」
「あー、ぜってー似てるー。だぁってよぉー、洗濯物はきちんとたたむしぃー、ヒデと一緒にメシ作ってる時も、妙に手際いいしよー。まるで、ヒデが二人いるみてーだったぞ」
「そうか。まぁ、ツーカーの仲だからな」
「ツーカー? なんだ、それ?」
「なんだって…そのまんまだろ? ツーと言えばカーって言う仲のことさ」
「ん~~~?」
シラフなら理解できる言葉も、今の克己にはムリだった。もちろん、酔っていると知っているのは当の本人以外だが…。
「あ・うんの呼吸ともゆーかもな」
「あ・うん…だぁ?」
眉間にしわを寄せて考えてみるが、やはりムリ。
「だぁー、わっかんねぇ~」
「まぁ、いいさ。それだけ相手のことをよく知ってるってこった」
「おぅ…そうか。よし、それなら分かるぞぉ」
酔った頭で理解した克己は、嬉しそうに最後のブドウジュースを瓶ごと飲み干した。
「──さぁてと、オレ、タバコ吸ってくるわ」
一息ついたところで立ち上がった直哉に、秀行が瞬時に忠告する。
「灰皿、持っていけよ?」
「心配すんなって」
〝分かってんだから〟と付け足すと、カウンターの隅に置いてあった灰皿を掴んで、ベランダに出て行った。
「──おい、大丈夫か、カツ?」
「なにがぁー?」
わけが分からぬと秀行を見るその顔は、見たこともないほど赤く目も半分据わっていた。
「なにがって…気分、悪くないか?」
「おぅ! 悪いどころか、サイコーだぜ!? ぬはっ…なんでだろーなぁ?」
「…なんでだろうな?」
もはや、ブドウジュースがワインだったとは秀行といえども決して口には出せまい。──いや、言ったところで今の克己が分かるはずもないのだが…。
酔った克己を見るのは初めてで、〝大丈夫か?〟と言いながらも実は結構楽しんでいる秀行だった。
「なぁー、ヒデェ~?」
「なんだ?」
「ずりぃーよなぁ?」
「何が?」
「山ちゃんだよ、山ちゃん。俺の弱点、いぃ~っぱい知ったんだぜぇ~」
「ああ、そうだな」
「山ちゃんは、弱点ねーのかなぁ?」
体を左右に揺らしながら天井を見つめ、ぽやぁ~と呟く。しばらく黙っていた秀行だが、再度〝山ちゃん、ずりぃーよなぁ〟と呟かれ、ようやく口を開いた。
「カツ、カーテン閉めてみな」
「あん? カーテン?」
指をさされた場所は、たった今直哉が出て行った窓のカーテンだった。
「…なんでぇ?」
「いいから、閉めてみろ」
意味が分からないものの、深く考えられるほどまともな思考能力などない。故に、考えることは諦め〝よっこらっしょ〟と立ち上がると、勢いよくカーテンを閉めた。
その次の瞬間──
「おぁ~~~!!」
誰とも思えぬ叫び声が夜の闇へと響いた。次いで、ガラス窓が乱暴に開けられ、カーテンが跳ね上がる。現れた直哉の形相も凄まじいが、突然の出来事に克己も驚きの表情を隠せない。
「お、おまっ…カーテン閉めたら、暗いだろぉーがぁー!!」
その一言だけは、なぜか酔った克己のノーミソが正常に理解させた。
「ぶわーはっはっはっはっはー!! や、山ちゃん…ひょっとして…ぬはははは……くれぇのダメなのかぁ…?」
「っ…! 秀行、てめぇ──」
事の成り行きを悟り、秀行を睨む直哉。当たり前だが秀行は冷静だ。
「ダチ、なんだろ?」
「………!」
〝お互いの弱点を知ってこそダチであり、立場はこれで対等だ〟
秀行の一言に、それだけの意味が含んでいることぐらい直哉は百も承知だ。だから何も言えなかった。
腹を抱え絨毯の上で笑い転げている克己を見下ろし、直哉は〝しゃーねーな〟と諦めの溜め息を漏らすしかなかった。
「ヒ、ヒデェ…た、助けてくれぇー。ぶわっははははー!! ハラ…いてぇ…も、死にそー。なぁ…ヒデェ~」
涙を流し笑う克己を止める術など、もはやあるわけがない。
「オレもタバコ…」
「おぉー、ジャンジャン吸ってこーい。安心しろぉ、カーテンは開けといてやるから…ぬはははははー!!」
遠くの方でシラけたように見つめるのはジュニアの姿。
秀行は対照的な二人の姿に溜め息を付き、直哉と共にベランダに出ることにした。
ポケットからタバコを取り出し口にくわえると、直哉がライターを付けた。秀行が〝サンキュー〟と呟けば、直哉も新たなタバコをくわえる。
「直哉…」
「ん…?」
「落としたタバコは拾っとけ?」
「あん?」
〝落とした〟と聞き、即座に足元を見回す。すると、ベランダの隅のほうに赤々と燃えるタバコが転がっているのが目に入った。カーテンを閉められて叫んだ瞬間、それまでくわえていたタバコを落としたままだったのだ。
「相変わらずだな、お前は…」
小さくなったタバコを拾い上げ、灰皿でその火を揉み消した。
「授業はフケるし、ウォークマンは学校に持ってくるし…。タバコやアルコールだって未成年のうちからやってるくせに、ポイ捨ては厳禁だったもんなぁ。カツの躾もなかなかのもんだしよ…。ほんっと、変なヤツだぜ」
「そうか?」
