未来の王妃が女王になるころ。
「ミカ、アンネのことは頼んだよ」
お祖父様の最期の言葉は、きっとミカにも届いていたに違いありません。
私の祖父、第十一代エラト王国国王の逝去に伴い、次の国王の座を巡る争いは収まるどころかより激しくなってしまいました。
それはもう、国内外の貴族を巻き込み、王位継承権を持つ人間が百人以上いたはずなのに、二年後にはたったの三人にまでなってしまうほどでした。
謀殺、事故死、身分剥奪、法改正による王位継承権の喪失、自己放棄。少なくとも現在、自らと子孫が王位継承権を所持できる人間は、三人だけです。
オードヴィ公爵ガイスト、ラキア大公メディツァ、ヴァッサー王国王太子シュヴァルツ。
その中に、私の婚約者だったミカの名前はありません。
次の国王の王妃にと、褒賞のように約束されている私を守ってくれる人は、もういないのです。
王宮にいた大勢の人々がいなくなって、もう二年が経ちます。
先代国王の崩御とともに輝かしく華々しい晩餐会が開かれなくなって、貴族たちは王宮に寄り付かなくなりました。いえ、寄り付けなくなったが正しいですね。
私、アンネリーゼは先代国王唯一の肉親として、王宮の仮の主人を務めています。十六歳になる私は、もう政治の話も理解できます。祖父である先代国王の崩御から二年、このエラト王国には粛清と暗殺の嵐が吹き荒れていたのです。
私はただ、嵐の中心でそれを見ているしかできませんでした。早く嵐が過ぎ去りますよう、と力なく神に祈るほかなく、己の無力を何度も噛み締めました。
そして、今日。二年間、空位だった玉座の主人を決める会議が開かれます。
その話題は王宮でも持ちきりで、朝の弱い私のもとに、珍しく官僚が訪ねてくるほどです。
天蓋付きベッドを覆う、朝日避けのレースシェードの中で、私は朝の読書をたしなんでいました。起きたばかりの体が動くようになるまで、しばし大きなクッションに背を預けて様子を見る習慣ができて、その間にもベッドサイドのテーブルには侍女たちが朝食を用意してくれています。温かいスープに入った香草の匂いが漂い、焼きたてのバゲットが籐籠に並び、砂糖が一つ、ミルクがたっぷりの紅茶が侍女たちの長であり私の乳母でもある老婆マリーの手で淹れられました。
王女という肩書きのおかげで、私はこうして温室の中で何一つ不自由なく暮らしています。王宮の外では貴族であっても路上に死体が転がり、一家揃って毒殺されるなどの恐ろしいニュースがいまだに飛び交っていますが、まるで違う世界の出来事のようです。そのニュースさえも、私が頼りにする忠義心篤い官僚たちがこっそりと届けてくれる新聞でようやく知り得るのですから、私は本当に——何の力もありません。
その嘆きを払拭するかのように、マリーが努めて明るい声で私を呼びます。
「アンネリーゼ様、朝食の用意ができましたよ。それと、さっきから面会を希望される方が」
「面会? どなた?」
「いつもの執政官様ですよ」
マリーはやれやれと不機嫌を隠しません。王女の朝食を邪魔するなど不届者め、とでも言いたそうです。
「そう、入ってもらって。話を聞きましょう」
私の命令があれば、マリーはすんなりと来客を中へと招き入れます。
私が本を閉じ、ネグリジェの上から長いケープを羽織り、ベッドから朝食の並ぶテーブルの椅子へと腰を下ろすころ、一人の官僚が部屋に入ってきました。
顔上半分に包帯を巻き、右目とその周辺を覆う黒の眼帯を付けた男性です。頬には火傷痕がうっすら残り、金色の左目がギョロリと光ります。傍目には完全に不審者ですが、彼はれっきとしたこの国の官僚です。
年齢も分かりづらく、官僚のよく着るサテン生地のジャケットコートと、長い足を包むパンツにロングブーツは少し軍服の意匠を取り入れています。パッと見て、堂々たる態度と衣服の立派さから、中年くらいだろうか、と皆には推測されているようですが——。
低い声で、その官僚はご機嫌伺いを立てます。
「アンネリーゼ王女殿下、お加減はいかがですか?」
形式的な挨拶の始まりに、私は少し不満です。
「ええ、今日は面会を許される程度にはよろしくてよ」
「それは重畳。あなたさまには、次の国王の妃となる使命がございますゆえ」
その官僚の言葉を気に入らなかったのは、マリーです。
