1 猫と風邪編 ※
その日も、克己は朝から猫の腹をずっと触っていた。腹の毛をイジる彼の瞳は、今までに
見たことがないほど真剣な眼差しだ。その姿はまるで、ノミを取るサルのよう…。ただ無心に毛をかき分ける。
「コォラッ、動くなって──」
嫌がる猫にはお構いなし。両手だけでは足りぬと、両足を使って押さえ込み始めた。
「もうちょっと辛抱しろ。お前の命がかかってんだぞ──」
猫は必死で逃げようとするし、克己は克己でそれを必死に制しようとする。
そんな奮闘場面を、〝我関せず〟とばかりにいつも通りの生活をするのは、もちろん秀行だ。
クーラーの室外機の上に灰皿とタバコをセッティング。そのすぐ横で、洗濯物を干していた。本当に、いつもと変わらない光景だ。ただひとつ、この時間帯にはいるはずのない克己が家にいることを除けば…だが。
一通り洗濯物を干し終えた秀行は、タバコに火を付け、ベランダから見える景色に目をやった。青い空に漂う、白い雲。目の前を横切る鳥を見て、秀行は今日も思う。
(今日も一日中晴れか…)
鳥のさえずりを近くで聞き、少し離れた所からは車の騒音が聞こえてくる。その合間を縫うように、家の中から聞こえてくるのは克己の声。
「だぁかぁらぁー、動くなつってんだろーがー」
同じ台詞を聞いているからか、秀行にとってそれはすでに音と化していた。
灰皿片手にタバコを吸い、口から出す煙を雲に向かって吐き出す。そんなことを繰り返し、タバコが半分になった所で、ふいに克己の声が聞こえなくなったことに気が付いた。
(見つけたのか、それともやられたのか…)
おそらく後者だろうと思いながら家の中を覗いてみれば、すでに二人セットの姿はなく、それぞれがかなりの距離をとっていた。
お気に入りの棚の上では、さっきまで押さえ付けられていた猫がウンザリした表情でせっせせっせと毛づくろいをしている。時折遠くの方を見下ろすその目は、〝ざまぁみろ〟と言っているかのようだ。その猫が見下ろす視線の先に目をやると、今までと変わらない場所で座っている克己の姿がある。猫を押さえつけていた手は、今や自分の手の甲を押さえ、視線はわざと外すかのように明後日の方を向いていた。
(やれやれ…。相変わらずだな、カツは…)
仕方がない…と小さな溜め息を付くと、秀行は灰皿にタバコを押し付けその火を揉み消した。そして家の中に入るなり、救急箱を取り出すとそれを克己の前に置いた。
「手、見せてみろ」
ちょっとふてくされながらも、どこか青い顔。
チラリと秀行を見たものの、すぐに明後日の方を向いてしまう。それでも、無言で手だけを差し出した。
(注射の時に、顔を背けるガキと同じだな…)
──などと心の中で苦笑しながら、手の甲に視線を移す。そこには緩やかなカーブで引っかかれた傷が付いていた。もちろん、じんわりと血も滲んでいる。
秀行は、ここ何日とそうしてきたように克己の手を消毒し絆創膏を貼った。今や、克己の手は絆創膏だらけだ。
「いいぞ」
「……おぅ」
ようやく、自分の手を見れた克己。
「ちょっと…休憩だ…」
そう言うや否や、ソファで横になってしまった。
(ほんと、面白いヤツだよ、お前は…)
秀行は横目で見ながら、またいつも通りの家事に取り掛かった。
それは、一週間ほど前の出来事だ。
大学から帰ってきた克己は、なにやら毛むくじゃらの物体を持ち帰ってきた。
「なんだ、それは?」
「なんだ…って…見りゃ分かるだろ? 猫だよ、猫。捨てられた、かわいそうな子猫」
両手に乗せた、真っ白いちっちゃな猫を、秀行の目の前に差し出す。
「──で?」
「だから、拾った」
「……………」
「何で、無言なんだよ?」
