11 克己の敗北編 ※
それはある土曜日の夕刻。
薬局に出かけようとしていた秀行と入れ替わるように入ってきたのはサクラだった。克己の部屋には入らない方がいいと忠告されたものの、人間〝ダメだ〟と言われれば覗きたくなるのが、ある意味常識。しかも、いるのかどうか分からないほど何の音も立たなければ尚更である。
最初こそカーレースのゲームをしていたサクラだったが、コンピューター上の対戦相手には少々不服気味。しばらくすれば静かな部屋が気になり、何かしら理由を考えて克己の部屋の扉を開けたのだったが…。
「う…そ……!?」
弾き出されるように閉められた扉の前で、ほんの一瞬だけ見えたその顔にサクラは信じられない面持ちでそう漏らした。
「何が〝うそ〟なんだ? ──って、おい…ちょと待っ──」
あまりの衝撃で直哉が玄関の扉を開けたことさえ気付かなかったサクラ。慌てて直哉の袖口を引っ張ってリビングに連れて行こうとする。一方、直哉は分けが分からず、ものすごい勢いで自分を引っ張るサクラに〝どうした?〟とさえ聞けないでいた。転ぶ前に靴を脱ぐのが精一杯だったのだ。
リビングに入った途端、サクラはその扉を閉めた。
「ど、どうしよう…直にぃ…」
「…なにが?」
「アンビリーバブル!! ハプニングだよぉ!!」
「だから、何がだ!?」
「克にぃが…克にぃがクライしてるの!!」
「はぁ…!?」
いつもの英語交じりの会話は、やはり意味不明。呆れたようにネクタイを解こうと緩めた所で、サクラはその手を掴み再びネクタイを締め上げた。
「うぐっ…。お、おい…何すん──」
「だから、クライしてんだってば!」
「それがどうした!?」
〝クライしてる〟とはいったいどう意味なのか分からない。その上くつろぎウェアーに着替えようとした矢先、解きかけたネクタイで首を締め上げられれば、さすがの直哉もそんな事はどうでもいいと思えてくる。
日常会話に英語がミックスされれば、日本語だっておかしくなるだろう。どうせ〝克己が暗いんだ〟とでも言いたいのだろうと──それはそれで珍しいのだが──力づくでネクタイを外し、くつろぎウェアーに着替え始めた。
「そ、それがどうした…って…直にぃ、心配じゃないの!?」
「心配も何も、暗いぐらいでそう大騒ぎする事じゃねーだろーが? あいつだって、考え込んだり落ち込んだりする事ぐらいあるだろ? まぁ、珍しいことだけどな…」
「でも、異常だよ!? サクラ初めてだもん、あんなクライしてる顔…」
「お前なぁ…」
完全に着替え終わった直哉は、サクラの言葉に大きな溜め息をついた。
「もう少しまともな日本語使えよ。聞いてるほうがワケわかんなくなるだろーが?」
「ひっどーい、直にぃ。どこがまともじゃないっていうのよぉ」
「さっきの言葉に決まってんだろ? クライしてる顔じゃなくて、暗い顔してる…だ」
「違うよ。クライしてる顔が正しいもん」
「あのなぁ…」
「クライしてんだよ、クライ!! シーアールワイの、クライ!!」
「はぁ…!?」
両手の拳を握り、〝何でわかんないの!?〟と何度も上下に振り下ろすサクラ。その光景を目の端で捉えながら、直哉はサクラの言った〝シーアールワイのクライ〟というのを一生懸命考えていた。
(シーアールワイ…? シーアールワイ…シーアールワイ…C・R・Y……CRY…!?)
「な、泣いてんのか!?」
「シィー!! 声が大きいよ、直にぃ!!」
「お前…なんでもっと早くそれを──」
「言ってたじゃん、最初っからぁ!! 直にぃが気付くのが遅いんだよぉ」
「分かるか、そんなもの! 英語を混ぜるから分からなくなるんだ…って、いや、今はそんなことはどうでもいいな。それで、なんで泣いてんだ?」
「分かんないよ。秀にぃは薬局に出かけちゃったし、部屋には入るな…って言われただけで─…」
「薬局…?」
(おいおい…まさかウソだろ?)