「ジヴァニア執政官。口が過ぎますわ」
「いいのよ、本当のことだから」
「ですが」
「どうせ、誰も私には言ってくれないことよ」
私は憤るマリーをなだめ、紅茶を一口、口に含みます。
温かい飲み物は、心を落ち着けてくれます。どんなことがあってもまずは落ち着くのだよ、と祖父である先代国王のかけてくれた言葉が身に沁みます。
ジヴァニア執政官と呼ばれた官僚の男性は、私の言葉を待っていました。
まるで、こう言っているかのようです。「今日は特別な日だ、知っているだろう?」と。
ええ、知っていますとも。私も関係あることです。
今日は、オードヴィ公爵ガイスト、ラキア大公メディツァ、ヴァッサー王国王太子シュヴァルツの三人の王位継承権者が集まり、国王を定める会議が王宮で開かれる日です。巷では『三公会議』と名付けられ、市民も貴族も固唾を呑んでその推移を見守っています。
エラト王国の国王となることは、つまり私の夫が決まることと同義です。先代国王唯一の肉親であり、現王室唯一の直系子孫である私と結婚することで、正統なるエラト王国の後継者であると表明する。これまで生かされてきた私は、そのための道具にすぎません。
「さて、気鋭のジヴァニア執政官閣下は、誰が国王の座に就くとお思い?」
私が自分の不安を誤魔化すように、冗談まじりに口にした質問へ、彼はこう答えました。
「逆に問いましょう。あの中の誰が、国王にふさわしいとお考えで?」
そう問われて、私は何も言いませんでした。
わざとゆっくり摂った朝食のあと、私はジヴァニア執政官に伴われ、三公会議の開催される大広間へと向かうのです。
三公会議は空の玉座がある大広間で、象牙細工の大円卓に並んだ椅子へ三人の王位継承権者が着席し、行われることになっていました。秘密会議ではなく、周囲には国中からやってきた貴族たちと王宮中の官僚たちが悲喜交々の表情を隠さず、真剣な眼差しで会議の始まりを待っています。
もちろん、ティアラとドレスを身に纏った私もいます。円卓の最上位、玉座を背後にした場所に持ってきた椅子を置き、座ったのです。
それに異を唱えたのは、先に隣に着席していた髭だらけの中年、オードヴィ公爵ガイストでした。
「なぜ王女殿下がこちらに?」
その非難がましい声には、私を責める意思が隠れもしていません。
私はこれでも今の王宮の仮の主人です。そして、この場は私の未来の夫を決めるための会議が開かれている。ならば、招かれておらずとも、私も出席する権利があるというものです。
白々しく、私は答えます。
「あら、王を選ぶ会議であれば、私も見物したいわ。だって、私の夫が決まるのでしょう?」
そこへ、白髪の初老、ラキア大公メディツァが仲裁気取りで間に入ります。
「まあまあ、それくらいのわがままなら叶えて差し上げるべきでしょう、オードヴィ公」
「ふん、女のくせにでしゃばりなことを……邪魔はなさらぬよう」
「心得ているわ」
ラキア大公メディツァが困ったような笑みを見せながら、用意された椅子に座りました。
残る椅子は一つ、まだ誰も座っていません。
やっと大広間の開かれたままの出入り口に現れたのは、栗茶色の髪の青年、隣国ヴァッサー王国の王太子シュヴァルツでした。
「遅れて申し訳ない。おや、アンネリーゼ王女、お久しぶりです」
「ええ、シュヴァルツ殿下もお変わりなく」
人懐こい顔をしていますが、このシュヴァルツ、冷徹な策略家です。エラト王国外にいる王位継承権者たちに対してその権利の永久放棄を迫り、攻め落としてしまった領土さえあります。もっとも、オードヴィ公爵ガイストもラキア大公メディツァも、他人様には言えないような手段を使ってライバルを蹴落とし、血濡れた階段を上ってきた野心家たちです。
それを思えば、私の胸中は穏やかではいられません。あなたたちがミカを、私の婚約者を、と怒りが抑えられなくなりそうです。
ラキア大公メディツァが、この中では年長だからか、会議の前に『前提条件』を宣言します。
「本来であれば、先代国王直系の子孫であるアンネリーゼ王女が王位を継ぐべきですが、いかんせんエラト王国の法典では女性に王位継承権が与えられない。どうかご理解のほどを」
