14 友情・ストライクゾーン編 ※
「なぁ? 最近、山ちゃん来ねーけど何かあったのか?」
「さぁ?」
「さぁ…って、なんか聞いてねーのかよ?」
「あぁ、何も」
「………」
毎日来ていた直哉がパタリと来なくなって、既に三日が経っていた。気になって秀行に尋ねてみたのだが、返ってきたのはそんな素っ気ない返事だった。
(無二の親友だろ…? 心配じゃねーのかよ…?)
そう続けたかったが、もしかして…という考えが脳裏によぎれば、あまり追求しない方がいいかも…という結論に至り、結局〝ふ~ん〟とだけ返して話が終わってしまった。
(ケンカの原因はなんなんだろーな…)
克己にとって〝もしかして…〟の推測は、もはや確定していた。
その前日──
秀行は、昼の休憩を見計らって直哉に電話していた。理由は簡単。何も問題ないかどうかを確かめるためだ。
毎日来ていた直哉が、なんの連絡もせず家に寄らないというのは今までになかった。出張でも残業でも、他に用事があったとしても、まるで一緒に住んでいる家族のように連絡してきたのだ。けれど、その電話に直哉が出る事はなかった。
『この電話は、電波の届かない所にあるか電源が入っていないため掛かりません──』
(…ってことは─…)
それだけのことだが、秀行には理由が分かった気がした。それを確かめる為、もうひとつの電話番号に掛けて呼び出してみれば──
『申し訳ありません。ただいま山﨑は休暇中でして、一週間ほどで出勤すると思いますが…』
──との返事が返ってきた。
(やっぱりな…)
ならばしばらく放っておくしかないだろう…と、秀行は小さな溜め息をひとつ付いて、電話を切ったのだった。
そして克己が心配した三日目が過ぎ、四日目の夜──
その日は土曜日という事もあって、いつもの如くサクラがやってきた。
数時間後、夕食の準備を始めた秀行の姿に、〝あれ…?〟と思う。今時間なら必ずといっていいほど秀行の傍にいるはずの人物がいないため、サクラは何気なく口を開いた。
「ねぇ? 今日は直にぃ来ない──」
「うわっ…シッッ──」
突然直哉の名前が出てきたため、克己は慌ててサクラの口を塞ぐと共に、チラリとキッチンを見やった。誰に対して…というのではなく、答えてくれるならどちらでもよい為、敢えて二人に聞こえるように問いかけたのだが──幸いと言うべきか──炒め物をしている秀行には聞こえてなかったようだ。
「…っ…んなの…克にぃ…!?」
いきなり口を塞がれて驚いたものの、そういう所は女の感が冴える。何があったか知らないが、〝何かあった〟という直感はあり、克己の手をどかして問いかけたその声は、かなり内緒話に近かった。
「山ちゃんのことは口にすんな」
「何か…あったの?」
「あぁ。大ありだ」
「なになに? 何があったのよ?」
噂好きは女の性。〝大ありだ〟と聞いて、好奇心が動かないわけがない。
サクラはズイズイと体を寄せて、克己の次の言葉を待った。
「…ケンカだ」
「え…?」
「ヒデと山ちゃん、ケンカしてんだよ」
「…う…そっ…」
「あぁ。俺もウソだと思いてーけどよ…」
「そんなの─…そんなの、アンビリーバボーだよ!!」
「──だろぉ? けど、ここ何日と来てねーんだぜ」
「それって、仕事が忙しくて…とかじゃなく…?」
「俺も最初はそうだと思ったんだけどな…。どーも違うみたいなんだ、これが」
「どう違うの?」
「仕事だったら、山ちゃん本人が最初に言うだろ。〝これから忙しくなるから、しばらく来れねぇ〟って」
「うん、まぁね…。でも忙しくなったのが急で、言えなかったっていう可能性もあるよ?」
「──だとしても、ヒデにはそういう連絡が入ってもおかしくねーだろ?」
「それって…秀にぃも聞いてないってこと?」
「ああ」
「うっわー、もっと、アンビリバボーじゃん」
「──ぁから、ぜってぇケンカしてんだよ、あの二人」
「……………」
それでもあり得ないという思いと、あって欲しくないという思いが重なって、サクラは他の可能性がないかとしばらく考えてみた。
「……ねぇ?」
「…んだ?」
「…シックってこともあるんじゃない?」
「シック…?」
「うん。シック…病気だよ。風邪とか引いてさ、すんごく高い熱が出ちゃったりして…それで電話も出来ないのかもしれないよ?」
「……………」
