呼び間違いは災いの元?
王立学園の、繊細に手入れされたバラ園。そこに点在するガゼボで婚約者とお茶を共にする。カレン・ボルドイワーの日常は、今日も穏やかに流れていた。
「では、次の休日は、街に出かけませんか? わたくし、行きたいところがあるんです」
柔らかく微笑むカレン。ふんわりとした腰まである金髪に、鮮やかな緑の瞳。年齢より幼く見えることが本人には少々の悩みなのだが、彼女には人を惹きつける不思議な魅力があった。
「ああ、いいよ。カレンの行きたいところに行って、やりたいことをやろう」
カレンの幼馴染であり、婚約者であるウォル・イズチナフは、いつもこうだった。カレンの全てを包み込み、受け入れる。それでいて、勉学、武術、マナー等々、出来ないことが見当たらない。さらに、癖のない藍色の髪に黒い瞳の整った顔立ち。
誰もが羨む、申し分ない婚約者のはず、だった。
ふと沈黙がおり、カップの微かな音だけが響く。しかしそれもよくあることで、幼馴染ゆえの、心地よい時間だった。それが、たった一言によってほころびを見せる。
「ところで、エン――カレン」
「なあに、ウォル」
「いや、その」
ウォルは明らかに狼狽えていた。聞き間違いかと思ったが、カレンは確信する。
「ウォル。わたくしの名前をどなたかと呼び間違いそうになったのかしら?」
「ちがっ、ちがうんだ、これは」
婚約者同士の茶会。この場での呼び間違いなど、大したことではなかった。しかし、その後の反応がよくなかった。まるで、やましいことがありますと言わんばかりの動揺。普段の落ち着いた雰囲気からは、信じられないような態度だ。
カレンは最近聞いた、とある話を思い出していた。
「リヴモール家のご令嬢がイズチナフ様に近づこうとされている、と耳にしました」
「イズチナフ様が、女性とおふたりでいらっしゃるところを見ました」
「物陰から二人で出てくるところを見た人がいます」
知人から聞いた話。どれもこれも、不穏ではあるものの、決定的な浮気というわけではないので、その時は礼を言って口止めし、頭の隅に置くにとどめた。
そもそも、ウォルが不誠実なことをすること自体、カレンには信じがたかった。
「何が違うんですの?」
額に汗を滲ませ、黙ってしまった婚約者。カレンは痺れを切らし、ふんわりと金髪を揺らして立ち上がった。普段は温厚な彼女だが、カレンが思っている以上に、噂話に心乱されているのだろう。
「話せないようでしたら、今日はこれで失礼いたしますわ」
「カレンっ……」
呼び止める声にも耳を貸さず、早足で歩き続ける。その瞳は微かにうるんでいた。
その日の夜。カレンは自室で自問自答していた。
「わたくし、何故いつもみたいに行動しなかったのかしら」
カレンは基本的に、思い立ったら行動に移す、猪突猛進なところがあると自覚している。いや、周りにさんざん注意を受けて、自覚させられた、の方が正しい。
今回の場合も、ウォルに問いただすか、彼と別れたその足で、噂の令嬢に会いに行っていてもおかしくない。しかし、逃げるように帰ってきてしまった。
「リヴモール様って、わたくしとは全然タイプが違うのよね……」
カレンは色気とは程遠く、天真爛漫という言葉がよく似合う。対して彼女は遠目にしか見たことのないカレンにでもわかるグラマラス美人。美丈夫であるウォルと並べば、さぞ絵になることだろう。
ふと視界に入った指先が、小刻みに震えていた。
「わたくし、怖いのね。……真実を知ってしまうのが」
"他に好きな人が出来てしまった"
そう、彼の口から聞くのが何よりも恐ろしかった。
ふたりが婚約をしたのが約5年前。カレンが大きな怪我をした直後だった。その怪我をウォルは自分のせいだと悔やんでいた。
「怪我を負ったのは、わたくしの未熟さゆえ。ウォルに責任はありません。それに、治る傷ですわ。ウォルはウォルの人生をもっと大切にするべきです」