ラキア大公メディツァは私へ目配せをして、「どうか何も文句を言ってくれるなよ」と合図をしてきていました。私にその権利はない、と念押ししたいのです。
私は知らん顔で、三人が互いに顔を合わせてやっとのことで三公会議は始まりました。
王太子シュヴァルツがしれっと、三人の事情について確認するかのように話しはじめます。
「しかし、私たち三人は全員、王位継承権こそ持っているものの本来の継承順位は低い。エラト王国の王家に連なる者ではあっても、遠縁の遠縁でしかない。やはり、アンネリーゼ王女との結婚が王となる条件でしょうね」
「若造、それがどうした? 今更、結婚は嫌だとでも?」
「とんでもない。しかしオードヴィ公爵もラキア大公もお年を召し、すでにご結婚なさっているではありませんか。ラキア大公に至っては、近々孫がお生まれになるとか、おめでとうございます」
真正面からの嫌味に、おやおや、とラキア大公メディツァは人のよさそうな笑みを浮かべるばかりです。その目は笑っておらず、若造の先制攻撃にピリピリしています。
オードヴィ公爵ガイストは、大仰に鼻息荒く一蹴します。
「下らん。王女を正妻にすれば何も問題なかろう。我々とて王家の血が流れる身、次の代の後継者が王女の子である必要はない。王女はあくまで玉座と王冠と同じレガリアと思えば、その価値は破格ではないか」
そのあとに続く言葉は、聞く価値もないことですが——「女ながらにそれだけの価値を与えられているのだから」と私はおろか女性蔑視をひけらかすような言葉が続くため、誰も聞いていません。
それに気付いたのか、オードヴィ公爵ガイストは話題を変えました。
「それよりもだ、シュヴァルツ。お前こそヴァッサー王国の王位はどうなっている。王太子と呼ばれようと、実際に王位に就くとは限らぬだろうに」
「ご心配には及びません。エラト王国の盾として、しっかりと周辺各国に睨みを聞かせておかねばなりませんので、国王就任はこちらが決まってからになります。ああ、我が国の、ですね」
そんなふうに、象牙細工の大円卓上では、見えない火花が散っています。
私はため息を吐きたい気持ちを抑えきれませんでした。
(下らない。私をもののように扱う、下品な男たち。それを隠しもせず、野心を剥き出しにして……こんなやつらが、お祖父様と同じ玉座に座るつもりだなんて嘆かわしい)
私と同じ心境である人々は、この場にどのくらいいるのでしょう。
少なくとも、一人。
おもむろに歩み出た、顔に包帯を巻いた隻眼の官僚は、三人の王位継承権者へ向けて恭しく一礼します。
「失礼、皆様。少々、お伺いしたき儀がございます」
無視できないほどの声量を出す乱入者に対し、不快そうな目つきをしたオードヴィ公爵ガイストは、誰何します。
「何だ、貴様は」
「ジヴァニアと申します。老齢のため執務を制限なさっているウーゾ大臣の代行者、執政官を務めております」
しれっと答え、そんなことはどうでもいいとばかりに、ジヴァニア執政官は、ジャケットコートの懐から一通の封書を取り出しました。その場にいる人々の視線が、封書へと集中します。
それを狙っていたジヴァニア執政官は、よく通る声で話を進めます。
「さて、皆様、一つお忘れのことがございます」
「ふむ、何だね?」
「遺書です。先代国王の遺書、その存在を知っていたにもかかわらず、秘匿した意味をお伺いしたい」
瞬く間に、その言葉を耳にした人々のざわめきが広がります。
三人の王位継承権者は、それぞれ違う表情をしています。オードヴィ公爵ガイストは動揺し、ラキア大公メディツァは眉間のしわ深く沈黙し、王太子シュヴァルツは真面目くさって驚いています。
私はただ黙って、この劇を見物するだけです。
「何のことだ? ラキア大公、シュヴァルツ、そんなものがあるのか?」
「……執政官、いきなり何を言い出すのだね」
「遺書の話など聞いたことがありません。実在するのなら」
三人の言葉など無視して、ジヴァニア執政官は封書から金縁の紙を取り出します。
誰の目から見ても明らかな、大きな先代国王のサイン。並んでいるのは大司教の使う印章です。宗教権威からも保証された文章、それはジヴァニア執政官の言ったとおり、遺書に他なりません。
「こちらになります。無論、複写したものです。原本は玉座とともに大事に保管しておりますとも」