克己の場合、時々、秀行が求めた答えとは別の答えが返ってくる時がある。今回もそれだった。秀行は少々呆れながらも言葉を足した。
「…何で、拾ってくる?」
「そりゃ…もちろん、こいつの目、見ちまったから…」
「他のやつだって見てるだろ?」
「そーだけどよ…。なんつーのかなぁー…運命的なものを感じたっつーかぁ…仲のいい兄弟に、神様が与えてくれた…みたいな──」
「コウノトリか、お前は…」
「──なわけねーだろ? 大体、猫は鳥の天敵じゃねーか。俺が鳥だったら、天敵の猫なんか、ぜってー運ばねーよ」
「……………」
なんともはや、バカげた会話が始まる。
「だぁかぁらぁー、何で、そこで黙るんだよ!?」
〝黙られる理由が分からねー〟と、イラつく克己に、秀行はまたもや小さな溜め息を付いた。
「……で、どうするつもりなんだ?」
「決まってんだろ、飼うんだよ。なー?」
すでに飼うことを決めたように、猫に話しかける克己。
「……ムリだな」
「なに!?」
「元の場所に戻して来い」
「なんでだよ!?」
「このアパートはペット禁止なんだ。それぐらい知ってんだろ?」
「いや…そうだけどよ…。内緒でチョイチョイっと…」
「ダメだ」
秀行はそう言うと、夕飯の支度に取り掛かり始めた。
「かてー事ゆーなって…。黙ってりゃ分かんねーんだからよ」
「ダメだ」
「なぁー、ヒデェ~?」
「ダメだ…」
「いーじゃねーか、なぁ。ヒデェ~。こいつ可愛いんだぜ?」
「ダメだ…」
〝ダメだ〟を繰り返しながら、秀行は手際よく野菜を切り、炒め、鶏肉に味付けしていく。一方、克己は子猫を抱きながらキッチンのカウンター越しに頼み込む。
「ぜってー、バレねーよーにするしよぉ…」
「ダメだ…」
「ほれ、こいつの目、見てみろよ? 訴えてくるだろ、〝僕を飼ってぇ〟って」
カウンター越しに子猫を差し出し、子猫の声色まで使う。秀行はチラリと見るが、どちらかと言うと子猫より克己の顔を見ていた。
「…ダメだ」
「──ったく、この堅物! こーんな子猫、一人で生きてけるわけねーだろ? 元の所に戻しちまったら、ぜってー死んじまうぞ。それでもいーのか!?」
猫なで声から、戦略変更。今度は脅しにかかる。
「なぁ、いーのか!?」
「…それが、そいつの運命ならしゃーねーだろ?」
「おまっ…。ひっでぇー…」
「そうか?」
「そうだろーがよ!」
「ふむ…。単にナチュラル派なだけなんだがな…」
「なんだ、そりゃ…」
「そのまんまさ。なんでも自然が一番だろ。この世は弱肉強食、強いものが生き残る。本気で生きようとしてるなら死なないだろ」
もっともらしく説明する秀行だが、もちろんそれで納得する克己ではない。
「冷てぇ…。──どうよ、おい、子猫?」
克己は子猫の顔を覗きこんだ。
「ヒデの考え、ひでぇよな? そー思うだろ?」
と、同意を求めた直後、〝あ…〟と言って顔を上げた。そして途端に笑い出す。
「ぬはははははは……。聞いたか、子猫よ?」
突然、何事かと思い手を休めた秀行。
「ヒデの考え、ひでぇよなぁ…だぜ? ぬはははははは。ヒ、ヒデの……ひでぇ…だってよ……。わ、笑える…」
何がそんなにおかしいかと思えば、自分が思わず言った言葉が、偶然ダジャレになっていただけとは…。秀行は、そんなことで大笑いできる克己の方が見ていて面白かった。
片手でお腹を抱え、ヒーヒー言って笑っている克己は当分喋れそうにもない。あれで、結構な笑い上戸なのだ。
その間、着々と夕食の準備は進み、机の上に食事が並び終える頃には克己の笑いも止まりつつあった。
「……なぁ?」
「なんだ?」
「なんだじゃねーよ…。マジでダメなのか?」
「ああ」
「ほんっとに、堅物だな。大体、ペット禁止だからっつー理由で、そこまで反対するか、ふつー?」