「もしそうだったら、ヤバクない? 物も食べれなくて、病院にも行けなくてさ…今にも死にそうになってたりしたら…」
そこまで言うと、最悪の状況を想像してかサクラの目にジワッと涙が溢れてきた。
「うわっ…おまっ…泣くなって…」
「…だって…直にぃが死んじゃったらヤダもん…」
あって欲しくないという思いで導き出した可能性なのに、悲しいかな、それ以上にあって欲しくないことを考えてしまった。
「あ、あのなぁ…何でそっちに想像がいくんだよ…」
「……………」
「だいたい山ちゃんだってバカじゃねーんだから、ヤバイな…って思ったら、動けなくなる前に病院行くだろーがよ」
「……そう…かもしんないけど…」
「それに、無断欠勤してたら会社の誰かが連絡入れるか、家に様子見に行くだろ、ふつー?」
「……そう?」
「ああ。──んでもって入院ってことになったら、山ちゃんの実家にも連絡がいくし。そうなりゃ、ヒデにも連絡が入るだろーが?」
「…ん…そ…だね…」
「それがねーってことは、大丈夫ってことだ」
「…そっか…うん、そうーかもしんない…」
克己の説明で、病気で死ぬかもしれない…という可能性が低くなり、ようやくサクラも安心した。
「……んじゃさ、原因はなんなの…?」
「は…?」
「原因だよ。──ケンカになった原因」
さっきまで泣いてたと思ったら、安心した途端に話が戻った。そんな態度にすぐに対応できないのは克己の方で、正直、ケンカした…という話はサクラの涙で忘れてしまっていた。
「何が原因なの?」
「…あ、ああ……そりゃ…俺にも分かんねぇな…」
「なんで…?」
「なんで…って…」
「聞いてないの?」
「聞けるかよ!?」
「聞いちゃえばいいじゃん」
「あのな…」
「だって、原因が分かんなかったら仲裁にも入れないでしょ」
「入るつもりなのか、お前…?」
「当然じゃん♪」
「………………」
仲直りして欲しいと思うし、仲裁に入ってくれるなら入って欲しいとは思う。思うけれど──
サクラが入るとややこしい事になりそうで、克己はウソでも〝頼んだ〟とは言えなかった。
(ケンカ…という結論はどうであれ、サクラに対するカツの対応はまともだな…)
そう思っているのは、聞いてないようでしっかり聞いていた秀行だった…。
それから二日後、つまり、直哉が来なくなって六日目の月曜日──
いつものように克己を送り出した秀行は、手際よく家事を済ませるとクローゼットの中から一着のスーツを取り出し、それに着替えた。そしてポケットに手を突っ込み──まるでくじでも引くかのように──いくつかある紙の中から適当に一枚を摘み出した。
会社名、肩書き、名前を確認すれば、
(ま、こんなもんで十分だろ…)
──と納得する。
その名刺を胸の内ポケットに入れると、秀行はある場所へと向かった。
三十分ほどして到着したその建物を軽く見上げてから、何の躊躇いもなく足を中に踏み入れる。まずは受付だ。
「ここのトップとお話したいのですが…」
「え…あ、はい。あの、どちら様で…?」
「榊原です」
「榊原様ですね。アポは──」
「ありません」
「え…? あ…でしたら申し訳ありませんが──」
「ここにいらっしゃらないなら出直してきます。けれど、〝アポがない者とは決して会わない〟とおっしゃるような頭の固いトップなら、二度と来ません」
無表情の秀行が放つ言葉は、怒っていなくても怒っているように聞こえる。そんなつもりはなくても──ある意味、わざとなのかもしれないが──威圧感さえ覚えるだろう。
受付嬢は、今までと違った秀行の雰囲気にすぐには答えられなかった。
「ここのトップは、そんな方ではないと聞いていますが?」
ヘタをすれば涙さえ浮かべそうなその目に気付いて、一番苦手な笑顔を作ってみせた。それが、凍りついた彼女の声帯を溶かしたようだ。
「は、はい…。少々…お待ちください…」
そう言って向けた営業用スマイルは、正直、秀行よりぎこちなかったが、なんとか内線電話でトップと連絡を取りオーケーが出たのか、数分後に秀行と話す時には、さっきより自然な笑顔を見せていた。
「では、あちらの…一番端のエレベーターで最上階まで昇っていただけますか。目の前の扉が、大野の部屋になります」
受付嬢にそう言われ、秀行は軽く頭を下げると指示されたエレベーターに乗り込んだ。