直哉の頭の中に、有り得ない結論が浮かび上がってきた。その結論を否定しようとしたが、次に発したサクラの言葉がそれをさせなった。
「目は真っ赤だったし、鼻に詰めたティッシュにも血が付いてた…。一瞬だったけど、もう…ボロボロだったよ、克にぃの顔。ねぇ、何とかしてあげてよ、直にぃ」
「な、何とかって言われても……」
(ケンカに負けたのなら放っておいて欲しいもんだろ、普通は…。それに、何とかできるとしたら秀行しかいねーと思うがな…)
──とそこまで考えて、不意に秀行の事が頭をもたげてきた。
(まさかとは思うが…薬局に行くって言っておきながら、カツの仇をとりに行ったってんじゃ──)
──と、これまたそんな心配をしていた矢先、玄関が開く音がしたかと思うと、次いで克己の部屋の扉がすばやく開閉される音が聞こえた。反射的に見えもしない扉の向こうを伺ってから、お互いを見合った二人。一瞬早く反応したのはサクラだった。
「サ…サクラ、何も見ていないから…」
「は…?」
「あとは直にぃにタッチ!」
「な、なんだ──」
胸を叩かれ飛ぶような勢いでソファに座りテレビを付ければ、リビングの扉が開いて直哉にぶつかりそうになったのは殆ど同時だった。
「お…悪いな」
「あ、ああ…いや、大丈夫だ。それよりどこ行ってたんだ?」
行き先はサクラから聞いていたが、敢えて聞いてみた。
「ちょっと近くの薬局にな」
「そうか…。カツがいねー頃は、薬局なんて用がなかったのにな?」
「ああ、まったくだ」
そう言って溜め息を付くと、秀行はキッチンに入り夕食の準備を始めた。続いて直哉も手を洗い始める。
「──で、今日は何の予定だ?」
敢えて普通に話し始めた。
「肉じゃが…と、サラダ」
「おぉ~、お袋さんお得意の肉じゃがか」
「ああ」
手際よくジャガイモの皮を剥き、人参、豚肉、しらたき、玉ねぎを適当な大きさに切り始める。まな板が空けば、今度は直哉がサラダを作り始めた。──が、その後の秀行の行動を見て、さすがの直哉も思わず野菜を切る手を止めてしまった。
「お、おい…。なんで器に入れるんだ?」
「時間短縮だ」
「…………?」
不思議な面持ちの直哉を残し、鍋ではなく深めの器に全ての材料と調味料を入れると、ラップをかけ電子レンジに入れたのだった。
時間設定五分。ピピピと鳴れば中身を少しかき混ぜて、更に五分。電子レンジのものが気になりながらも、その間にサラダを作り終えた直哉。二回目の合図が鳴り、取り出した器を見た直哉は、
「へぇ…」
──と、感心の声を漏らした。
「煮くずれもなく、味も染みる。何より時間が短縮される方法だ」
「なるほど。面倒が嫌いなお前にとっては、ありがたい文明機器ってことか。設定した時間の間は放っておけるからな」
その返事とばかりに、僅かな笑みを見せた秀行。直哉も釣られるようにフッと笑ってしまった。
そんな時、テレビの方からワザとらしい咳払いが聞こえてきた。
──サクラだ。
(あいつ…目はテレビを見てるが、耳はずっとこっちに向いてたな…)
〝直にぃに、タッチ〟
──とは、つまり聞き出せという事だったのだ。
直哉は秀行に気付かれないよう小さな溜め息を漏らすと、彼が帰ってきた時のことを考え始めた。
薬局に行ったにもかかわらず、秀行がリビングに戻ってきた時は手に何も持っていなかった。克己の部屋の扉が開閉されたことから、買ってきたものは本人に渡したのだろうが、克己の手当てをしたとは考えられない。なぜなら、克己の部屋の扉が開閉されてから秀行はすぐにリビングに入ってきたからだ。血を見るのさえダメな克己が、自分で手当てできるとは思えないのだが…。
(秀行にも見られたくないってことなのか…?)