その言葉に、秀行の表情が微妙に変わったのを克己は見逃さなかった。
「そーゆー事かよ…」
「何のことだ?」
「とぼけんなよ。──あんだろ、別の理由が!?」
〝俺は騙されねーぞ〟とばかりに、克己の指がビシッと秀行を指す。ほんのしばらくその指を眺めていたが、それ以上、否定するのは諦める事にした。最近の克己は、ポーカーフェイスを見破るのがウマくなったのだ。それがなんだか嬉しい気もするのだが…。
しかし、そんな感情は表に出さず、淡々と答える。
「そうだな…」
「なんだよ、言えよ? 俺がちゃんと納得する理由なんだろーな?」
「まぁ…ある意味な」
「なんだ、その意味ありげな言い方はよ? ──もし納得できなかったら、ヒデのゆー事聞かねーからな?」
「ああ」
「よっしゃ。──んじゃ、言ってみろよ?」
「んー、そうだな…」
「そうだな…って、今頃考えてんじゃねーだろーな!? ──だぁ~、もういいや。俺から聞くから、答えろ、いいな?」
「ああ」
「動物が嫌いなのか?」
「いや…」
「──んじゃぁ、猫より犬の方が好きだとか…?」
「そうでもないな…」
「んじゃぁ…猫がすんげー嫌いなのか?」
「いや」
「じゃぁ、動物アレルギーがあったりだとか、もっとちっけー生きもんならいいとか──」
「それもない」
「うぅ~。なら、何ならいいんだよ?」
早くも、反対する理由の候補が尽きてしまい、直接秀行に尋ねる。
「そうだな…。なにがいいかっていうと、かなり迷う」
「そりゃ、どーゆー意味だ? 多すぎて選べねーって事なのか?」
「いや…。どっちかっていうと──」
「どっちかってーと…?」
「やっぱないわ」
「はぁ!? ──、そんなの答えになってねーだろ!?」
「そりゃそうだ」
「──って、納得してんじゃねーよ。早く、俺を納得させろって…」
「わかった、わかった」
もう少しからかいたい気もしたが、その辺でやめる事にした。克己のイライラがだんだん募ってきた事もそうだが、この話を切り上げなくては、目の前の食事にありつけないからというのが本音だった。
「カツ、よく聞け。オレが、そいつを飼うのを反対する理由はだな──」
「ああ…」
「毛が抜けるからだ」
「…………………」
あまりにも、予想に反した理由だったのだろう。克己はあんぐりと口を開けたまま、止まってしまった。
「そういう事だ。──食うぞ?」
そんな克己の姿を見て笑いそうになったが、何とかこらえて御飯を食べ始める秀行。そしてようやく、克己も我に返る。
「な、な…なな…なんだ……その理由わぁ~!?」
「正当な理由だろ?」
なんとも平然と答える。
「ぶ、ぶわぁかかぁー、おめーわぁー!?」
「なんだ、納得しないのか?」
「──ったりめーだろ!? どこのどいつが、そんなもので納得するんだ? 言葉の知らねー赤ん坊だって納得しないっつーの!! それに、なんで〝ある意味、納得する〟んだよ。わけ分かんねーよ!!」
「この部屋を見れば分かるだろ?」
「──って、おい…まさか、ヒデ…。掃除するのが面倒ってゆーんじゃねーだろーな?」
部屋を見渡し、その視線が秀行に移る頃、克己の目はすでに据わっていた。それでも秀行は気にしない。
「ご名答」
そう言って、味噌汁をすすった。
「おかしい。ぜってー、おかしいって…。俺ら人間だって髪の毛抜けるだろーが。猫の毛だって生え変わるのは当たり前じゃねーか…。そんな事が理由だなんて…俺は…俺は納得しねーぞぉー!!」
拳を作って、大声で叫ぶ克己。しかし秀行はとても冷静だ。
「──けど、半分は納得しただろ?」
「どこがぁ!?」
「〝この部屋見れば…〟って言ったら、すぐに分かったじゃないか。それは、オレの性格を知ってるからだろ?」
「そ、それは…」