最上階のボタンを押し、扉を閉める。次に開いた時、目の前には木目調のずっしりとした扉があった。
〝コンコン〟と二度叩き返事があってから扉を開くと、椅子にゆったりと腰掛けている五十代半ばの男性が目に入った。
少々ふくよかで優しそうな目は、一見、会社のトップに立っているようには見えない。けれど、こういう男こそ爪を隠しているものだ。
秀行は、目に映るものより目に見えない……雰囲気やオーラの方を感じ取っていた。
「突然の訪問を失礼します。私は、こういう者ですが──」
そう言って差し出したのは、適当に選んだあの名刺だ。
それを受け取った大野の目が、少々驚いていた。
「海山グループ…。こんな大手会社の方が、いったい私の会社に何の御用件で…?」
「実は、ある男が欲しくてですね──」
「ヘッドハンティング…ですか…」
「ええ」
「そうですか。──まぁ、どうぞ」
そう言って大野が席を勧めた為、秀行も軽く頭を下げ座った。
「──それで、どういった者ですかな?」
「山﨑直哉。──先日、大きな失敗をしたそうですが?」
「山﨑…。確かに、この会社始まって以来の、大きな失敗をした男ですな。損害もかなりのものだ」
「では、その損害額と引き換えというのは?」
その言葉に、大野は顔色ひとつ変えず質問を返した。
「なぜ、そこまで? これから先、同じことを繰り返すかもしれない男ですよ? 引き抜いても、そちらの会社の得になるような事はないでしょう?」
「確かに、そうかもしれません。──ただ興味があるんですよ」
「興味がある…ですか」
「ええ。納得いただけないかもしれませんがね」
「いや…」
大野は即答すると、席を立ち窓際から外を眺めた。そしてしばらくすると、秀行に背中を向けたまま静かに話し始めた。
「今回の事で、彼自身も大きなチャンスを逃してしまった。どこの会社でも〝裏の世界〟はあるもので、目を瞑ればそのチャンスを生かすことが出来る。大きな事を成し遂げる為の計画は、時に策略でもあり、数多くの犠牲もあるでしょう。だが、そのやり方が気に入らないという理由だけでは通用しないのが裏の部分です。正義感だけではやっていけないのが、今の世の中ですからな」
「──ごもっとも」
(ある意味、実家に帰れば〝裏の世界〟にどっぷりハマってんだがな…)
そう心の中でツッコミながらも、〝正しい事をしたけりゃ、上に行け〟なんて、あるドラマの台詞に出てくるような世の中だというのもよく分かっている為、大野の言葉には納得した。
そして、大野はこれが重要だと言わんばかりに秀行に向き直った。
「ですが…あなた同様、私もあの男を気に入っていましてね。裏の世界に関わらずとも、自力で私の椅子に座る日がくるのではないか…そんな期待と微かな恐れを抱く男なのですよ」
「なるほど。──では、いくら積まれても手放す気はないと?」
「本人が、そう望まない限りは」
大野は真っ直ぐな目でそう言った。
それを見た秀行の表情が、他人に分かるか分からないかぐらいの微妙さでフッと緩んだ。
「分かりました。この先、同じような事が起こるかもしれない─…つまり、山崎直哉がこの会社にとってのリスクになったとしても、本人が望まない限り手放す気がない、そうおっしゃるのなら、これ以上は私の出る幕はないようですね」
「そのようですな」
その言葉を聞いて、秀行は立ち上がった。
「あなたの目を確かめる事が出来てよかった。では、私はこれで──」
軽く会釈して部屋を出て行こうとドアノブに手をかけた時、
「榊原さん──」
大野が秀行を呼び止めた。
「なんでしょう?」
秀行もその場でクルリと振り返る。
「山﨑とあなたは、とてもよく似ていますな」
「そうですか?」
「一見、表と裏のように相反してるようだが、眼は同じものを持っている。もし二人が手を組めば、海山グループを操る事もそう難しい事ではないでしょう。ひょっとして、私はあなたの邪魔をしたのかもしれませんな」
「さぁ、どうでしょう? ──ただもしそうだとしても、私と山﨑が似ているのなら、私達の上に立つ者がもう一人必要だと思いますよ」
「もう一人?」
〝そんな人間がいるのかね?〟
大野はそんな目を向けた。
「山﨑より正義感が強く、バカが付くほど一直線な男がね」
「…なるほど。ダミーかね」
