10 親不知編 ※
ここ数日、秀行は気になっている事があった。気になっているというよりは、心配といった方が正しいだろうか。
一週間ほど前から、なんとなく克己の食欲が落ちてるな…というのは気付いていた。克己は普段から何でもよく喋るが、喋らないこともある。言いたくないこともあれば、言う必要がない事もあるからだ。秀行は根掘り葉掘り聞く性格じゃないため、ここ数日黙っている代わりに様子を見ていたのだった。
おそらくここに直哉がいれば、食欲が落ちてると気付いた時点で質問しているのだろうが、彼もまた同じ頃から出張に出かけているため会ってないのである。
克己から言い出すまで待っているつもりだったが、皿に残したものを目にした途端、いよいよヤバイと悟ったのだった。今までは心配事や考え事があって食欲がなくなったとしても、大好物のカレーだけは残さず食べていた。そのカレーを、今日は半分も残していたのだ。これはただ事じゃない…と、秀行は思い切って問いかけた。
「いったい、どうしたんだ?」
「ん~~~?」
「どこか悪いのか?」
「いや別に、悪かねーけど…」
「ほぉ。カレーを残しておいて、オレにその答えが通用すると思うわけだな?」
「な、なんだ…脅しかよ…?」
「心配してるだけだ」
(その言葉でか?)
もっと違う言い方があるだろ…と思いはしても、声に出して言えるはずもなく…。
「カツ?」
「あ…いや、だからぁ…ここがな、痛ぇんだ」
そう言って右頬に指を当てる。
「なんだ、歯が痛いのか…」
思ったより単純なことで力が抜けたが、ホッとしたのは間違いなく、それは克己にも伝わっていた。
「だったら早めに歯医者に──」
「やだね…」
最後まで言い終わらないうちに、即行で拒否された。一瞬わけが分からなかったが、理由はすぐに思いつく。
「歯医者が嫌いか?」
「なんでその質問なんだよ? ふつーは〝怖いか?〟だろ? それに、歯医者が好きなヤツはいねーって」
「ふむ、そうか。──なら、怖いのか?」
「…なわけねーだろ、この俺が!」
強がりでそう言う場合もあるだろうが、〝痛み〟に対しては強い克己だ。〝血〟さえ見なければ、怖いものなんてない。故に、その言葉は本気だと分かった。
「だったら早く行ってこい。そのまま放って置いたら悪くなる一方だぞ?」
「ならねーよ」
「…………?」
理解できぬと無言で問いかければ、克己はキッパリと言い切った。
「虫歯じゃねーから」
「…じゃぁ、なんだ?」
「お…親不知だ…」
その返答に、ああ…と納得する秀行。けれど、だからといって放って置くものでもない。
「親不知でも、痛みがひどければ──」
「そういや、ヒデは何本あるんだ、親不知?」
またもや秀行の言葉を遮る。
(理由はどうあれ、よっぽど行きたくないのか…?)
克己の表情から真相を読み取ろうとするが、これがなかなか難しい。歯医者に行けと言わせないようにしているというより、単に興味しかないように思えるのだ、その質問には。
「なぁ、ヒデ?」
質問の答えを急かす克己に、秀行は溜め息を付いた。
「ゼロだ」
「え…ま、マジ!?」
「ああ」
「やった…勝った」
「…………?」
「俺、四本あんだぜ! 昔、歯医者に行って写真撮ったら、そー言われたんだ」
「ほぉ…」
(それがそんなに嬉しいものか…?)
なぜにそこまで優位な顔をしているのか、秀行にはサッパリ分からなかった。
だが、しかし──
このままでは食事のつくり甲斐もなくなるため、話を終わらすわけにはいかない。
「カツ…」
「おぅ?」
「行って来い、歯医者に」
「だから…どこも悪かねーんだから、行く必要ないって──」
「行くんだ」
「だ、だからぁ…その、歯医者にも当たりハズレがあってな…」
「オレが昔からかかってるところは名医だ。そこなら文句ないだろ?」
「え…あ…いや…」
「カツ!?」
「わ、分かったよ…。い、行けばいいんだろ…? けど、認めるか認めねーかは、俺が決めるからな!」
「…ああ」
何はともあれ、歯医者に行くと言えばそれでいい。あの歯科医なら克己も認めざるを得ないと、秀行には自信を持って言えるのだった。
翌日、秀行は歯医者に電話を入れた。すぐにはムリだったが、昔からの馴染みという事で二日後の最後には見てもらえることとなった。
そして、それから二日後…。
「やっぱ、ヤブだ!!」
仕方がなしに出て行った克己は、帰ってくるなりそう叫んだ。しかも帰ってくるのが思ったより早い。
「どうした?」
「なにが名医だよ、ヒデ! あいつ、この俺の歯を抜くって言いやがった!」
(普通だろ…?)
そう言う間も与えず、克己の言葉は続く。
「どこも悪くないってのによ…もったいないじゃねーか!」
(そういう問題か…?)
「よぉ~し、こーなったら、ぜってぇー自分で治してやるからな! 人間には自然の治癒力ってもんがあんだ!」
(治癒力ねぇ…?)
「ヒデ、モーツアルトのCDってあるか?」
「…………?」
答えも待たず、CDが並ぶ棚を探し始めるが、もちろんこの家にあるはずがない。
(なぜに、モーツアルト…?)