〝そんなことが理由にはならねー〟と言えばいいのに、なぜか克己は言葉に詰まってしまう。
(素直だねぇ、ほんと…)
母親が克己に似ている父親を好きになったのも、なんだか分かったような気がした秀行だった。
「──じゃ、じゃぁよ…一週間くれ」
必死で何かを考えたのか、克己は真剣な顔でそう言った。
「なんでだ?」
「一週間のうちに、ヒデがこいつを飼いてーって思わせてやる」
「へぇ…」
克己の提案に、秀行の心は動いた。
本当は克己をからかいたかっただけで、本気で〝ダメだ〟と言っていたわけではなかった。しかしここまで来ると、どういう手段で〝飼いたい〟と思わせるのか、非常に興味がわいたのだ。
一週間、退屈しないのは保証済みだ。
「な、一週間。それならいいだろ?」
「…ああ、そうだな」
「やりぃー!!」
秀行の承諾を得た克己は、本当に嬉しそうに喜んだ。猫にまでその喜びを伝える。
「ほら、早く食え。飯が冷めるぞ?」
「お、おう!」
喜び勇み、冷蔵庫に向かう克己。そこから牛乳を出すと、適当に小皿を選んで子猫のために入れてやった。
お腹を空かせていたのか夢中で飲み始める子猫を見て、克己は満足そうに自分の夕飯に箸を運んだのだった。
翌日、克己はいつもの時間に起きてこなかった。
基本的には自力で起きてくる克己だ。それでも、寝坊する時はたまにある。そういう時は決まって秀行が起こしに行くのだが、これもまた、基本は一回きりだ。一回起こして起きなければ、あとはノータッチ。朝食が食えなかろうが、遅刻しようが、そんなことは秀行の知ったこっちゃない。
起きるまで起こすバカな親がいるが、あんなものは子供が甘えるだけで、いつまで経っても自力で起きようとしなくなる、というのが秀行の考えなのだ。
故に、一緒に住み始めた頃は〝一回でも起こしてもらえるだけ、ありがたく思え〟と何度も言ってきた。一時は、遅刻のし過ぎで慌てることすら諦めた時もあったが、今や遅刻することはない。
なぜなら──
「おーい、カツ。今日の目覚まし君は役立たずか?」
「あ…? あぁ~、今日は休みだ…」
「──それを言うなら、今日は休むだろ?」
「そう、それ…」
目も開けず、更に布団に潜り込む克己。
──つまりは、そういう事だ。
遅刻するぐらいなら休んでしまえという考えなのだ。
期間中に決められた単位をとればいい、というシステムもそうだが、先生によって代弁が通用することを知ると、尚更、簡単に休みを作ってしまう。
一度、〝留年したらどーすんだ?〟と聞いたことがあるが、克己から返ってきたのは、〝その分、俺と一緒に住めるんだぜ〟という言葉だった。それ以来、同じ質問をしたことはない。
(ひょっとしてこいつ…わざと留年しようとしてんじゃないだろうな?)
そんな疑問と同時に、
(ここ数年のオレの教育は、間違ってたのか?)
──と不安にもなる。
しかし、秀行の性格は〝我関せず〟と〝面倒臭がり〟だ。いつまでも悩むはずがない。
秀行は自分の仕事に取り掛かるため、それ以上何も言わず部屋のドアを閉めた。
昼頃になると、お腹が空いたのか克己が子猫を肩に乗せ起きだしてきた。
「パンは自分で焼けよ?」
一通りの家事を済ませた秀行が、ソファで本を読みながら顔も見ずに言う。
「……ああ」
まだ眠そうに目をこすりながらパンを焼き始める克己。ついでに、猫用の皿にミルクを入れてやる。
「メシ食ったら、俺、ちょっと出てくるわ」
「…どこ行く?」
「…ん~、買物」
それだけ言うと、大あくびをしながら服を着替え出した。ベルトをする頃には、焼き始めたパンも出来上がる。
ジャムをたっぷり塗った二枚のパンを、あっという間にたいらげると、サッサと出て行ってしまった。
(こいつはどうするんだ?)
