13 秀行の異変?編 ※
「首に縄つけてでも、病院連れてくからな!」
朝顔を合わすなり真剣な面持ちで発した第一声を、克己は再び同じように繰り返した。そんな事をすれば、お前が疑われるだけだ…と返したいところだが、いかんせん今はテスト期間中。普通の授業ならまだしも、テスト期間中に遅刻・欠席は避けさせたい。
克己の希望する返事を返さなければ、一歩たりともそこを動こうとはしないであろう雰囲気がバリバリに伝わってきて、
「分かった。お前の言う通りにする」
──と仕方なく答えれば、
「大丈夫だ。俺がついてっからよ」
──と満足げな顔を見せ、克己はやっと大学へと向かったのだった。
事の発端は昨日だ。
「悪い、寝過ごした…!」
部屋の扉が開くと同時に、珍しく慌てた様子で飛び込んできたのは秀行。
「おい、カツ。起きろ!」
「んあ~~?」
「今日からテストだろ?」
「あぁ~~」
短期集中型の克己は、その言葉どおりテストの一週間前になってようやく勉強し始める。しかも夜中の二時や三時まで起きているため、朝は相当眠い。放っておけば、間違いなく眠り続けてしまうだろう。普段ならともかく、テスト期間中の遅刻・欠席は避けさせたいもので、眠い原因が勉強ならば、さすがに〝我関せず〟の秀行でも手を貸そうと思うのだ。
とにかく完全に起きるまでは…と、再び深い眠りに入る前に声を掛けた。
「おい、カツ──」
「あぁ~…今何時だよぉ…?」
「八時──」
「なら大丈夫だって。俺の足なら駅まで二十分で行けんだからよ…」
〝だからあと五分寝かせてくれ〟
余裕でそこまで言おうとしたが、
「──から、十分オーバーしてんだ」
──と申し訳なさそうな声が聞こえてくれば、寝ぼけた頭でも小学生並みの計算はできるもので、布団を被りなおそうとした克己は瞬時に飛び起きたのだった。
普段なら腹も立つことだが、この際、秀行の〝ドッキリ〟であれば笑って許してやろうと思い、改めて枕元の時計を見直してみるが、悲しいかな秀行の言葉は正しかった。
「マッジかよ──!?」
「悪い…飯食う時間が──」
「うおぉぉぉ~~、マジ、ヤベェーぜ!!」
秀行の言葉などまるで聞こえてないようで、脱ぎ捨ててあったジーパンを履くと──Tシャツにトランクスというスタイルで寝ているため着替えはほとんど必要なく──カバンを引っ掴んで出て行こうとした。──が、そんな克己を止めたのはもちろん秀行だ。
「カツ、待て!」
「──っんだよ!?」
「朝食わないと、解ける問題も解けないだろ」
「──んな時間あるかよ…!?」
状況見ればそれくらいは分かること。故になぜ今、そんな天然が出るんだよ…と言いたくもなるのだが、一秒でも早く家を出る必要がある者にとって、余計なことは言わないのが吉というもの。
すると──
「だったら、せめてこれを食え!」
そう言うなりガサッと手渡されたのは、数個のアルファベットチョコレート。
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緊急非常食とばかりに渡されたそれが、栄養補助食と言われる物なら間違いなく〝いるかー!〟と下駄箱の上にでも叩きつけたのだろうが、大好物の甘い代物ならば何かを言いたくても言い返せないのが克己だった。
やはり、秀行の方が上手である。
「──ってくる!!」
そう言うのが早いか、玄関はバタンッと閉められた。
階段を降りて自転車置き場に行く間に、克己は渡された全てのチョコレートを口の中に放り込んだ。そして二十八分発の電車に乗るべく、今までにないスピードで駅へと向かった。
〝俺の足〟とはもちろん自転車のことだが、全力疾走した結果──この際、信号無視は大目に見るとして──十七分という最短記録を作り出すことができた。そしていつもの電車に乗り大学に到着すると、間もなくしてテストが始まったのだった。
脳細胞を活性化させるために渡したチョコレートが、全力疾走時のエネルギーに全て使われたとは、秀行はもちろん克己も予想もしてなかったことだろうが、運動によって血の巡りがよくなったという点では、同じ作用をもたらしたのかもしれない。
そこそこの手ごたえを感じ、無事にその日のテストは終了した。
「たっでぇーまぁ~」
「おぉ…」
その返事は、どこか微妙にヘンだった。何かに集中している時の曖昧な口調のようで、尚且つ、いつもならそのすぐあとに〝テストはどうだった?〟と聞いてくるのだが、それ以上なんの言葉も続かないのだ。
ベッドの上にカバンを放り投げ、ジーパンから短パンに履き替えていると不意に聞きなれた〝音〟が克己の耳に届いてきた。その音の正体を克己は瞬時に理解する。
(平日の真っ昼間に、山ちゃんが来てんのか?)