どうぞ、とジヴァニア執政官はその金縁の紙を三人へ手渡します。よく見ると四枚あり、それぞれ一枚ずつ渡されて、内容を一見しただけで全員素っ頓狂な声を上げました。
「法典の、破棄!?」
「アンネリーゼ王女の婚約者に王位を譲る!?」
「何だこれは! 私は聞いていないぞ!」
ジヴァニア執政官の口元が、わずかに愉快そうに歪みます。
「シュヴァルツ殿下がご存じないのは無理ないことかもしれません。遺書について伝わったのはお父上であるヴァッサー王国現国王まで、と考えられますからね。しかし、オードヴィ公爵、ラキア大公は言い逃れはできますまい。あなたがたは葬儀の際、遺書の作成に関わった大司教を捕らえて監禁し、先代国王の遺書を探し出そうとした。しかし、大司教は口を割ることなく、衰弱死なさった」
ジヴァニア執政官の言葉は、耳によく届きます。内容もさることながら、彼の声には怒りと冷静さが共存しており、聞く者の感情に強く訴えかけるのです。
「この二年でまあ、よくも何百人もの人々を殺害したものです。すべて、こちらのノートに名簿を作り、詳細を記述しておりますとも。あなたがたは決して天国には招かれませんよ、遠く離れた聖なる地におられる教皇猊下の破門状もそろそろ届くでしょう。帰って言い訳の準備をなさったほうが賢明かと」
ざわついていた聴衆たちは、ついには静まり返ります。
それが事実であれば、遺書が存在し王位が亡き先代国王の意思どおりに定まるのであれば、歓喜と逸る気持ちを抑えきれない一部の貴族たちは大広間から出ていこうとして、警備兵たちに制止されています。会議中は出入りが禁止である、とされているためですが、押し寄せる聴衆を防ぐのもまもなく限界を迎えるでしょう。
三人の王位継承権者のうち、オードヴィ公爵ガイストとラキア大公メディツァはジヴァニア執政官に対し、強く反論を主張します。勝ち目がないとしても、ただ黙って敗北を受け入れることは耐えがたく、その肥大したプライドにかけて抵抗の姿勢を見せておかなければならないから、という見栄があるのでしょう。
「でっちあげだ! こんなものがあるなら、なぜ今まで見せなかった!」
「あなたがたにもみ消されるからですよ。この聴衆がいる場でないと、見せられませんでした」
「もっともらしいことを言って、この遺書の偽物を用意するまで時間がかかっただけだろう!」
「いいえ。何なら鑑定結果をご覧に入れましょうか? 間違いなく、本物の遺書には先代国王のサインが記されておりますよ。お抱えの筆跡鑑定士をご用意くだされば、すぐに分かることです」
「しかし、遺書が本物だとして、法典の破棄は無茶がすぎる。エラト王国の統治の根底を揺るがすではないか」
「ですので、新法典を用意しております。あなたがたの目から逃れた、法務官僚たちが決死の思いで作り上げた、新しい国の形がすでに出来上がっているのです」
次々と投げかけられる問いに、ジヴァニア執政官はまるで最初から予想して用意していたかのようにスムーズに答えていきます。あまりの滑らかさに、若き謀略家王太子シュヴァルツはさっさと降参しました。
「分かった、分かった。私はじゃあ降りるよ、今回の王位争奪戦は諦める」
「シュヴァルツ! 貴様、ぬけぬけと」
「オードヴィ公、もし自信がおありなら兵を挙げて実力行使なさったほうがいいですよ。そのくらい、この執政官殿は用意周到にしている。まだ他にもいくらでも手を用意していると見ました」
——ええ、そうでしょうね。
私は、なんだかんだでこの三人の中で一番若い王太子シュヴァルツが、一番状況を理解していると察しました。老獪さは執着とくっつけば、ときに目を曇らせます。目の前にぶら下がる玉座に心奪われるあまり、オードヴィ公爵ガイストとラキア大公メディツァはもう手がない、ここで損切りをしなくてはならないと決断するまでに時間がかかっていました。
席を立った王太子シュヴァルツは、ジヴァニア執政官へ尋ねます。
「そこまで王女殿下を王にしたいのか? 君は一体、何者だ?」
はっ、と呆れを吐き捨てて、ジヴァニア執政官は歪んだ笑みを浮かべます。
「そんなもの、決まっているではありませんか。先代国王崩御の折、あなたがたに無理矢理王女殿下との婚約を破棄されてしまった男ですよ」
