5 進学論争、決着
克己が入院して三日が経った。
「ヒデ…」
病室に入ってきた秀行を見るなり、克己はいつもより増して不機嫌な声を出した。
「どうした?」
「どーしたじゃねーよ。今までどこ行ってたんだよ?」
「…見学」
「見学?」
「ああ。──それより、なに怒ってんだ?」
〝見学〟と聞き、こんなところで見学する所なんてねーだろ…? と素直な疑問を抱いた克己だったが、〝なに怒ってる?〟の一言でその疑問も吹き飛んだ。
「見ろよ、コレ!」
怒っていた理由を思い出し、克己はぶっきらぼうに自分の左腕を秀行の目の前に差し出した。腕には酒精綿がテープで貼り付けられている。
「ああ、ちゃんと採ってもらえたようだな」
「ちゃんとじゃねーよ! 俺は、ぜってー、嫌だって抵抗したのに、あいつらが無理やり俺の体抑えて採ってきやがったんだよ!?」
(フム。嫌がる克己から採血するとは、看護婦さんもなかなか強い…)
朝の出来事を思い出し、だんだんと怒りが込み上げていく克己とは反対に、秀行は妙な所で感心していた。
「なぁ、きーてんのか?」
「あ…ああ…」
「もともと、あちこち痛くて動けねーんだからよ、逃げるに逃げれねーんだ。ヒデがあいつら止めてくれるはずだったろ!? 肝心な時にいなくなっちまって…。試験管みたいなもんに三本も採られたんだぞ!!」
(入院している以上、定期採血ってもんがあるから仕方ねーだろ…って言っても、納得しねーだろうなぁ…)
秀行は心の中でそっと溜め息を付き、変わりに今仕入れた知識を話すことにした。
「…あれはスピッツって言うらしいぞ」
「は…?」
「茶色の蓋が付いてるのが、生化学検査で──」
「おい…?」
「紫色の蓋が──
「おい!!」
「あ…? なんだ?」
さっきより、明らかに不機嫌さが増したことが分かる。
「ヒデ…お前どこに見学に行ってたんだよ?」
今の説明で予想はつくが、敢えて聞いてみる克己。
案の定、返ってきた答えは、
「採血室…」
だった。
(やっぱり…)
「献血したかったんだけど、病院じゃやってないみたいで──」
「それで、採血の見学か?」
「ああ」
その二文字には、〝仕方がねーから、採血の見学だけにした…〟という言葉が聞こえてきそうだった。
自分からは理解しがたい言葉ばかりで、いい加減、怒りを通り越してウンザリしてくる。
「ヒデ…」
「なんだ?」
「献血だけはやめろよ?」
「どうしてだ?」
「お前の血を輸血されたら、犯罪者が増える…」
過去に〝血が見てみたかった…〟なんていう理由で人を殺したヤツは、ひょっとして、ヒデの血を輸血されたんじゃないかと、考えてしまう克己だった。
「先生ー、弟さんはどうだね?」
数秒の沈黙が流れた時、花とケーキを持って中年の男性が現れた。
〝おっちゃん〟だ。
克己はおっちゃんに会ったことはない。しかし、どこかで見たような気がした。
「おっちゃん、お見舞いに来てくれたのか?」
「ああ、もちろんさ」
「悪いな…」
「いやぁ、こっちこそ…。──あ、これ、食べてくれ」
おっちゃんは、ベッドごと上体を起こされた克己にもケーキを見せて渡した。
「サンキュー。克己は甘いの好きだから…な?」
「あ、ああ…サンキュー」
さっきから〝どこで会ったんだ?〟と一人考えていた克己は、秀行から暗に〝お礼〟を促され、言葉を返した。
「いやぁー、それにしても、先生 強かったなぁ」
「おっちゃんが来てくれなかったら、正直ヤバかったけどな」
秀行はそう言いながら椅子を勧めた。
「お、ありがとよ。──ヤバイたって、先生のヤバさはちと違うだろ?」
「……かもな」
秀行の言葉に、おっちゃんは小さな笑みを浮かべた。
克己にとって二人の会話は意味不明で、しばらくは中には入れなかったが、おっちゃんの笑みをキッカケにようやく口を挟むことができた。
「…なぁ?」
「ああ、なんだ?」
「…誰?」
とても単純な質問だった。しかし、その後の説明は驚くものだった。
「おっちゃんは、山本組の元組長だ」
「は…!?」
「九代目だったか?」
秀行は平然とおっちゃんにふった。
「ああ。一年前に引退してな」
「ちょ、ちょっと待てよ…。山本組つったら…あいつらだろ…!? なんで──」
「カツも感謝しろよ。おっちゃんが来てくれたから、穏便に事が運んだんだからな」
「はぁ!?」
〝どういうこった?〟
──とまるで状況がつかめない…。
その顔を見て、秀行が更なる説明を加える。
「おっちゃんは、オレがあいつらに連れ去られるのを偶然見かけて、後をつけてきたんだよ。引退して一年経っちまったから、下っ端の弟分もだいぶ顔が変ったらしいけど、何人かは知ったヤツがいたから、自分の組だって事が分かったんだ。──で、後をつけてきたら、あの状況さ。オレがあいつらとやり合ってるのを見て、助けに入ってくれたってワケ」
