3 アルバイト仲間 ※
「あぁ~~~、気持ちわり…」
パジャマ姿の克己は、両手で頭をかきむしりながら自分の部屋から出るなりそう吐き出した。
「風邪か?」
コーヒーをコップに注ぎながら克己と目を合わさず答えるのは、もちろん秀行だ。
(こいつ、マジで言ったのか?)
最初こそ秀行の無表情さも分からなかったが、一年も一緒に暮らしてるとだいたい読めてくる。だけど少なからず天然もあるため、時々は分からなくなるのだ。
真相が見抜けなくてしばらく黙っていると、コーヒーカップを持った秀行が、克己の目の前を通りすぎ──…ようとして、ふと立ち止まった。
「……飲む?」
無表情のまま、秀行は黒い液体の入ったコップを彼の鼻先に近づけた。
「……ケンカ、売ってんのか?」
「いや…?」
いくらなんでもそれはわざとだという事が分かり、思いっきり不機嫌な声を出したものの、秀行は平然と否定する。
「──ほら、飯食うぞ?」
何事もなかったかのように、机の前で両手を合わす秀行の背中を見て、克己は深い溜め息をついた。
(こいつの頭はどーなってんだ、一体?)
血の繋がった兄弟とはいえ、時々〝病院で見てもらいてぇ…〟などという衝動に駆られながら、克己は朝食をとるべく足を動かした。しかし、ふと昨日のことが思い出され自然に足も止まる。
「そこ、片付けたんだろうな?」
〝そこ〟とは、机を含めテレビ周辺のことだ。
昨日、克己が学校から帰ってきた時には、大っ嫌いなホラー映画やグロイ映像の出るゲームが無造作に置かれていた。
起きがけに〝気持ちわり…〟と言ったのは、間違いなくそれが原因だった。
(──ったく、あんなもの見ちまったせいで、夢にまで出てきたんだからな! 気持ち悪くて吐きそうになるしよ、立ち止まって吐きたくても、血だらけでグシャグシャになったヤツが追いかけてきて…)
──と、そこまで心の中で愚痴ったが、余計気持ち悪くなってきたのでやめた。
「ああ。昨日のうちにな」
「よし…」
ある意味、自分の為の号令とも取れるように呟くと、ようやく机の前に座り、目の前のカレーパンを頬張った。
カレーパンといっても、食パンに昨日の夕食のカレーを載せて焼いただけなのだが、カレーさえあれば何でも食べれてしまうのが、彼の長所とも言えるべきところだろう。その上、気持ち悪くても食べられるというのだから、スゴイとしか言いようがない。
秀行の朝食は、普通の食パンを焼いただけのものと、ブラックのインスタントコーヒーだけだ。
「…よく、そんなもん飲めるよな?」
秀行の方をチラリと見ながら、今までに幾度となく言ってきたことを繰り返した。
何もつけず、焼いただけのパンを食べるというのも克己にとっては不思議なことなのだが、それ以上に不思議に思えるのは、白いコップの中にある黒い液体だった。
リンゴとハチミツを入れた甘いカレーが大好物な彼には、苦いだけのコーヒーは到底飲み物だとは思えない。それが砂糖もミルクも入れないブラックなんて尚更のこと。匂いだけで鼻をつまみたくなるのだ。
それを知っている秀行だからこそ、さっきの〝飲む?〟と言ってコーヒーを克己の鼻に近付けた行動が、わざとだという事が分かる。
「コレ飲むと頭スッキリするぞ?」
「ノーミソが起きんだろ? だったら、嗜好品じゃなくて薬じゃねーか」
ゆえに、好んで飲む飲み物じゃないというのが克己の意見だ。どんなに理解し難い理由でも、本人にとってそう解釈されている以上何を言ってもムダな為、秀行は敢えてそれ以上のことは言わないようにしている。──いや、実の所、克己を説得するというよりは、考え方や反応を見て面白がっているだけなのだが…。
「大体なぁ、ムリにノーミソ起こさなくてもいーんだよ。俺なんか、ノーミソが寝たい時に寝て、起きたい時に起きてんだぜ?」