三人の王位継承権者たちは、視線を私とジヴァニア執政官の間を何度も往復させ、ようやくラキア大公メディツァが思い出したとばかりに『その名』を口にします。
「まさか、ミカ・オブ・ツィコーディアか? ツィコーディア伯爵が庶子を王女の護衛にと、極秘で城に送り込んだという噂があった」
もはや、答えるまでもありません。勝ち誇るジヴァニア執政官の顔が、すべてを物語っています。それでも諦めきれないのか、オードヴィ公爵ガイストはみっともなく叫びます。
「馬鹿を言うな! なぜ伯爵の庶子が王女と婚約できる!」
「あなたがたにアンネリーゼ王女のご両親が暗殺されたからですよ」
びくっ、とオードヴィ公爵ガイストの顔が引きつりました。
そんな十年以上前のことを今更掘り返されるとは思ってもいなかったのでしょう。
ジヴァニア執政官は、親切にもオードヴィ公爵ガイストの疑問に答えていました。
「だから、私は伯爵家に匿われ、アンネリーゼの側にいた。己の血統など隠して当然でしょう、自分の身を守ることもできないほど幼かった私は、アンネリーゼとの婚約で守られてきた。表向きは伝統的な形式的婚約として、アンネリーゼに正式な結婚相手が現れるまでの代役だ、とされてね」
私とミカの婚約。その婚約は形式的だったかもしれませんが、私とミカは本気でした。それに……実現しないと断言はできなかったし、お祖父様もそれを望んでおられたのですから。
そこまでここにいる人々に説明する義理はありません。ジヴァニア執政官は、すでに抑えきれないほど出入り口に殺到する聴衆と、手の内にある警備兵と、前へと踏み出した官僚たちを味方に、三人へ迫ります。
「さて、彼女の即位を支持するのなら、命までは取りません。お三方、異論は聞きません。賛成か反対、どちらかをお選びください」
答えなど、決まりきっています。
こうして、オードヴィ公爵ガイストとラキア大公メディツァの身柄は拘束され、ヴァッサー王国王太子シュヴァルツは城下の大使館で軟禁されることとなりました。
それも、私が即位するまで邪魔ができないように、とのジヴァニア執政官ことミカの配慮です。
三人の王位継承権者から国王を決めるはずだった『三公会議』は、アンネリーゼ女王陛下の即位承認の場になった、とその日からの新聞の一面は春が来たかのごとくお祭り騒ぎがしばらく続きました。
お祖父様が亡くなってから、ジヴァニア執政官がミカであることは、秘中の秘でした。
婚約が強引に破棄されてからというもの、ミカは私の前から姿を消していました。次に会ったのは約一年後、変わり果てた顔となったジヴァニア執政官になっていました。
ウーゾ大臣が何とかミカを救い出し、官僚として名前と経歴を捏造して私のそばに送り込んだこと——さらには、お祖父様の遺書を適切なタイミングで公表し、その遺志を全うさせることを使命として、今まで暗躍してきたのです。
すべての騒動がおそらく制御不能なほど拡大し、多くの人々が犠牲になることをお祖父様は予見していましたが、病に冒された身ではそれを止める力はありませんでした。もし私やミカが即座に王位を継ぐことになっていたら、両親のようにすぐさま暗殺されるだろうと分かっていたからこそ、それができなかった。
そして、エラト王国王家最大の秘密は私とお祖父様、そしてミカとその養父であった亡きツィコーディア伯爵しか知りません。
ある夜のことです。
厚手のコートを羽織り、旅装姿となったミカが、密かに私の部屋へやってきました。
「お別れです」と言って。
女王への即位が決まってしまった私は、ようやくエラト王国王家最大の秘密を口にしました。
「ミカは私のせいで、王様になれなかったのね」
ジヴァニア執政官ではなくなったミカは、答えません。
でも、私はもはや二人しか知ることのない秘密を、共有しておきたかった。
「私がアンネリーゼ・オブ・ツィコーディア。あなたは先代国王直系の孫、もっとも正統な王位継承者であるミカ。お祖父様も手がこんでいるわ、亡きツィコーディア伯爵と企んで、自分の死後のことまですっかり考えておられたなんて」
ふふ、と私は微笑みます。
熾烈な競争のもと、暗殺までもが横行した時代、子孫を守るために国王は忠臣とともにある企みを密かに実行した。
