本編の月山富田城の戦いについて
本編で第一次月山富田城の戦いが終わりました。本文はこんなこと考えてましたというネタバレです。読んでいなくても本編への影響ない話をつらつらと残しておきます。
大枠では史実に即した流れを取りました。4万5千vs1万5千の出雲(島根)での戦いに土佐から補給部隊のみ数千の支援では大勢に影響を与えることはできません。
史実では一条房基の実弟であり、大内義隆に養子に入った大内晴持は敗走時に船から転落し溺死しました。享年20歳。これを助ける布石としての後方支援でした。海路・陸路双方で撤退前提として手を伸ばした結果、死亡回避したわけです。
養父である大内義隆は晴持を溺愛していて、晴持の死はその後に大きく影響したといわれています。個人的にはそれほどでもなくて、単に敗戦のショックが大きかったのだと思います。晴持は死なずに済みましたが、史実同様に嫌戦に傾かせます。
史実では大内家は晴持が亡くなると大友家から新たな後継者を迎えいれます。キリシタン大名で名高い大友宗麟の弟大内義長です。晴持と同じく母親が大内の娘でした。大内義長は実質大内家最後の当主となりました。
晴持が死んでいないので大友から養子を取る歴史軸が無くなっています。しかも一条からの妊活指南書により史実よりも早く嫡男義尊が誕生しています。本来、1543年に晴持が亡くなり、1544年に義長が養子になり、1545年に義尊が生まれるのです。
周防騒乱「大寧寺の変」と豊後騒乱「二階崩れ」への影響は必至です。
第一次月山富田城の戦いでは大内家、毛利家の重臣の多くが亡くなりました。小早川正平もその一人。沼田小早川家の当主でした。撤退時の殿をまかされ21歳で討死。その息子繁平は2歳で家督を継ぐことになりました。毛利元就の次男小早川隆景は竹林小早川家の後継に入り、12歳で当主になりました。17歳の時(1550)に毛利元就と大内義隆の策謀で本家筋である沼田小早川家を乗っ取ることになります。沼田小早川家が安泰ならば毛利水軍の中核である小早川水軍の誕生の流れも変わることになります。
渡辺通は毛利家の家臣でした。月山富田城の戦いの撤退では元就の身代わりとなって囮役を引き受けた7人の武将が奮戦した末に渡辺通は討死しました。戦死した場所が、現在の島根県大田市温泉津町小浜の七騎坂、この地名も残りません。元就は決して渡辺の家を見捨てないと誓い、渡辺通の子を重用します。その姿勢は毛利家の子々孫々まで受け継がれ、長州藩の正月の甲冑開きの儀式は代々、渡辺家の者が先頭の栄誉に与かることになったそうです。これもまた起こりません。とはいえ、それほどまでの武将たちが生き残り、毛利家を支え続けることのほうが大きなことでしょう。
大内家の重臣が多く生き残ることで大内家の弱体化を遅延し、毛利家の伸長を抑える狙いがあります。尼子の追撃を叩くことで尼子を弱体化させる一因としました。そして大内と毛利に恩を売る。これらが今回の月山富田城の話でした。
本編をお楽しみに。