「自覚がないところが、こえーけどな」
直哉はそう言って〝ハハハ…〟と笑った。
「──それにしても、あいつ本気でブドウジュースだって思ってんのか?」
「ああ…間違いなく、な」
「フツー、気付くだろ?」
アルコール類は直哉が買ってきたものだ。秀行しかいないと思っていたため、ジュースなど買うはずもない。しかもグラスを三つ手渡した時点で、直哉の腕にはそのブドウジュースならぬ、ワインも抱えられていたのだ。それだけでもジュースなわけがないと気付くはずなのだが…。
「ムリだな、あいつの場合」
「そうかぁ? オレらにしたら殆どジュースだけど、初めてのヤツは分かるもんだぜ、飲めばアルコールだってよ」
「アルコールが問題じゃないってことだ」
「……どういうこった?」
「リンゴとハチミツ入りの、甘いカレーが大好物って言ったら?」
一瞬〝ん?〟と考えたのち、その意味するところが分かったようだった。
「おい─…まさかそれって、甘けりゃいいってことなのか?」
「まぁ、そういうことだな」
「かぁー、マジかよ!?」
「ああ」
「笑える…」
二人の会話が笑いで途切れると、家の中から克己の声が聞こえてきた。
「おぉ~、すっげぇー。天井が回ってらぁ…。この家って天文観測台だったのかぁ? にゃははははは…メリーゴーランドに乗ってるみてぇだ……。あ、ジュニア…おめぇも、すっげーなー。体、グニョグニョまがってっぞー。かぁー、やわらけぇー。だはははは…おっもしれー顔!!」
「お、おい…あいつ、大丈夫かな?」
「……さぁ」
あまりの内容に微妙に心配になる二人。けれど、それ以上のことは考えなかった。もちろん、敢えて、なのだが…
「それで…今更だが、お前は突然どうしたんだ?」
「あ…? ああ、お前のことが気になってな。大学四年にもなると、レポートやらなんやらで急がしかったしよ…。就職したらしたで、慣れねーことばっかで…お前の顔を見にきたかったんだが、なかなか、な。やっと落ち着いてきたもんだから──」
「そうか…」
「けど、安心したぜ」
「何が?」
「弟がいたとはビックリしたけど…お前の雰囲気が柔らかくなってたから─…」
「それまでは硬かったか、オレは?」
「ん~~。っつーかぁ…不安定なものを、自分でムリヤリ安定させてたとこがあっただろ? オレと知り合った時と比べて、卒業する頃にはそれもだいぶなくなってたけど。今の方がずっと自然だなと思ってさ」
「…そうか」
「表情も分かりやすくなったし。安定した因子はあいつの存在か?」
直哉が促すように部屋の中をチラリと見れば、秀行の視線もジュニアと戯れる克己に移る。ややって〝かもな〟と返ってきた。
「そうか。でも、マジで安心した。この雰囲気なんか、サイコーだぜ? 中毒になりそーだ」
嬉しそうな直哉の表情に、秀行は改めて言った。
「鍵、持ってていいからな」
「あん? なんだ、急に…」
「養うのはムリだが、いつでも来ればいい」
「ハハ…あったりめーだ。頼まれても返すもんか」
二人のタバコが小さくなり、最後に一息だけ吸うとそれぞれが火を消した。
話も終わり静かになると、克己の声が聞こえてないことに気付く。
「ひょっとして、またジュニアに…?」
直哉が心配してガラス窓を開ければ、大の字になって寝ている克己が転がっていた。
「──ったく、風邪引くぞぉ?」
足で克己の体を突付くと、克己はムニャムニャとなにやら呟いた。耳を澄ませば、ようやく聞こえる。
「……山ちゃん…くれぇの嫌いだって…にゃはは…」
「……んのやろぉ」
夢の中までも笑われていると知って、直哉はデコピンを食らわした。
ソファにあったブランケットを秀行が克己に掛けると、寝ているにもかかわらず〝サンキュ…〟と言って笑う。
「寝ながら器用なヤツだな?」
「…ああ」
無邪気な寝顔を見て、二人は呆れたように呟いた。
「よぉーし! お子様は寝たし…やるか、ゲーム?」
「そうだな」
鞄から持ってきた最新作のゲームを取り出すと、直哉は早速準備を始めた。
「…直哉」
「ん…?」
「ありがとな」
「…なにが?」
「気に掛けてくれて──」
「ああ、なんだそんなことか。ダチなら、当たり前のことだろ?」
当然とばかりに答える直哉。それが本音だという事も秀行には分かっていた。
「…だな」
「…よしっっと。準備できたぜ?」
コントローラーを渡され、先ずは秀行からのチャレンジだ。当然のことだが、一度も死なずに最後のボス戦まで到達した。
〝あんなものを見たあとは、必ず悪夢に襲われるんだ〟と言っていた克己だったが、実はそれは間違いだった。
おそらく、翌朝になれば二日酔いで何にも覚えてないだろうが、このとき既にゲームの音響だけで悪夢にうなされていたのだ。
(う…ん…ヒデェ……た、助けてくれ…。妙に身軽なヤツが、いっぱい人…殺してんだ……おわっ…ヤツと目が合っちまった……ひぇ~、お、追いかけてきやがる…う、うわぁ~、く、来るなぁ~)