それが取り替えっ子。さらには形式的と銘打った婚約、ミカと王宮で暮らした楽しかった日々。
私が王位継承権者ではないことを、今はもうミカ以外誰も知りません。
いつか結婚して夫婦となったなら、そんな夢を見ていたのはもう昔のことです。
ミカは左足の膝を床に突き、右足の膝を折り立て、私を見上げました。
金色の目はお祖父様と同じ色です。そして、私とも同じ、髪の毛だって緑がかった黒。
慈愛に満ちたその目は、いつか見た少年だったミカと同じです。
「王女殿下、いえ、未来の女王陛下。婚約は破棄されても、私はあなたをお慕い申し上げております。どうか末長くお幸せに、じきあなたにふさわしい伴侶が現れることでしょう」
——ああ、そんな寂しいことを言わないで。もうどこにも行かないで。お願いだから。
私は唇を噛み、その望みを口にはしません。
ミカへ、私は何とか思いつく数少ない言葉を使って、問いかけます。
「あなたは、これからどこへ行くの?」
「先の二年間で暗殺を逃れた貴族たちやその子弟を避難させている土地があります。そこで、彼らのために新たな国を作ります」
そう、と私は言うしかありませんでした。
お祖父様が亡くなってから、ミカは自分なりに色々と考えたのでしょう。エラト王国の王位を継ぐよりも、自分たちが力ないせいで迫害され、追放された人々を助ける道を選んだのです。それこそ、エラト王国王家の果たすべき責務である、と言わんばかりです。
「私と彼らは弱かった、忠義あれどもあなたを守れないほどに。あなたに合わせる顔がないのです。どうか、私を行かせてください」
よく言うわ、私が行かないでと頼んだって、振り払って出ていくくせに。そんな意地の悪い考えが浮かんでしまう自分が嫌でした。
私は女王となり、遠くへ行くミカを追いかけることはできません。女王ならば、国を守らなくてはならないからです。二度とこんな混迷の時代を作ってはならない、ミカのおかげで結束した大臣や官僚たちが私に力を貸してくれます。この変革のチャンスを逃してはならないのです。
それでも、私は……ミカにどうしても、こんなお願いをしてしまいました。
「あなたが新しい国の国王となったなら、弱い彼らを許せるほどに私が女王として強くなったなら、また婚約してくれる?」
いつ果たされるかも分からない約束など、すべきではないでしょう。
しかし、ミカは断りませんでした。
「考えておきますよ、アンネリーゼ女王陛下」
私の手の甲にそっと口づけて、ミカはすうっといなくなってしまいました。
扉が閉まり、誰もいなくなった部屋で、私はうずくまって子どものように泣きじゃくり、どうにもなりませんでした。
真夜中の満月が昇るころ、私はミカとの思い出に涙し、わあわあと声を上げてミカの名前を呼んで、積もり積もっていた恋心が狂わないよう、願いました。
いつの日か、エラト王国女王アンネリーゼは、グラヴィエーラ共和国の初代国民議会議長ミカ・オブ・ツィコーディアを訪ねていきました。
彼らは幼馴染だ、両国の関係はよりよくなるだろう、と新聞は騒ぎ立てます。
アンネリーゼがミカと再会して泣き出したことも、ミカが婚約指輪を用意していたことも、二人の結婚式の日取りが電撃発表されることも、この時点では誰もが予想していません。
さらには、ヴァッサー王国国王となったシュヴァルツが何かと二人の世話を焼き、仲人となったことも、後日回顧談が紙面に載るまで誰も知りませんでした。
アンネリーゼはお忍びで、ミカとともに街中のカフェに出かけ、そのたび昔を懐かしんだのです。
「あなたは猫舌だから、熱々のホットミルクを飲めなくて苦労していたことを思い出したわ」
「よくそんなことを憶えているね」
「ええ、もちろん。結局飲み干したけど、その日はおねしょしたことも憶えているわ」
「さっさと忘れてくれないか」
「嫌よ。孫やひ孫にまで語り継ぐんだから」
「やめてくれ。君の寝相が悪いのは子どものころからの筋金入りだと言い触らすぞ」
「あら、私とずっと一緒のベッドで寝ていたんだっていう惚気かしら?」
「まったく。可愛いが、可愛げのない」
「お互い様よ、きっと」
おしまい。
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