「毎日?」
「毎日」
「いつだって?」
「そ、いつだって!」
それはつまり、授業中にも寝てるという事だろう。
(やれやれ…)
二枚のパンを食べ終わり、少し冷めたココアをすする克己を横目で見ながら、今度は秀行の方が溜め息をついてしまった。
「…カツ?」
「あぁ?」
「お前、大学は行かねーのか?」
暗に〝学校〟というキーワードが出てきたため、秀行は話の流れでそうふった。
「だーっっっ! またその話かよ!?」
嫌いな言葉を聞かされ、持っていたココアのコップをダンッと荒々しく置く。
「もうすぐだろ、受験?」
「受験ってゆーなぁー!! 一気に学生の気分になるじゃねーか!」
「──って、学生だろ」
「そ、そうだけど…。受験なんてもんは一回やりゃぁ十分なんだよ! 親父みたいなことゆーなよなぁ」
そう言って再びコップを持つと、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み始めた。その様子をほんのしばらく黙ってみていた秀行は、
「フム…」
──と漏らすなり、残りのパンを食べ始めた。
ココアを飲み終わったというのもあるが、毎回毎回同じやり取りになるため、今回の〝大学進学論争〟もそこで終了することにしたのだ。
自分の食器を流しに持っていった克己は、〝まぁ~た、気分悪くなったじゃねーかぁ〟とブツブツ言いながら玄関を出て行こうとする。しかし玄関から一歩外に踏み出した時、あることを思い出し振り返った。
「ヒデェー?」
「あー?」
「今日って、どこだ?」
今日は奇数日。
秀行のバイトの日だ。
「今日は十五日だから、学校から一番近い所」
「あー…」
天井を見上げ数秒考えると、
「…ンじゃ、四時十五分な?」
──と告げた。
「オッケー」
リビングから秀行の返事が聞こえてくる。
秀行のバイトの場所を確認した克己は、急ぐことなく家を出た。すでに一時間目には間に合わない時間だというのに…。いや、間に合わないと分かっているからこそ、だ。
(学校には遅れても、バイト場所に来るのは遅れたことねーんだよなぁ)
彼もまた、自分の事は棚に上げて〝変なヤツ…〟と小さく笑った。
いつも通り家事をして、昨日買った残りの映画を一本見終わると、バイトに出かけるちょうどいい時間だった。
秀行のバイトは、もちろんパチンコだ。店員ではなく、打つこと。
いくらパチンコで生計を立ててるとはいえ、きちんと確定申告はしているし、余分に儲けることはしない。
『二日に一度』
『一回三万円』
『店はローテーション』
コレが、秀行の三原則だ。儲けすぎても使い道などない。〝そこそこ〟で十分なのだ。
店をローテーションする理由のひとつには、店側に迷惑をかけないというのがある。強運の持ち主である秀行は、スッた事など一度もない。そんな彼が毎回毎回同じ店に入れば、月に四十五万円は確実に持っていかれることになるからだ。売り上げから考えればどうってことないかもしれないが、一応礼儀として店を変えている。
その数、八店舗。
つまり、店側にしたら月に一回か二回のペースで三万円持っていかれるぐらいだから、まったく問題ないわけだ。
他に店をローテーションする大きな理由が存在するが、それは誰にも言ってない。特に克己には。
克己が学校帰りに秀行の所に寄るようになったのは、一緒に住み始めた頃からだった。
ケンカが強く、負けたことのない克己に挑んでくる連中は大勢いる。その中には弱みを握ろうと考えるやつも多いのだが、その対象となったのが実の兄、秀行だ。