「まぁ、あのままでも先生は負けそうにもなかったんだけどなぁ。ほっとくと、先生、殺人犯になりそうでよ…」
どこにでもいそうなただのおっちゃんが、元組長だなんて…と半分以上信じてなかった克己だったが、〝殺人犯〟という言葉を笑顔で吐かれては、もう信じるしかない…。
しかし、信じる気になったのはもう一つあった。おっちゃんとどこで会ったのか、今の説明を聞いて思い出したのだ。
(そーいや、ヒデから顔を背けたとき、こんな顔があったような…)
「あ、ありがとよ、おっちゃん…」
山本組の元組長とはいえ、助けてもらったことには感謝しなきゃな…と思い、そう言った。おっちゃんも、元組長だとは思えないほどの笑顔で〝いやぁ…〟と複雑そうに返してきた。
(それにしても、〝ヤバイっつー意味がちと違う〟って言わせるなんて、ヒデもあぶねーなぁ…)
さっきの会話がようやく分かり苦笑いを浮かべたが、同時に疑問も湧いた。
「なぁ、ヒデ?」
「ああ?」
「おっちゃんが元組長っていうのは分かったけどよ、いったいどこでどう知り合ったんだ?」
「ああ…」
──と一瞬間を置くと、おっちゃんをちらりと見た。そして答える。
「パチンコさ」
「は…?」
「──ただのアルバイト仲間。な、おっちゃん?」
「ああ、間違いねぇ」
「…もっとも、おっちゃんが組長だったっていうのは、あの時初めて知ったけどな」
(……マジかよ)
フツーに会話を楽しむ二人を見て、克己はしばしボー然とその光景を見ていた。
しばらくすると、おっちゃんは開店準備のため帰っていった。
時間も十五時という事で、差し入れされたケーキを食べる克己。ショートケーキは、かわいらしいイチゴとフルーツがたくさん載ったものだった。元組長がどんな顔をしてこのケーキを選んだのか、想像すると妙に笑けてくる。
甘いケーキを嬉しそうに頬張る克己を見て、秀行はあの話題を口にした。
「カツ、大学はどーすんだ?」
「げっっ。こんな時にまたその話か!?」
「いつだってそう言うだろーが?」
「前々から言ってんじゃねーか。受験は一回でいいってよ。それに、万が一行く気になったって、今からじゃ間に合わねーよ」
〝だからその話は諦めろ〟
──言わんばかりに、大口を開けてイチゴを放り込む。
しかし、その一言に秀行の目は光った。
「行く気になったら、どこにでも行けるさ。お前を欲しがってる大学はたくさんあるからな」
「……どーいう意味だ?」
「学校に一番近いパチンコ屋、あるだろ?」
「ああ」
「あの近くには、柔道で有名な高柳大学のOBが住んでんだ」
「…………」
「それから、三丁目のパチンコ屋の近くには、剣道で有名な葛城大学の教授が住んでるし、川向こうのパチンコ屋の近くには、格闘技で名を上げようとしてる──」
「なぁ、ヒデ?」
「なんだ?」
秀行がつらつらと喋り始めたのを聞いて、克己は途中でその言葉を遮った。すでに、何を言おうとしているか読めたのだ。
「ひょっとして、俺を欲しがってる大学ってーのは、八校もあるって事か?」
「五校、だな」
秀行の返答に、克己は大きな溜め息をついた。
「その為に、わざわざパチンコ屋を変えてたのか?」
「まぁ、半分は」
「半分?」
「ああ。オレの三原則は前々からだ。そこに、カツを売る計画を盛り込んだだけの事さ。まぁ、合理性だな」
「合理性…ね…」
「そういうこと。──で、どうする?」
「どうするも何も……。だいたい、俺が大学に行ったとして、何のトクがあるってんだ?」
その質問に、秀行はここぞとばかりに真剣な目をした。
「……カツ」
「な、なんだよ…?」
「オレは、親父から頼まれたんだ」
「大学に通わせろってか?」
「いいや。〝学生の間だけでも頼む〟ってな」
「……………」
今や、克己の考えは変りつつあった。
「ヒデ…」
「ああ?」
「俺、格闘技やりてぇ…」
克己の答えに、秀行は初めて笑顔というものを克己に向けた。
その笑顔を目にした克己は、小さな頃の〝兄ちゃん〟を思い出し、妙に嬉しくなった。
「──けどよ、ヒデはどーなんだよ?」
「なにが?」
「俺と一緒に住めて、どこがトクなんだ?」
もやは、返ってくる言葉は分かっていた。だけど、本人の口から聞きたくて、そう質問してみた。
秀行は答える。
「お前は、オレのブレーキだからな」
(やっぱな…。俺が健康である以上、ヒデの暴走はないってことか。ゆえに、ヒデにとって俺は必要なんだよな)
その結論に、克己は十分に満足した。
しかし、もうひとつだけ満足させて欲しいことがあった。
「ヒデ…」
「今度はなんだ?」
「……退院させてくれ」