改めて推測した状況が心配になってきた直哉は、どこでどう切り出そうかと考えていた。──が、すぐに回りくどい聞き方は性に合わない、と単刀直入を決断した。
「秀行」
「ああ?」
「カツはいつやられたんだ?」
その質問に、少々驚いた様子を見せた秀行。しかし、すぐにいつもの口調で答え始めた。
「一週間くらい前、か」
「一週間…!? そんな長引いてんのか?」
「ああ。それ以来、部屋に閉じこもりっきりだ」
「マジかよ…。じゃぁ、大学も休んで?」
「まぁ…大学は春休みに入ってるから問題ないがな」
「そ、そうか。そりゃ、好都合だ。──って、そんなことはどうでもいい。それより、お前は暴走しなかったのかよ?」
「オレが暴走してもどうにもならん」
「どういうこった?」
「オレにも敵わねぇってことだ」
その言葉に、直哉は一瞬言葉を失った。
(う、うそだろ…? 秀行でも敵わねぇなんて…)
その驚きは、耳をダンボにしていたサクラも同じだった。さっきまでテレビの方を向いていたサクラの視線は──いや、今は体ごと──キッチンにいる秀行に向いていたのだ。
「そんなに強いのか?」
「ああ。数も多い」
「ど、どれくらいだ?」
「…………」
「おい…?」
その質問には、すぐに答えなかった。再度〝どれくらいいたんだ?〟と問いかけて、ようやく返ってきた言葉に直哉は更に驚いた。
「数え切れない」
「────!!」
驚きでしばらく沈黙が続いていると、怒りと泣きが入り混じったようなサクラの声が聞こえてきた。
「そんなの…そんなの卑怯だよ。数え切れないほど集めるなんて! いくら克にぃでも、ムリに決まってんじゃん!!」
「卑怯…? あぁ…でもまぁ、仕方ないことだろ。弱いカツが悪いんだからな」
「おまっ…えらく冷たくねぇか…?」
「そうか?」
「そうだよぉ、秀にぃ。どうしちゃったの!? らしくないよ…」
「…フム」
らしくないと言われ首をひねる秀行。〝いつも通りなんだが…〟と理解できぬまま黙っていれば、再びサクラが口を開いた。
「──そうだ♪」
いい案が浮かんだのか、サクラは目を輝かせキッチンにいる二人に近寄っていった。
「直にぃなら何とかできるんじゃないの?」
「は…? オレが?」
「うん。お父さんのお友達、い~っぱい連れてきてさ、最悪、飛び道具も出しちゃえばいいじゃん」
「飛び道具…って、また古い言葉だな」
「もう! そんなこと、どうだっていいでしょ! ──ねぇ、どう? グッド・アイデアだと思わない?」
「ん~~、まぁ、頼んでやってくれねーことはねーけど─…ってか、秀行の頼みなら命だってかけると思うけど…」
「けど、なに?」
チラリと秀行を見れば、案の定。
「頼まないな」
──と返ってきた。
「えぇ~、どうして?」
「人に借りをつくるのは大っ嫌いなんだよ、秀行は」
「でも…でも、克にぃがやられたんだよ!? それで平気なの、秀にぃは? ──ねぇ、直にぃも平気なの?」
「いや…平気かどうかって聞かれてもよ…」
なぜに、こうも正義感あふれる者が集まってんだか…。
サクラの気持ちは分からないでもないが、秀行の性格を知っている直哉としては、彼の気持ちもよく分かる。そのうえ克己を究極にしたのがサクラなわけで、故に正義を遮る〝事情〟というものは通用しないだろう。
「あ~、もう、秀行。オレは降参だ。お前が説明しろ」
両手を挙げキッチンから出て行くと、さっきまでサクラが座っていたソファに腰掛けテレビを見始めた。
「う~~、直にぃのイジワル!」
克己を究極にしたとはいえ──克己もそうだが──頭が悪いわけではない。
〝説明しろ〟と言われても、秀行がまともに説明するはずもないことは百も承知なのだ。
イジけたように軽く頬を膨らませていると、目の端で見ていた秀行が珍しく口を開いた。
「サクラの気持ちはありがたいが、本職のヤツラでもムリなんだ。たとえ飛び道具を使ってもな」
「え…?」
その言葉に、サクラはもちろんテレビを見ていた直哉も黙るしかなかった。
(そんなにすごい連中なのかよ…?)