「いいや、責任とかじゃないよ。今回のことは本当に申し訳ないと思っているけど、それとは別に、僕が、カレンのそばにいたいんだ。カレンが嫌じゃなければ」
自分の存在にコンプレックスを持っていたカレンにとって、建前だとしても、嬉しい提案だった。後日、家同士で話が進み、そこからはとんとん拍子で事は決まった。申し訳なさは残るものの、尊敬するウォルとの婚約自体は喜ばしく、彼に似合う女になれるようにと以前にも増して研鑽を積んだ。
そして、いつかウォルに想い人が出来れば、家族を説得し、身を引こうと思っていた。
それが、出来ると思っていた。
「ウォルの為に――」
これからのことを思うと、涙がこみあげてくる。デートの約束も、もう、果たせない。
「わたくし、ウォルのことがこんなに好きだったのね。……今更気がついたって、もう、遅いけど……」
ウォルとの日々を思い出し、切なく痛む胸元をおさえる。やがて、座っていることも出来なくなり、ベッドに倒れこむと、枕に顔を押し付けて、感情に任せて泣いた。
やっとのことで落ち着きを取り戻すと、ふぅ、と息を吐いた。弱弱しく立ち上がり、誰にでもなく宣言する。
「ウォルの幸せのためなら、わたくしは身を引くわ」
翌日、ウォルを避け、目の腫れが完全に取れたころに、噂の令嬢に会いに行った。
「リヴモール様。少しお話聞いてもいいかしら」
「えっ、ボルドイワー様? どど、どうされましたのでしょうかっ」
リヴモール様こと、ラベア・リヴモールの声が裏返る。さっと顔が赤らみ、そわそわと令嬢らしからぬ挙動を取っている。
「ウォルの、ことで」
「……あっ、あぁ! イズチナフ様! わたしのお伝えしたこと、わかってくださったのですね!」
「何のことかしら」
「あ、いえっ。ボルドイワー様にお聞かせするような事ではございませんっ」
カレンはまっすぐにラベアを見つめ、対照的にラベアは、自分の髪の毛やドレスを触り、落ち着かぬ様子だ。
「二人の秘密ってことかしら……」
「いいえ、そのままの意味ですっ」
「……そう」
いつも胸を張り、前を向いているカレンの、顔が少し伏せられる。ほんの少し、目が潤んでいるのを、見られたくなかった。
「あ、あの、どうかされましたか……?」
ラベアは瞬時に異変に気が付き、声をかけた。
「っ…………気持ちが、わかりましたわ」
「え?」
返ってきた言葉に、首をかしげるラベア。
「あなたは驚くほどに美人で、スタイルもよくて、とても魅力的だわ。それに何より、わたくしのほんの些細な変化に気が付いて、心配してくださる優しさも持ち合わせている。わたくしが男の方だったらきっと好きになりますわ」
「あ……あぁ……」
ラベアは声にならない声を発し、どんどんと様子がおかしくなっていく。
「だから、ウォルもあなたを……」
その先を口にすることは、どうしても出来なかった。もっとも、理性と闘っているラベアに、その声は届かない。
少しの沈黙ののち、闘いに負けたラベアが意を決したころ、目をきつく瞑り、同じく心を決めたカレン。
「ボルドイワー様! わ、わたしは! あなたがす――」
「待って、リヴモール様。わたくし、もう決めてますの」
そっと開かれたカレンの瞳には、涙が溜まっており、今にも零れ落ちそうだった。まっすぐに見据えられた、ラベアの心が撃ち抜かれる。
「ふたりが想い合っているのなら、わたくしは、婚約を……解しょ――」
「カレン!!」
ラベアとは別の声が、カレンの言葉を遮った。
「待って、カレン。嫌だ。話を聞いて」
声の方を振り返ると、両手を両ひざにつき、肩で息をするウォルがいた。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「ウォル? そんなに息を切らせてどうしたの」