そう思い改めて部屋から玄関を覗くが、直哉の靴はなかった。
(まさか…な?)
あり得ない結論にリビングに向かうと、そのあり得ない光景を目の当たりにしたから、さぁ、驚きだ。
「ヒ、デッ…何やってんだよ!?」
「何って…見ての通りゲームだが?」
「そりゃ見りゃ分かるって! ──そうじゃなくて、そのゲーム俺のやつだろーが!?」
「あぁ、そういうことか。──悪いな、勝手に借りてるぞ」
「──じゃなくてぇ!!」
言いたいことが上手く伝わらないというか、秀行の天然が邪魔をして伝わらない事に、イライラが募って声のトーンも上がる。
何をそんなに怒ってんだ…と理解できないのは秀行の方で、仕方なくポーズボタンを押して振り向けば、
「なんでグチャグチャのやつじゃなくて、オートバイレースなんだよ!?」
──と、またもや秀行にとって理解に苦しむ言葉が返ってくる。
「…グチャグチャの方がよかったのか?」
「──ンなわけねーだろ!?」
「じゃぁ、なんなんだ?」
溜め息混じりに質問すれば、
「だっからぁ、今まで俺のゲームには見向きもしなかったのに、なんで急にやってんだって事だよ!」
──と、ようやく分かる答えが返ってきた。
「そういう事か…」
「そういう事だ!!」
「フム…。別に理由はないが、お前が楽しそうにやってるのをふと思い出して…。何気にやってみたら、案外面白くてな…」
「マジ…かよ?」
「ああ」
別にあり得ない理由ではないし、家に帰ってきた途端、グチャグチャ系のゲームを見るよりは随分マシだとは思うが、今までになかった光景ゆえ素直に納得できない。──というより、秀行に違和感を感じてしまう。
とりあえず、気味悪いからいつものゲームにしろ…とは口が裂けても言えないため、再びポーズボタンを押してゲームを再開する秀行の後姿を黙って見ているしかなかった。しかし、ここでふとあることを思い出した。
「なぁ、ヒデ? 今日って、バイトの日だろ?」
「……………」
「ヒデ…?」
「……そう、だったな」
そういえばそうだったと思い出せば、一位独走中にもかかわらず、途中リタイアして出かけていった。
(なんっか、おかしい…)
何があったんだ?
いつからだ?
──そんな事を考えてみると、今朝の事が脳裏によぎった。
(そうだ…。ぜってー、おかしいって!!)
秀行の異変を確信し、不安になった克己が思わず電話を掛けたのは、もちろん無二の親友。
三回目のコールが終わり、四回目が始まるその瞬間にポケットから取り出した携帯のボタンに指をかけたのは、仕事中の直哉だ。
「もしも──」
『おっせーよ、山ちゃん!!』
普段ならこんな時間には絶対かかってこない相手ゆえ、改まって電話に出れば、最初の一言が〝おっせーよ〟とは…。
しかも、仕事上かかってきた電話のコールは三回までに取るというルールを守ったというのに、だ。
相手が秀行なら緊急だろうと焦りもするが、〝思ったら即行動〟してしまう一直線の克己では緊急性はないと判断できる。
「今、仕事中だ」
〝故に電話を切るぞ〟と声を低くして言えば、
『ばっ…待てって! 緊急なんだよ!!』
──と、慌てた様子で返ってきた。
「何がだ…?」
『ヒデが…ヒデがヘンなんだ』
「ヒデが…?」
緊急事態でヒデがヘンと聞けば、仕事中とはいえそのまま切るわけにもいかない。
目の前にいる商談中の男性に一言かけ、一度部屋の外に出た直哉は改めて秀行のヘンさを尋ねた。
「どういう事だ、秀行がヘンとは?」
血液型の一件以来、一般的に見ればヘンなのは昔からだが、克己が〝ヘン〟というにはそれなりの事があったのだろう。
少々緊張して克己の返事を待てば、
『それが…朝は寝過ごすし、トランクスだったしよ……。ゲームまでしてんだぜ?』
「……………」
そんな説明になんと答えればいいのだろうか?