二人が出会う前からどこでどう情報が流れたのか分からないが、本人達の知らぬ間に二人が兄弟であることが知られ始めた。秀行がどんなヤツかを探ると、パチンコに通う細く弱そうな男だと判明した為、一気にマトが置き換えられていったのだ。
〝痛いの苦手…〟
──と、わけの分からない事を言い張り、ムシし続ける秀行。
克己から見ても、明らかにケンカ向きじゃないと分かる。だから、バイト帰りに秀行と合流するようになったのだ。
それから一年弱経つが、未だにバカな連中が秀行にたかってきている。
(どんなに遠くても、必ずやって来るから面白いヤツだよな…)
などと、まるで他人事のように思うことしばしば…。
今日の目的場所であるパチンコ屋に到着すると、千円分の玉を換え、適当な台の前に座った。
強運の持ち主である秀行にとって、台選びなど必要ない。どこに座っても不思議と当たる。──いや、当たらせるのかもしれない。
所定の所に玉を流し込んだが、秀行はすぐに打とうとはしなかった。
軽快な──うるさいと言ってもいい程の──音楽が鳴るこの場所では、ウキウキ気分で玉を打つ者もいるが、おそらく独自の世界に入っているほうが多いだろう。音楽なんて聞いているようで聞いていない、聞こえてるようで聞こえてない…それが現実だ。
マイペースな秀行にも、うるさいほどのこの音楽が案外聞こえてなかったりする。ポケットから取り出したタバコに火をつけると、しばらくは吐き出したタバコの煙が周りに溶け込んでいくのをぼんやりと眺めていた。傍から見ると、そこだけ別の世界なんじゃないかと思うほどゆっくりとした時間が流れているようにも見える。
丸々一本タバコを吸い終わると、ようやく回転レバーに手をかけた。──とその時、肩越しに一人の男性から声をかけられた。
「先生! 今からかい?」
秀行は知った声に振り向いた。
〝先生〟と呼ぶその男性は、五十歳ぐらいで、そこそこの体格をした〝おっちゃん〟だった。おっちゃんは、この近くで居酒屋を経営している。
秀行が初めてこのパチンコに来た時に隣に座っていたのが、このおっちゃんだった。秀行とは対照的に、手持ちの玉がどんどん機械の中に吸い込まれていくのを横目で見ていた。自分の箱を覗き、見た目から〝三万円いったな…〟と判断した秀行は、去り際に余った玉をおっちゃんの台に入れていった。その後のおっちゃんはツキにツキまくって、元手を取り戻すどころか倍の金額を稼いで帰った…と、次に会った時に聞かされた。それ以来、おっちゃんは秀行のことを「先生」と呼ぶようになったのだ。
おっちゃんの秀行に対する信頼はとても厚い。どこまで厚いかというと、秀行が来る日を調べ、店の定休日を十五日に変えたほどなのだ。色々と話をするうちに、秀行の三原則を知り、尚更おっちゃんは秀行が気に入ったのだった。
「おっちゃんもだろ?」
おっちゃんは、必ず秀行の隣に座る。案の定、〝ああ〟と言いながら秀行の右隣に座った。同じようなタイミングで打ち始め、二台分の玉の音が店内の騒音に加わる。
「それにしても、律儀だねぇ。毎月、同じ日、同じ時間に来るなんて」
おっちゃんは、台から目を離さずいつもと同じ事を話し出した。
「おっちゃんもな」
秀行もまた、同じ言葉を返す。
「先生に会ってから、嬉しいことばかりだぜ」
「例えば…?」
「パチンコも、あれ以来スッたためしがねぇしよ。店のお客さんも、オレの顔が優しくなったって言ってくれて、客が増えたさ」
「へぇ…」
「やっぱ、スッてた頃はイライラしてたからなぁ。怖い顔になってたんだよな、きっと」
「なるほど…」
「あ…でもな、先生の…なんて言ったかな、三原則だったっけ? あれを聞いてから、オレも考え直してよ、そこそこの儲けで帰るようにしてんだ」
「ほぉ…そりゃ、いいことだ」
「──だろ?」