置いてきぼりをくった子猫が、秀行の足元で座り込み、見上げてくる。秀行も同じようにじっと見るが、目が乾いてしまって見続けられない。
(なんだ、この瞬きの少なさは…)
妙に変なことに気付いてしまい、克己が帰ってきたら聞いてみようと思う秀行だった…。
二時間ほどすると、荷物を抱えた克己が帰ってきた。
「なんだ、その荷物は…?」
「あいつのエサと、トイレ一式…それから、爪とぎに…猫の草…。ビックリだぜ。草、食うんだぜ? しかもこの草、十日間くらいで生え揃うんだってよ。メチャメチャ成長早くねーか?」
「…あ、ああ…そうだな。けど、十日経って、飼えなくなったらどうするつもりだ?」
「それは心配いらねーさ。言ったろ? ぜってー、飼いたいって言わせるってよ」
「ふ…ん」
「俺、しばらくあいつと部屋にこもるからよ」
またもやそう言うと、トイレのセッティングを済ませ、子猫を連れて部屋に閉じこもってしまった。
(何をするのやら…)
──と先の読めない克己の行動に、半ば興味まで湧いてくる。これが普通の相手なら何も思わないのだろうが、相手が克己だけに、少々楽しみにもなるというもの。
〝部屋にこもる〟とは言ったものの、十分…いや、五分もすると、克己が部屋を出てきた。
「これでどうだ?」
そう言って秀行の目の前に差し出したのは、奇妙な子猫。
「カツ…」
「これで、抜け落ちる毛は少なくて済むぞ」
〝いいアイデアだろ〟と言わんばかりのその顔に、やはり、秀行は呆れる。
子猫は、白い靴下の丈の部分に、体ごと入れられていたのだ。もちろん、足が出るように四つの穴も開いているのだが…。
「それじゃぁ、そいつがかわいそうだろ? それに、その靴下は三日前に出したばかりのもんだろうが?」
「だってよ…一番、しまりがよかったから──」
克己にとっては、正当な理由なのだろうが…。
(──ったく、こいつの頭はどうなってんだ? まぁ、やること成すこと見てて飽きはしないが…)
呆れる反面、笑えてもくる。
「…却下だ。他を考えろ」
「ちぇー!! 結構いい線だと思ったのによ…」
ブツブツ言いながらも、その日は〝毛が抜けても大丈夫だ〟というのを頻繁にアピールする為の物作りにハマっていった。しかし、もちろん全てが却下だ。
翌日は、少し視点を変えて〝この猫はすごい!〟作戦に出た。
トイレで用を足せば、それを報告。砂を掛けても報告。遊び道具に食いつけば、それもまた報告…。
猫なら当たり前で、褒めることでもないようなことまで、大げさに評価し報告する克己。
聞いているうちに猫より克己の方がバカだと思えてきたのは、ある意味、成功なのだろうか…?
またその次の日には、猫の可愛らしさを強調。寝入ってる姿を写真に収め、引き伸ばしたりもした。肉球にインクをつけてベランダを歩かせれば、〝可愛い肉球のスタンプだ〟と、昼寝中の秀行を起こす始末。
それでも、克己の作戦に秀行が〝イエス〟と言う事はなかった。
そんな〝ペット飼育許可獲得作戦〟が四日目に突入した時、秀行が何年か振りに風邪を引いた。克己と一緒に暮らし始めてから初めてのことだ。
子猫と共に起きた克己は、いつもいる所に秀行がいないことに気付き、部屋まで行って初めてその事を知ったのだ。
「大丈夫か、ヒデ…?」
「…ああ」
そう答えるものの、反応は頼りない。
「今日は、一日ゆっくり休め。俺が家の事してやっから、な」
「……ん」
克己が持ってきたアイスノンに重い頭を沈め、秀行はそのまま眠りに落ちていった。
ところが…である。
「ヒ、ヒデ…」
数分後、申し訳なさそうに、ドアを開ける克己。
ウトウトし始めた途端の訪問だった。
「…なんだ?」
「あ、あのよ…。洗濯機、壊しちまったみてーだ…」
「なに!?」
滅多に壊れるものではない上に、昨日まで順調よく動いていた代物だ。熱で思考回路が鈍くなったとはいえ、一瞬にして意識がクリアになる。
「ワ、ワリィ…」
ベッドから起き上がった秀行は、苦笑う克己の横を通り過ぎて洗濯機の場所に向かう。
見れば、ちゃんと動いているではないか。
「これの…どこが壊れてんだ?」
「いや…だって、出ねーんだよ」
「なにが?」
「泡…」
「は…?」
「だから、泡が出ねーんだよ。フツーは出るだろ、泡?」
その言葉に、秀行は深い溜め息を付いた。
「なんだよ…その溜め息は…。エライのか?」
「…カツ」
「なんだ?」
「入れたのか、洗剤は?」
「洗剤?」
「ああ。フツーは入れるだろうが」
「あ? そうなのか? ──けど、これ、全自動だろ?」
「そうだが。洗剤は手動だ、フツーはな」
「はぁ~、そうなのか。んじゃ、全自動っていうのも名ばかりだな」
などと、一般常識の欠けた克己につくづく呆れる秀行。
「すすぎになったら、柔軟剤も入れろよ?」
洗剤が自動で出てくると思っていた克己だ。柔軟剤の事など気付くはずもない。そう思い柔軟剤を渡すと、一気に上がった熱にフラフラになりながらも部屋に戻ることにした。
「柔軟…? だぁ~、めんどくせーなぁ…。どぉこが、全自動だ!?」
部屋に戻った秀行が、克己のその言葉を聞くことはなかった。
しばらくして寝はじめた秀行だったが、今度は、すさまじい音で目が覚めた。
(な…んだ、今のは…?)