医者がヤブだという理由はどこへやら、今や克己の言動の方が気になって仕方がない秀行でだった。
「くそ…ねぇか…。んじゃ、明日にでも買ってくるか…」
「どういう事だ…?」
「この前、テレビで見たんだよ。頭にできた腫瘍を、モーツアルトの音楽と想像力で消しちまったって。──とゆーことは、俺にも出来るってことだ」
(ほぉ…)
「見てろよ、ヒデ。俺もモーツアルトと想像力で、この痛み消しちまうからな!」
(なるほど、そういう事か…)
単純明快・一直線の克己には、それが普通の反応なのだろう。
相変わらず…と溜め息付けば、秀行もそれ以上何も言う気がしなかった。
(とりあえず、しばらく様子を見るか。なんてったって、面白いからな…)
翌日、克己はCDショップに向かった。おそらくクラシックを買うのは、克己の人生で後にも先にもないであろう。
その日以来、克己はモーツアルトの音楽を聴くようになった。──が、五分として起きていたためしがない。果たして効果は出るのか…?
とりあえず〝気持ちの問題だ〟と言い切る以上、秀行も口を挟まないのだが…。
そして更に一週間が過ぎた。
痛みは和らぎもしなければ、増しもしない。だが本人にとっては、痛みが増さないのは効果があるってことだ、と信じて疑わなかった。
(まぁ、それはそれでいいか…)
諦めにも似た思いが湧いてくるが、この頃になると、親不知のことより克己の言動のほうが気になりだした。片方の箸が折れた時は、残りの箸を捨てずに引き出しにしまい始めた。理由を聞くと、〝もったいねーだろ〟の一言。更に靴下の片方が破れた時は、〝同じやつが片方余ったら、そん時に使えるからよ〟と残し、もう片方をタンスにしまったのだった。
それは今までの克己にはありえない事。ただ、物を大事にするのはいいことだ。故に不思議に思いつつも、深くは追求しなかったのだが。
そんな時、更なる難解行動に出くわしてしまう。
それは、アイスを買うためコンビニに行った時だった──
「スプーンはお入れしますか?」
「おぅ」
スプーンを入れてもらい袋を受け取ると、店員の声を背に店を出た。
「歩きながら食う気か?」
「まさか。外で食ったら寒いだろ。冬のアイスは、コタツに入って食うからウマイんじゃねーか♪」
「だったら、スプーンはいらないだろ?」
「なんで?」
驚くほど素の反応だ。
「スプーンぐらい家にあるだろ」
「そりゃ、分かってっけど…。いざって時に役に立つじゃん」
「例えば?」
「例えばぁ…家のスプーンが盗まれたりだとか、金属疲労で折れちまうとかよ」
「……………」
「あるだろ?」
「……………」
「おい、ヒデ…?」
「……………」
「なんで黙るんだよ、なぁ!?」
「……………」
スプーンが折れる可能性は、なきにしもあらず。だが全てのスプーンが一斉に折れることはない。そのうえ高級なスプーンじゃあるまいし、誰が盗むというのか…。仮に盗まれたとしても、スプーンがなくなってもそれほど困ることではない。
相変わらず面白い発想だな…とは思いつつ、もはやそれを克己に説明する気などさらさらない秀行である。
家に着くと、克己は早速スプーンを出してきた。代わりにしまったのは、コンビニで貰った使い捨てのスプーン。
「ぜってー、役に立つ時があるんだって。それまで大事に置いとかなきゃな」
独り言のように呟きながら、克己はコタツに入りアイスを食べ始めた。
最後の言葉を聞いた秀行は、このとき初めてピンときた。
ここ数日、〝もったいない〟とか〝その時になったら使える〟などという言葉が頻繁に聞かれたのだが、その意味するところがようやく分かった気がしたのだ。
それを確かめるため、克己に問うてみる。
「おい?」
「ん?」
「まさかとは思うが─…親不知は奥歯の予備だって思ってるんじゃないだろうな?」
〝まさか〟の一言に、不思議そうな顔を向ける克己。
「え…違うのか?」
その一言に、秀行はコメカミを押さえ肩を落とした。
「だって、そー聞いたぜ?」
(また、直哉か…)
「奥歯と同じような形してんのは、いざって時に、悪くなったやつと差し替える為だって──」
「だとしたら、お前の歯ぐきは植木鉢か?」
「う、植木鉢…? ──あぁ、そー言われりゃ似たよなもんだよな、うん」
「…………」
「いやぁ~、さっすが、ヒデ。上手いことゆーじゃねーか。──、あれ…ヒデ…?」
何も言う気がしない…と夕飯の準備に取りかかれば、ようやく克己も自分の間違いを悟り始める。
(直哉も直哉だが、克己も克己だ。いったい何度騙されれば気が済むんだ?)
改めて、〝こいつには踏まえるという事がないんだな…〟と心の中で呟けば、タイミングよく克己が呟いた。
「…ったく、親父のヤロー」
(おっ…おやじかよ…)
呆れるというより情けない…。
直哉の場合、克己をハメる為にウソをつくが、謙三──父親──の場合は本人が本気でそう思っているからタチが悪い。
(親父よ…。人生、五十年近く生きてきてそれでいいのか…?)
謙三のことはさて置き、とりあえず克己の常識の薄さを何とかしなければ…と、これまた本気で考える秀行だった…。