「まぁ、そんなところです。でも、私はそういう男が好きですから、機会があればダミーでも本気で守りますよ」
「それは山﨑も同じでしょうな。本来なら、ヘッドハンティングは本人との話し合いで行われるもの。それを直接私に持ちかけるのを見ると、さしずめあなたが裏で、山崎は表でそのダミーを支えるのでしょうな。──怖いものなしの図式だ」
「それでも、あなたが山﨑を手放さない限りその図式は成り立たない」
「──ならば、私の目は確かであったかな」
その言葉に対し、秀行は無言で口元を緩めその部屋をあとにした。それは誰が見ても分かる笑みだった…。
連絡もせずに秀行の家に来なかった理由は三つ考えられた。
一、急に仕事が忙しくなり、連絡できなかった。
二、病気で電話する事も出来ないくらい弱ってしまった。
三、会社で大きなミスをし、一人になりたかった。
その三つの可能性から考えて、有り得るのは三番目だった。
急に仕事が忙しくなっても──仕事をしているからこそ──携帯は繋がるはず。病気も同じこと。辛くて電話に出られなくても電源を切る必要はないし、克己の言う通り、ヤバクなる前に病院に行くだろう。たとえバカで病院にも行かず、結果として死にそうになったとしても、電話に出ないということは、ある意味SOSの発信になるため電源は入れたままにしておくはずなのだ。故に二日目に電話をかけた時、秀行は三番目の可能性を確信したのだった。
直哉の携帯が繋がらないと知って、次にかけたのは直哉の会社。休暇中というのは表向きで、要は自宅謹慎中のことだ。少々の事ではヘコマない直哉が、秀行にさえ連絡を取らないということはかなり落ち込んでいるという事だろう。電源を切っても、会社の人間から電話がかかってくることはないだろうから、一人になる為に切っていたのだ。
そこまで予想が付いた為、秀行はしばらく放っておくことにしたのだった。だからといって、心配してないわけではなかったが…。
ただ、分からないのは、ミスの理由だ。それを知る為というのもあるが、それ以上に克己やサクラがあらぬ心配を膨らませている為、敢えて会社へ乗り込んだのだった。
スーツに入っていたいくつかの名刺は、アルバイトでたまたま知り合った時の物。今でも繋がりがあるかというとそうではないのだが、使えそうなネットワークを残しておいたのだった。ただし、その人物が今でもその会社にいるという保証はなかった。故に今回秀行が使った〝榊原〟という人物も、そこに実在するかは秀行すら確認してないのだが…。
(まぁ、使い方次第だな…)
秀行は、直哉らしいミスに、ある意味、安心して家路に着いた。スーツを脱ぐと、いつもの服に着替えていつものように過ごす。数時間後、陽射しが弱まる夕方になってから〝そろそろ行くか…〟と再び出かけた。本来の目的は一つだが、理由付けの為にはもう一つ目的がいるわけで…最初に出向いたのはスーパーだった。
適当に買ってから、少し遠回りして帰る。
その途中──
〝ピンポン♪〟
──という音が鳴ってビール片手にボンヤリしていた直哉は、玄関の入り口の方に顔だけを向けた。
(こんな時間に勧誘かよ…?)
ならば絶対出ねぇ…と、面白くもないテレビに向き直る。しかし、再びチャイムが鳴った。
〝ピンポン♪〟
(うるせーな。電気がついてるのに出ねーのは、居留守だと言ってるようなもんだろーが?)
それはつまり、門前払いされているのと同じ事。故にまったく出る気はなく、最後の一口を飲み干すと、直哉は新たに冷えたビールを冷蔵庫に取りに行った。
ワンルームでのキッチンは玄関に一番近い。冷蔵庫の音で、部屋の住人がすぐ近くに来たことを悟ったのだろう。三回目のチャイムを鳴らす代わりに声を掛けてきた。
「ここで踊らなければ、この扉は開かないのか?」
(え…秀行──!?)
心の中でそう叫ぶが早いか、直哉は玄関の扉を開けていた。
そこには、買物袋を提げた秀行が〝やっと、開けたか…〟という表情で立っていた。
「…秀…行…。お前、なんでここに──」
「踊るとしたら、女装が必要か?」
「え…?」
それは〝あまの岩戸〟の神話に例えていた。
何でここに来たか…という質問には答えず、冗談半分にそう言うから、思わず直哉も冗談半分で言い返す。
「あぁ…オレはそんな姿も見てみてーがな…」
「そうか。じゃぁ、またいつかな」
(マジかよ…?)