(克にぃ、かわいそう…)
どうしようもないんだという事だけは分かり、それが悔しいやら悲しいやら…。サクラは力なく直哉の隣に座った。
それでもしばらくすると、〝せめて〟という思いが強くなってくる。
「ね、ねぇ…秀にぃ?」
「なんだ?」
「せめて、病院に連れて行こうよ」
「それもムリな話だ」
「どうして…?」
「見えない敵に囲まれるから」
「……………」
もう、何がなんだか分からない。いったい、克己はどんな連中にやられたというのだろうか。
そうこうしているうちに夕飯は出来上がり、お盆に一人前の食事を載せれば、そのあとの指示は直哉に与えられた。
「直哉、カツに持っていってくれ」
「え…オレがか?」
「ああ」
「どうせなら、こっちに引っ張ってきてくれるとありがたいがな」
「…………?」
(オレでいいのかよ?)
少々不安気のままお盆を受け取る直哉。扉の前に行き、声を掛ける。
「カツ? メシだ、開けるぞ?」
「うぁ…、じょっど待っで…」
鼻にティッシュを詰めているからか、その発音はとても苦しそうだ。
「お、俺が扉開けるから、0・05秒で入っでぐれな」
(……0・05?)
「いぐぞ…せぇ~の!」
変な発音の掛け声と共に目の前の扉が開くと、直哉はそれに合わせて──0・05秒かどうかは定かでないが──克己の部屋に入った。
一方、サクラはその光景をリビングから心配そうに見ていた。
克己の部屋からはなにやら話し声が聞こえてくる。──と次の瞬間、
「ぶわぁーははははははははは……あははははは…ひぃ~ひひひひ…どぅわはははははは…ひぃひぃ…」
──バンバンと、絨毯をも叩く大爆笑。しかも直哉一人だ。
何を話しているのかが気になって部屋に近付こうとしていたサクラは、突然の大爆笑に驚いた。
「え…え…な、なんなの!?」
思ってもみない展開に、今すぐ部屋に飛び込んでいきたい衝動に駆られる。けれど一瞬だけ見えたあの顔を思い出すと、リビングの入り口で地団駄を踏むのが精一杯だ。
「秀にぃ…」
説明が欲しいとキッチンを見やれば、なにやら秀行も不思議顔。しかし、すぐに理解した。
「そういうことか…」
「え…そういう事って?」
「今に分かる」
そう言うが早いか、乱暴に開かれた扉から飛び出してきたのは閉じこもっていた克己。
「びでー!! 山じゃんに何言ったんだよ!?」
「別に何も。丁寧な質疑応答をしただけだが?」
怒り心頭の克己に反して、相変わらずの冷静口調。
「うぞだ! ぜってー、うぞだ!! ──じゃなけりゃ、だんで、俺がケンカで負けたっでことになっでんだよ!?」
「えぇーー!!」
克己の言葉に飛びあがるほど驚いたのはサクラだ。
「違うのー!?」
「ちっがーーう!!」
「じゃぁ、な──」
〝なんだったの!?〟と最後まで言い終わらないうちに、克己が叫んだ。
「俺はぁー、だだのかぶんじょう(花粉症)だぁーー!!」
そのあと、花粉症になったのが今年からで、鼻に詰めたティッシュに血が付いていたのは鼻のかみすぎだと説明され、直哉の大爆笑にサクラが加わったのだった。