「カレンが、リヴモール嬢に会いに行ったと聞いて」
「……そう」
「君に、本当のことを言いに来たんだ。ごめん。僕が隠し事をしていたから、カレンを傷つけた」
「……」
ウォルの口から出た隠し事の宣言。理解していたつもりでも、胸がずきずきと痛んだ。
「な、何か言いたいことがあるなら早く言ってください」
意図せず声色が攻撃的になる。
「あ、ごめん。あの、えっと、俺は、カレンのことを……」
ひどく緊張した空気が漂う。ラベアも、どこか興奮気味に事の行方を見守っていた。カレンは恐怖から身を守るように、再び目を瞑った。
「エ、エ――エンジェルと呼んでいたんだ!!」
「えっ?」
「カレンの前以外では俺のエンジェルとかエンジェルって呼んでいたから、エン、と、出てしまって、だから――」
ウォルは、耳まで真っ赤にしながら、早口でまくし立てる。
「な、な、なんですかそれは!?」
おおよそ貴族令嬢とは思えない素っ頓狂な声が出た。それほどに、カレンにとって理解が追い付かなかった。
「わたくし以外って」
「カレン以外の、カレンの話をするような親しい人は全員」
「全、員……」
急激に顔に熱が集まる。
「そ、そそ、それは本当に本当なんですの!?」
先ほどまでとは全く違う意味で、嘘だと言ってほしかった。
「だって君はどこからどうみてもエンジェルなんだ……」
「でも私の前ではそんなこと一言も……」
「それは! 恥ずかしい、だろ……」
ウォルは力なくうなだれた。カレンにとっては人前でエンジェルと呼ばれていたことの方がよっぽど恥ずかしい。
「もしも信じられないなら、俺の友人や俺たちの両親に聞けばいい……」
そこで、現実逃避しそうになるカレンにとって無情な声が上がる。それまで黙って聞いていたラベアが、恐ろしい証言を始めたのだ。
「あの……ボルドイワー様、本当です。イズチナフ様がご友人と話をされているところを聞いている人間はそこら中にいます。わたしも聞いたことがありますが、有名な話ですので、わたし以外の証人を探すのも難しくないかと」
「そ、こら、じゅう……ゆう、めい……」
知りたくなかった。その小さな小さなつぶやきが、ウォルやラベアに届くことはなかった。そしてカレンはそこでハッとする。
「では、リヴモール様との関係は……」
「リヴモール嬢? 関係って……同級生? そういえばなんで彼女に俺との婚約のことを話していたの?」
「わたしから見たイズチナフ様は、ボルドイワー様のご婚約者様ですわ」
「わたくしはてっきり、リヴモール様とわたくしを呼び間違ったのだと」
「なんで彼女が出てくるんだ? そもそも、リヴモール嬢の名前に“エン”は付いていないよ」
「申し遅れました。ラベア・リヴモールと申します、ボルドイワー様」
「えっ、なっ、と、いうことはわたくしの、早とちり……で、ではあの噂は何だったんですの……ふたりきりで会っていたと」
「噂? ふたりきりで……あ、もしかして……」
「あっ」
「やっぱり何かあるんですの!?」
「あれで誰かが勘違いを……申し訳ございません。わたしの軽率な行動が原因です……」
しょんぼりとうつ向いてしまった。
「リヴモール嬢は、俺の、カレンに対する態度に思うところがあったみたいで、詰め寄られたことがあって。内容が内容だけに、人があまりいないところで話そうとなって。それがあだになったみたいだな」
「そうだったのですか。それで、わたくしに対する態度って何のことですの?」
ラベアは観念したように話し始める。
「……イズチナフ様は、ボルドイワー様の前でもっと愛情を表現されるべきだと思ったのです」
「あいじょう?」
「だって、イズチナフ様は他の方の前ではあんっなにもボルドイワー様のことをねっとりと愛し気に語られるのに! ご本人にはさっぱりとしすぎです! それはそれでおいし――いえ、おふたりのお望みの関係ならと思っていましたが……」