本気とも冗談ともとれるその口調に、思わず苦笑する。
「上がるか…?」
「いや。買物ついでに寄っただけだ。安くて買いすぎたからな」
そう言って買物袋からリンゴを取り出した。
「一個かよ…?」
「まぁ、理由付けだからな」
「…………?」
「それより、カツが心配してるぞ」
「あ、あぁ…わりぃーな。今、仕事が忙しくてよ…」
「そうか」
「もう少ししたら落ち着くから、そん時にまた行くわ」
「できるだけ早い方がいいぞ」
「なんでだ?」
「あいつ、オレとお前がケンカしてると思い込んでる」
「は…マジ!?」
「ヘタに否定すると逆に信じないからな、あいつは」
「敢えて無視ってか?」
「現状維持ってところだ」
「はは…」
「まぁ、本音を言えばそういう心配よりもツマんねーって方が勝ってるんだろうが」
「ツマんねぇ…か。──そう言うお前はどうなんだよ? オレと会えなくてツマんなかったんじゃねーの? いや、寂しかったってゆーほうが正しいか?」
仕事が忙しいとウソをつき、その上心配してるだのツマラナイだのと言われたら、直哉の良心が僅かに痛みだす。それを紛らわせようと冗談交じりに問いかければ、
「どうでもいいヤツが離れるのとはワケが違う」
──と驚くほど真剣な表情で返されてしまい、その予想外の返答には、さすがの直哉も素直に謝ってしまった。
「あ…あぁ~…そ、そうだな…悪かった…」
そんな直哉を見て、秀行の表情がふっと緩んだ。
「──じゃぁ、オレは帰る」
「あ、あぁ…」
ついでとはいえ電話で話せば済むような会話が終わると、秀行はそう言ってくるりと背中を向けた。二歩ほど歩き直哉もドアを閉めかけようとした時、不意にその足が止まった。
「そういえば─…」
「あぁ?」
「お前が欲しいって言ったら、キッパリ断られたぞ」
「…………!?」
「あの会社、なかなか見る目があるな。特に大野っていう社長は」
「は!? ま、まさか…秀行、お前…?」
たったその二言で、直哉は秀行がここに来た本当の目的を知った。
「は、はは…。ほんと、相変わらず変化球だよな?」
「けど、ちゃんとストライクゾーンに入ってるだろ?」
「ああ、まぁ…ある意味、ど真ん中にな」
そうなのだ。秀行の言葉は、どんな変化球でも直哉にとって嬉しいもの。特にこういう時の変化球は外れた試しがない。故にど真ん中のストライクなのだ。
「──けどよ、秀行?」
「なんだ?」
「〝オレが欲しい〟ってゆー言い方は、どうかと思うぞ?」
「……そうか?」
〝なぜだ?〟とでも返ってきそうなこの口調。
(──ったく。オレ、誤解されてねーだろーな…?)
会社に行って〝欲しい〟と言えばヘッドハンティングの意味だろうし、直哉が心配する事ではないのだが、いかんせん言葉数の少ない秀行の事。自分ならまだしも、他の人間にとってはその言葉足らずが誤解を招くため心配してしまう。
(でもまぁ、いっか──)
「なぁ、秀行。やっぱ、明日からお前んちに行くわ」
「あぁ、分かった」
パタンと玄関が閉まれば、直哉はドア越しに呟いた。
「サンキュ、秀行」
そして冷えた缶ビールを取り出し部屋に戻ると、テーブルの上に置いてあった携帯の電源をそっと入れた。
そんな頃、大学から帰ってきた克己は、畳の間で見慣れないものを見つけてパニクっていた。
(うっわ…マジかよ…!? やべぇ…マジでやべぇーぞ…!!)
とにもかくにも、こういう時に頼りになるのはただ一人!
たとえケンカしていても、こんな一大事には関係ないはずだ。やべぇ、やべぇ…と言いながら子機を掴み短縮ボタンを押せば、久しぶりに聞く落ち着いた直哉の声。
それを聞いて、思わず叫ぶ。
「や、山ちゃん! 今すぐ来てくれ!! ヒデが…ヒデがサラリーマンになろーとしてる!!」
普通ならワケが分からない内容だが、以前、秀行から夢の話を聞いたことがある直哉にとっては、一瞬にして理解できる事だった。
(秀行のヤツ…。〝ついでに〟って言っておきながら、バリバリ、スーツで乗り込んでんじゃねーか)
そう。それは〝面倒臭がり〟の秀行にとって、〝わざわざ〟の行為。そんな事をするのは限られた者だけに対してだろう。
悪かったな…と思う反面、嬉しい気持ちのほうが何倍も勝っていて、あまりの嬉しさに本気で焦っている克己の事さえ忘れそうになるほどだった。下手すれば、そのまま携帯を切ってしまうところだが、
「聞ーてんのかよ、山ちゃん!?」
切羽詰った克己の一言が耳につんざき、ようやく大爆笑と共にそうなった説明を始めたのだった。