答えに困り黙っていると、再び克己の声が聞こえてくる。
『きーてっか、山ちゃん?』
「あ…あぁ…」
『なぁ、ヘンだろ?』
珍しいとは思うが、秀行だって人間だ。寝過ごす事もあるだろうし、ゲームだってする。トランクスだったという事がどうヘンなのかは分からないが、直哉にしてみれば、緊急を要する事ではないというのが結論だ。けれど同意を求める克己にそのまま伝えたところで、納得しない事も十分予測できるわけで…。結局、
「とりあえず、あと三十分くらいで時間ができるから折り返し電話する。それまで待ってろ」
──だけ伝えて、強引に電話を切ったのだった。
殆ど一方的に切られた克己の方はというと、不満げに電話の子機をソファに投げつけていた。不安な時の時間経過というものはとても長く感じるもので、考えたくなくても〝他にヘンなところはなかったか〟という事を考えてしまう。そしてやっぱりと言うべきか、新たな〝ヘンさ〟を見つけてしまったのだ。
それは秀行が熱を出して家事を引き受けた時に言われた事。そう、ベランダにあるはずのものがなかったのだ。慌てて洗濯機を覗きに行った克己。しかし洗濯物は入っておらず、嫌な予感がして後ろを振り向けば、洗濯物は洗われもせず洗濯籠の中にたまっていたのだった。
(うおぉ~~! マジ、やべぇ!!)
不安な気持ちが頂点に達した時、ようやく電話のベルが鳴った。飛びつくように電話に出た克己は、思わず叫ぶ。
「山ちゃん、早く帰ってきてくれ!!」
『はぁ…!?』
「いーから、早く帰ってこいって!!」
『あのなぁ…』
「マジ、やべぇんだって!!」
『落ち着け、カツ!』
「これが落ち着いてられっかよ──」
『だったら、切るぞ!?』
言う事きかねーなら話も聞いてやんねーぞ、とばかりに言われれば、さすがの克己も大人しくなるというもの。
『──で、いったい何があったんだ?』
数秒無言が続いた後、諭すような口調が受話器から聞こえてきた。
「だからよ…。俺、今日からテストだったんだけどな、ヒデが寝過ごしたんだ」
『ああ見えて、秀行だって人間だぞ。寝過ごす事くらいあるだろ?』
「そう…だけど…。今まで一度もなかったんだぜ?」
『今まで一度もなかったからって、これから一生ないってことはねーだろが?』
「……………」
『それに時計だって電池が切れれば、アラームもならねーし、時間も遅れるさ。そうだろ?』
「それって…ヒデも何か切れたってことじゃねーのか?」
『いや、そうじゃなくて──』
完璧じゃないという事を言いたかったようだが、どうも例えが悪かったらしい。とりあえずそれ以上突っ込まれても困る為、慌てて次の話題に切り替えた。
『それで、トランクスとゲームの話はどういう事だ?』
「お、おぉ、それがな。ヒデが寝る時って、Tシャツとインナーの短パンなんだ。でも今日、俺を起こしにきた時は俺と同じトランクス姿だったんだよ!?」
『…………』
「それに家に帰ってきた時、何やってたと思う? ゲームだぜ、ゲーム!!」
『ゾンビ系のゲームでもしてたから怒ってるわけか?』
「ちっげーって!! やってたのは俺のゲーム! バイクレースのゲームだよ!!」
『ほぉ~。珍しい事もあるもんだな?』
驚くどころか素直に感心する直哉に、だんだんイライラが募ってくる。
「何気にやってみたら、結構面白いってゆーんだぜ!?」
『そりゃ、アレだろ。食わず嫌いと一緒で、やらず嫌いだったんだろ。やってみて面白いってゆーのは普通のことだろうが?』
「うぅ~~~~!! んじゃ、洗濯してないってーのはどうだ!? バイトの事だって、すっかり忘れてたんだぞ!!」
どう考えてもおかしいだろ…と、ある意味自信を持って突きつけたのだが…。
『バイクレースで夢中になれば、洗濯だってバイトだって忘れるさ』
なんとも落ち着いて分析されてしまえば、言い返すこともできずに怒りだけが湧いてくる。
「もっ、いい!!」
(何が唯一のダチだ? 何がヒデに惚れてる、だ? ちっとも心配してねーじゃねーか!!)