嫌な予感というのは、当たるものだ…。
アイスノンを持ってリヴィングにきてみれば、ゴミ箱やら棚の上に置いてあったものが、床の上で散乱としていた。
「カ…ツ…?」
掃除機を乱暴に引きずっている克己に声を掛けると、何食わぬ顔で振り返る。
「どうした?」
「〝どうした〟じゃない。なんなんだ、これは…?」
「見りゃ、分かるだろ。そーじしてんだよ」
「それは、こうなったからか?」
と、散らかったものを指差せば、〝いいや〟と首を振る。
秀行は、目眩すら覚えそうな気持ちで目頭を押さえた。
「…なんで、掃除してるのに散らかっていくんだ?」
不思議な謎だ。
どう見ても、わざと散らかしているようにしか見えない。
しかし、そんな質問に不思議な顔をするのは当の本人だ。
「なんでだろーなぁ?」
これじゃぁ、ゆっくりと部屋で寝てられないと思ったのか、秀行はそのままソファで横になることにした。
案の定、それからも様々な音が鳴り響いたが、状況が分かっているというのが安心したのか、気付けば眠っていた。
「…デ…ヒデ…起きろよ?」
いつの間にか布団まで掛けられていた秀行は、克己の声で目を覚ます。
「ほら、お粥 作ってやったぞ。食え」
殆ど強制的に目の前に押し付けられたお粥を、起き上がった秀行が受け取る。
卵が入った、とてもスタンダードなお粥だ。
少しぐらいなら入るだろうと、受け取ったお粥を一口頬張る。
(────!!)
「どうだ、ウマイか?」
〝ぜってー、ウマイはずだ〟と自信を持っていた克己だったが、秀行の反応に、ふと不安になる。
「どうした?」
「お前…お粥に何入れた?」
「何って…そこに入ってるもんだよ。御飯と水と卵…」
「それだけか?」
「ああ」
「調味料は…?」
「あー、入れた入れた。砂糖な♪」
にっこりと微笑む克己に、もやは何も言い返せない。
(この常識の欠如は親父譲りか…?)
〝──だとしたら、お袋はなんで親父と結婚したんだ…?〟という疑問まで湧いてくる秀行だった。
またもや溜め息を付くと、今度はベランダにあるべきものがない事に気付いた。
「洗濯物は…?」
「あっ…」
どうやら、脱水したまま干すのを忘れていたらしい。慌てて干し始めたが、もちろんしわくちゃだ。
「……寝る」
それだけ言うと、秀行はまたソファに横になった。
〝なんでぃ、食わねーのかよ…〟とつまらなさそうにボヤいた克己だったが、すぐにあることを思い出した。
「ヒデ、今日バイトだろ?」
「…ああ」
「俺が代わりに行ってやるよ」
「別にいいぞ…。一回や二回行かなくたって、生活するのに困らないんだから…」
「いや、そうだけどよ…。ちっと、やってみてーんだ」
「ふ…ん。財布ならいつもの上着の内ポケットだ…」
〝勝手に持っていけ〟とばかりに、背を向けたまま指を差す。
「オッケー」
「三万円以上は持ってくんなよ」
「分かってるって。──んじゃーな」
初めて小遣いを貰い、飴玉でも買いに行くような陽気さで克己は家を出て行った。秀行は、なぜか自分の上に乗ってくつろぐ子猫と共に、しばらくの間、静かな眠りについた。
不意に目が覚めると、周りは薄暗かった。かなりぐっすり眠ったせいか、体もずいぶんとラクになっていた。汗もかいているから熱も下がったのだろう。
ふと隣を見てみれば、いつの間にか帰ってきた克己が、絨毯の上で子猫と同じように大の字になって寝そべっていた。腹を出していたため、それまで自分が被っていた布団を掛けようとしたのだが、猫の腹に不思議なハゲがあるのを見つけて動きが止まってしまう。一瞬、わけが分からなかったが、位置的に理解すると、面白いことを思いついてしまった。その時の克己の様子を想像しながら、秀行は一人と一匹に布団をかけてやった。
机の上に自分の財布が置いてあるのを見つけた秀行は、すぐさま中を確認してみる。すると、福沢諭吉がきっちり三人納まっていた。
(よしよし…)
──と感心したものの、カード入れの所から何やら紙切れが一枚飛び出しているのが目に入った。何気に取り出し開いてみれば…その内容に呆気に取られた。その紙は、キャッシュコーナーからお金を引き出したという明細書。
その金額、十万円也!
