表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

吉田郡山城跡から月山富田城跡へ

春の山陰路を桜ドライブしてきました。

どちらの城跡も公開はもう少し先ですが、既に書き終えた部分になります。


まずは1540から1541にかけて行われた郡山合戦の舞台である吉田郡山城跡。


3000の毛利勢が周辺の住民を城に引き込んで8000人が籠城。尼子勢は3万。

3ヶ月耐えて、大内軍1万が到着。その後1ヶ月で尼子撤退。


戦いの概要を2行でまとめるとこうなります。

・・・・想像つかないですよね?


史料を見ても尼子の布陣が吉田郡山城を落とす布陣でないんですよ。

戦の経過を読んでも、籠城戦ではなくて、打って出て戦う野戦の記録ばかり。

後世になってもいろいろと憶測がふくらむ戦いであったようです。


広島城に移築されたり国替えで破却されて[跡]となった郡山城。

麓にある安芸高田市歴史民族博物館でいろいろな展示や史料を見てきました。

2023年が元就が郡山城入城500年という記念のロゴやスタンプもありました。


毛利元就と毛利隆元の墓所にもお参りしてきました。


強行軍ではあるのですが、吉田郡山城跡から月山富田城跡へ向かいます。

車のナビの設定で高速道路利用でなく距離優先の下道設定にすると

約120km離れていました。


大内軍が吉田郡山城よりも西南にある厳島神社を出発して

月山富田城に対陣して攻め始めるまで1年以上かかっています。

・・・・想像できませんよね?


大内勢4万5千 vs 尼子勢1万5千

史料によって数字のブレはあるでしょうが、

第一次月山富田城の戦いはおおよそそのくらいの規模だったようです。


書いている時から、勝てない戦だと思っていましたが、

現地に着いて登ってみて再度実感しました。

銃火器のない時代に弓矢と投石で大規模な山城を攻めるのは困難であるのだと。


第二次月山富田城の戦いで毛利元就は4年かけ、最終的に兵糧攻めで落としました。

山城の中で屈指の名城は一見の価値ありです。

桜も椿も綺麗に咲いていて、行くなら桜の季節がオススメです。


よく整備された城跡なので、山歩きな装備がなくても気軽に登れます。

私はヘロヘロになりました。帽子やドリンクは必須です。


こちらでは尼子晴久の墓所にお参りしてきました。

毛利と違って朽ちてしまった寂しい墓所でした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