「ウォルが? ねっとり愛し気に?」
カレンの頭はどんどん混乱を極めていく。
「あの、ウォルがわたくしと婚約しているのは怪我の責任を取るためだから、愛とかは――」
「何の話!?」
ウォルが声を荒げる。
「昔、わたくしが無茶をして怪我をしたことに、ウォルは責任を感じていましたでしょう?」
「う、そだろ……。ずっとそう思ってたの?5年も……?」
「え、はい。あの時否定されたのは、建前では……だって、わたくし、好きと言われたことありませんもの」
顔を青くしたウォルが、崩れ落ち、地面に両手をついた。
「だからお伝えしたではないですか!! ボルドイワー様はお気持ちに微塵も気が付いていらっしゃらないと!! 格好つけて察してくれ、はお馬鹿のすることですわ!!」
えらく熱のこもった主張だ。
「まさか、ここまでとは……」
カレンはすっかり置いてけぼりだった。おろおろと二人の顔を見比べる。
「イズチナフ様! ここは腹をお決めくださいませ!! 恥ずかしがってる場合ではございませんわ!!」
ウォルは、ラベアを一瞥したのち、ごくりと唾を飲み込んだ。カレンの方に体を向け、手を取る。
「カレン。カレン、聞いて。俺は、君を愛している」
ウォルはそのまま手のひらへとキスを落とす。
「へぁっ!?」
「これからは何度だって言う。ちゃんと伝えるよ。俺は、カレンを、誰よりも愛している。信じてくれるだろうか」
「わたくし、ウォルの婚約者でいてもいいの?」
「誰が何を言おうと、この婚約は絶対にやめない。やめるときがあるとすれば、カレンに、想い人、が――」
言葉を必死に絞り出そうとする、ウォルの瞳は、潤んでいた。その感情に、カレンは身に覚えがあった。カレン自身も、ついさっき、どうしても口にしたくない言葉があったからだ。
ウォルの気持ちが、カレンと同じなのだと、じんわり実感する。
「ウォル。それ以上は、言わないで。わたくしも、今回わかったの。ウォルのことを愛しているって」
「うっ……俺のエンジェル……」
「ううっ。こんな間近で……最高……」
ウォルとラベアは両手で顔を覆って天を仰いだ。
「あの、ところでリヴモール様」
ハッとしたラベアが姿勢を正す。
「はい!」
「今回はわたくしの早とちりで迷惑をかけてしまってごめんなさい。それから、よければカレンと呼んでくださらないかしら」
「えっ、はっ、かっ、かかかかか、か、かかか……」
顔を真っ赤にして、壊れてしまった。
「あの、無理はしなくても大丈夫ですわ……」
ほんの少し、カレンの眉尻が下がると、ラベアが反射的に叫ぶ。
「滅相もありません! カレン様! わたくし、ラベア・リヴモールは一生カレン様のしもべに!」
とんでもない発言だ。
「いえ、あの、迷惑をかけておいて図々しいかもしれないけど、よければ、お友達に……」
カレンが指先をいじいじとしながら目を泳がせている。それを見たラベアは感嘆の声を漏らした。
「わたし、もう今死んでもいいです」
鼻血を出し、ぶっ倒れたラベアは、その後、カレンの友人として、のろのろと歩みを進めている。しかしいまだ、カレンの笑顔の「ラベアっ」に、いちいち「うっ」だとか「ぐっ」だとか言っている。
今後の目標は、勢いに任せて言うことが出来なかった、「好き」を伝えることだという。
ウォルは、自分のせいでカレンが泣いたと知って、平身低頭し、それ以降はカレンの前で格好つけることをやめた。今では、言葉や行動の全てを使って明け透けに愛情を表現している。
そんなふたりの気持ちが嬉しくも、戸惑いっぱなしのカレンは、ウォルの、カレン自身にも使われるようになったエンジェル呼びを顔を真っ赤にして阻止しようと奮闘するが、前途多難である。
ご読了ありがとうございます。
あなたに最大限の感謝を。