直哉はアテにならないと──今度は克己の方が──一方的に電話を切ってしまったのだった。
それから数時間後、秀行がバイトから帰ってきた。心配で玄関まですっ飛んでいくと、即座に目を奪われたのは秀行の手。左手にはバイトの景品の紙袋──これも珍しい事だが──右手にはあり得ない生き物が…。
「ヒ…ヒデ…これって…」
「あぁ、拾った」
言葉少なにそれだけ言うと、景品だけ克己に預け、自分は子猫をジュニアに紹介しに行った。
(あ、あり得ねぇ…。ぜってー、あり得えねぇ…)
これが何の異変もない時なら、珍しい…と思いながらも喜んでいるところだ。しかし、今は違う。異変だらけで、喜ぶどころか不安が倍増する一方なのだ。
何をどうしていいか分からず突っ立っていると、再び玄関が開いて、入ってきたのは直哉だった。どうやら仕事を早めに切り上げたらしい。
〝アテにならねー〟と思いながらも、あり得ない事が続けば、やはり直哉の存在はありがたいわけで…。
「おぉ~、山ちゃん! 来てくれたのか!?」
「まぁな。珍しい事が重なっただけだろうが、お前があまりにもパニクってたからな」
「パニクるどころじゃねーって。今も子猫拾って帰ってきたんだぜ!? しかも、これ。バイトの景品まで持って帰ってくるしよ…」
秀行がナチュラル派だというのは直哉もよく知っている。故に子猫を拾ってきたと聞けば、さすがに何かおかしいと気付き始めたのだろう。
リビングでジュニアと子猫が戯れる姿を覗き見ながら、しばらく様子を見ることにした。すると、しばらくして自分達の耳を疑ってしまう声を聞くこととなった。
「ははは…あはは…カツ、見ろよ。コイツ、ジュニアの真似ばかりしてるぞ」
おかしくない。こちとらちっとも、おかしくないぞ。
「や、山ちゃん…笑ってる…」
「あ、ああ…」
「ヒデが…無表情のヒデが声出して笑ってる…」
「あぁ…オレも初めて聞いた…」
あまりの出来事に、なんだか力が抜けていく。
「どう…しちまったんだよ…?」
泣きそうな克己の手から、持っていた紙袋がドサッっと床に落ちた。その音と共に、条件反射の如く下を見た直哉。克己が好きな甘いお菓子が散らばる中に混じって、どう見ても景品ではないものを見つけてしまった。思わず座り込んで手にとって見れば──
「カツ…」
「あ、あぁ…?」
「相当、ヤバいかもな…」
そう言って呆然と立ち尽くす克己の目の前に、その景品でない物を拾い差し出した。
「────ッ!!」
驚きのあまり声にならない。
「あいつ…働く気か…?」
そう、それは就職情報誌だったのだ。直哉のその一言で、克己は限界を迎えた。
「うっぉ~~~!! もう、我慢ならねぇ!! ──山ちゃん、病院だ、病院!!」
「なに!?」
「だから病院だ! 精神科に連れて行く!!」
「精神科…って…」
まぁ、確かに外科や内科ではない。しかし、だからといって納得する直哉ではなかった。
「ヒデ、安心しろ。今、救急車呼んでやるからな!」
そう言って電話に向かう克己を止めたのは、もちろん直哉だ。ある意味パニクった克己のお蔭と言うべきか、直哉はすぐに冷静さを取り戻すことができた。
「──っにすんだよ!?」
「やめとけ」
「なんで──」
「ムダだからだ」
「なに言ってんだよ! ヒデがおかしいんだぜ!?」
「そりゃそうだが、連れて行った所で疑われるのはお前のココだぞ」
そう言って指差したのは頭。
「なんでだよ!?」
「考えてもみろ。オレらにとっては普通じゃなくても、一般人から見ればアレが普通の姿だ。普段の秀行の方が異常なんだからな。表情がないなんて典型的だろーが?」
「う……そ、それはそうだけど─…」
「まぁ、どんなサラリーマンになるか想像もつかねーけど、それはそれで面白そうじゃねーか」
克己の気持ちとは裏腹に──切り替えが早いというのか──直哉は楽しそうにそう言った。
直哉の言葉はきっと正しいのだろう。どう考えても今の秀行の方がまともだし、反論する言葉も浮かばない。
だけど──
やっぱり──
どうしても──
我慢ならないものは我慢ならないもので──
直哉がアテにならない以上、秀行は自分が救って見せる…と正義感に満たされた克己は、自分の頭が疑われようと、一人でも秀行を病院に連れて行くと決心したのだった。
そして翌日──つまり今日──顔を合わすなり発せられたのが、
「俺、ぜってぇ、病院に連れてくからな!」
──という一言だったのだ。
わけが分からず説明を求めれば、
「──そんな夢を見た」
──との事。
その夢が現実のテスト期間という話の為、あまりにもリアルで不安になったのだろう。もし現実にそんなことがあれば、何が何でも秀行を病院に連れて行くからな、というのだ。
どう考えても夢の中の秀行の方がまともな人間であり、そんな秀行を病院に連れて行けば間違いなく克己の方が疑われそうなものなのだが、今の克己にとってそんな考えが思い浮かぶほど冷静ではないらしかった。
なかなか返事が返ってこず、イライラしながら先ほどと同じ言葉を繰り返せば、ようやく返ってきたのが自分の希望する返事で…。テストの事はさて置き、心配事はなくなったと、大学へ向かう克己の足はとても軽やかだった。
一方、部屋の中に訪れた静けさの中で、秀行は込み上げてくる笑いを抑えることができず、久々に声を出して笑ったのだった。
(ほんと、面白いやつだよ、お前は…)