(こいつ…三万円儲けるのに、十万以上もつぎ込んだのか?)
本末転倒ともいえるその一直線ぶりに、もはや溜め息しか出てこない。
(もう少し、頭と運があれば…)
などと思いながらも、秀行は心の中で強く思うのだった。
(二度と風邪なんか引けないな…)
翌日、子猫飼育作戦にやっきになっている克己に秀行がある提案をした。
「カツ、そいつを飼いたけりゃ、オレが言うものを見つけてみろ」
「なんだ、急に…?」
「いいから。見つけたら飼ってやってもいいぞ」
「マジか?」
「ああ」
秀行に〝飼いたい〟と思わす方法も、正直、尽きてきたところ。そんな矢先に投げられた秀行の提案は、克己にとって助け舟に思えた。
「よし。じゃぁ、早く言え!」
「──ヘソだ」
「は!?」
「そいつのヘソを見つけてみろ」
「ヘ…ソ…?」
意外すぎたのもあるが、〝そんなものがあるのか!?〟という気持ちのほうが強い。しかし口には出せまい。
そんなわけで、その日から猫のヘソ探しが始まり今日に至るのだった。
大学を自主欠席までして、猫の腹を探りまくる。猫にとっては大迷惑な話で、幾度となく爪攻撃を克己にお見舞いしていた。
〝ちょっと休憩…〟と一休みしたあと、やる気もなさげに再び猫をひっくり返した克己。
しかし、探し物は諦めた時に見つけられるもの。
「おぉぉぉぉ~!!」
それは、秀行がソファで本を読み始めた時だった。突然の叫び声に秀行が顔を上げる。
「どうした?」
「あ、あ…あったぜ…ヒデ!」
洞窟の中で長年探していた宝石を見つけた探険家のように、真ん丸な目を向けた。光の反射によっては、うっすら涙さえ浮かべているようにも見える。
「どれ…?」
克己とは対照的に、秀行は落ち着いた反応を示した。
「ここだ、ここ。これがヘソだ。ぜってー、間違いねぇって…!!」
ちらりと見ると、そこにはあの時見た、小さな丸いハゲがあった。
「フム…。そうだな」
「よし!! これで、決まりだな!?」
「…ああ」
「やったぜ!! ──おい、猫。お前もよく頑張ったな。これで、路頭に迷うこともねーぞ!」
その様子からでも、猫のヘソを見つけるのにかなり必死だったことが分かる。
「じゃぁ、名前を決めないとな」
「あ? あぁ…そうだな。俺、ひとつ候補があんだけどよ…」
「ほぉ…それは偶然だな。オレもだ」
「なに? マジかよ!?」
「ああ」
「おまっ…ひょっとして、初めっから飼うつもりだったんじゃねーだろーな?」
「さぁな…」
「さぁな…って──」
「お前が言ったんだろ、〝ぜってー、飼いたいって思わせる〟って。なんだ、自信なかったのか?」
「いや…そーゆーわけじゃねーけど…」
「それに、エサやらトイレやら買いそろえたやつも、ムダには出来ないだろ?」
「あ、ああ…まぁな…。だぁ~、まぁ、いいや。それで何なんだ、ヒデの候補は?」
「お前が先に言ってみろ」
「いや…ヒデが先だ」
「オレは、お前の候補が先に聞きたい」
「俺だって、ヒデの候補が先に聞きてーんだよ」
「じゃぁ、一緒に言うか?」
「おぅ!」
克己の声で、〝せーの〟と言うと…。
「ひ…!」
「…つ!」
言葉はダブったものの、お互い、相手の言葉は理解できた。
「お…い。なんで俺と同じ名前なんだよ?」
「お前こそ、なんでオレと同じ名前なんだ?」