言葉少なに会話していたものの、秀行は前々から思っていた疑問を口にした。
「おっちゃん?」
「ああ?」
「オレと始めて会った時、一体いくらスッてたんだ?」
「あん時か? あん時はなぁ──」
そこまで言うと、突然、電飾の輝きと軽快な音が増した。
「よっしゃぁ、かかったぞぉ。おさき、先生ー」
秀行はその言葉に小さく頷いた。
「──で、えっと…スッた話だったなぁ?」
「ああ」
「あん時はよぉ、ざっと百万…ってとこかな」
「そうか…」
百万と聞いて、普通の人間なら手も止まるだろうが、やはり、秀行は違う。平然と〝そうか〟と言ってしまうところも、おっちゃんが秀行を気に入ったところのひとつだ。
(──という事は、あの時、二百万の大金を持って帰ったわけか。そりゃ、そんだけスりゃあ、顔もきつくなるわな。それにしても、一回百万円をつぎ込む客は、店側にとってありがたかっただろうなぁ。それが、あの日をキッカケにスらなくなったんだから、オレ…ひょっとして店側に恨まれてたりして…)
なんて、実際どうでもいいようなことを考えてると、おっちゃん同様、台の電飾と音が更に増した。
「おー、先生もかかったな…」
「お蔭さんでな」
秀行とおっちゃんがそれぞれの目標額を稼ぐと、二人はその店をあとにした。
ふと時計を見ると、
十六時十五分──
(もう、そろそろだな)
二日おきに同じ台詞を頭の中で呟き、秀行は店の前で待つ。
しばらくすると、珍しく走ってくる克己の姿が見えた。しかし、どこか様子が変だ。近付くにつれて、克己の顔が腫れ、口元からは血が出ていることに気が付いた。
「カツ…?」
「かぁーっ、遅れるかと思ったぜ…」
「どうした?」
「いや…ちょっと先客がいてよ…」
「大丈夫なのか?」
「ああ。一昨日の弱い連中いたろ?」
「ああ」
「あのリーダー格の兄貴が出てきたんだよ」
「それで?」
「見りゃ分かるだろ? あのヘナチョコよりはやりがいがあったけど、俺からしたらまだまだだぜ」
「そうか…」
努めて明るく答えた克己だが、ウソなどすぐに分かる。笑ってはいるものの、何気に右の脇腹辺りを押さえていることぐらい秀行は見抜いていた。
(肋骨やられたか…)
しかしそう思っても、〝大丈夫だ〟と本人が言う以上、口にはしなかった。
「それにしても──」
「だーっっっ!! それ以上ゆーなよ!?」
〝血と一言でもゆったら、間違いなくオレは失神するからな!〟
──とでも言う勢いで、克己は秀行の言葉を制した。
その日の帰り道は、いたって平和だった。
「なぁ、ヒデ?」
「ああ?」
「前から気になってたんだけどよ。俺がいねー時に、襲われたことはねーの?」
「ん~…ないこともない、な」
「マジ!?」
「ああ」
「〝ああ〟って、おまっ…平然とゆーけど…どーしてんだよ、そん時は…?」
(そいつらとやりあったのか? いや、俺が知る限り、ケガして帰ってきたことなんかねーぞ!? だとしたら…まさか、勝ってるのか?)
まさかそんな事はないだろうと思う反面、
(いや、待てよ…。痛いのは苦手だとか何とか言ってても、こいつ、血は好きだぜ!? ホラー映画も見れば、思いっきり戦うゲームも簡単にクリアしていきやがるんだ…。ひょっとして、すんげー強かったりして──)
などと、あって欲しくない想像を裏付けるような日頃の出来事を思い浮かべて、克己は秀行からの返事をドキドキしながら待っていた。
「ヒ、ヒデ…?」
「あー、そん時はな…」
「そ、そん時は…?」
ゴクリ、と唾を飲む克己。
「思いっきりぃ──」
「思いっきり…?」
「──逃げる」
「……は!?」
間抜けな反応を見せた克己を横目で見ながら、秀行は済ました顔で家に向かった。もちろん、心の中では〝ほんとに、楽しいヤツ…〟と笑っているのだが…。