「そりゃ…ここ数日、お前の後を付いていくこいつの行動が似てたからよ…」
「オレもだ。お前が二人いるようだったぞ」
「マジかよ!? ──どっちかってーと、ヒデだろ?」
「いいや、カツだ」
「ぜってー、ヒデだって!」
「──というより、オレらの前で使い分けてたのかもな」
「性格をか?」
「ああ」
「それって…二重人格じゃねーか…」
「そうだな…。それはそれで面白いぞ」
「こんのぉ…かなりの高度テクニックを使いやがって…。んじゃ、こうしようぜ。二人の名前を付けんだ」
密かに嫌な予感がする秀行だったが、一応聞いてみる。
「なんて名だ?」
「ズバリ、ヒデカツ!」
自信満々に言ったものの、すぐに我に返る。
「あ、待てよ…。それじゃぁ、ヒレカツみてーだよな。じゃぁ…逆にして、カツヒデっつーのはどうだ?」
予想通りの名前に、秀行は溜め息を付いた。
(あまりにも単純すぎる…。しかも、猫に似合わねーだろ)
そうは思ったが、敢えて口には出さず、秀行も自分なりの意見を言う。
「二人の性格に似てんだから、ジェイアールでいいんじゃねーのか?」
「ジェイ…アール…?」
「ああ」
「なんで、電車の名前なんだよ? わけ分かんねぇ…」
「──んなわけあるか。ジェイアール(Jr)…つまり、ジュニアだよ」
「あ、あぁー、そーゆー事か。──にしても、単純だなぁ」
秀行とは違い、思ったことをズバズバ言う克己。第三者がここにいれば、間違いなく、同じレベルだと思うだろう。
「なぁ、ひょっとしてよ…」
「なんだ?」
「アレなんだろ、ホントは?」
「…アレとは?」
「考えんのが、面倒臭いだけなんだろ?」
克己も、なかなか鋭い所を突く…。
だがしかし、秀行が素直に答えるはずもない。
「さぁ、どうかな?」
「──ったく。まぁ、いいや」
秀行の反応に、〝間違いない〟と確信するも、それ以上のことは突っ込まないようにした。そしてそのまま何も言わず、猫を目の前に抱き上げる。
「おい、決まったぞ。お前の名前は、今日から〝ジュニア〟だ。よろしくな、ジュニア」
屈託のない笑顔でジュニアに話しかける克己を、秀行は妙に微笑ましく感じた。
猫を飼うことに許可が下りたことで安心したのか、翌日にはカツが風邪を引いてしまった。
「カツ、食欲はあるのか?」
「あ~、だんどがなぁ~(なんとかなぁ~)」
「じゃぁ、待ってろ。今すぐメシ作ってやるから」
「おぉぉ~」
ティッシュと大のお友達になった克己が、布団の中から答える。
数十分後、秀行はお盆を持って克己の前に現れた。
「ほら、できたぞ」
「あぁ~、ザンギュー(サンキュー)」
だるそうに起き上がった克己は、目の前に置かれたメシに唖然とした。熱のせいで視力が悪くなったかと思い目をこするが、それは変わらなかった。
「おい…?」
「なんだ?」
「…なんで、カレーなんだ?」
「ダメか?」
その返答には、これっぽっちの冗談もなかった。とても、素の反応だ。
「いや…そうじゃなくてよ…。フツーは、お粥だろ…?」
「そうか? お前の場合、食欲が命綱だから──」
「で、カレーかよ…?」
ボソリと呟く克己に、秀行は付け足す。
「まだまだ、たくさんあるからな」
天然とは、恐ろしい…。
それ以上、突っ込みを入れる気力もなかった克己は強く…とても強く心の中で誓ったのだった。
(俺…金輪際、ぜってー、風邪なんか引かねーぞ)