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作者: 後藤章倫

 人里から少し離れたところにある池で、いや池と言うよりも沼と言う方がしっくりくるところで釣り糸を垂れていた。ヘラブナを二匹と一尺にも満たない鯉を一匹釣り上げ、足元のスカリの中で生かしていた。水面のウキが軽く浮き沈みし始めた時に背後から声がした。

「俺んだぞ」

声のした方を振り返っても何も居ない。視線をウキに戻すと、ウキが見当たらなかった。慌てて竿を上げると魚の手ごたえがあった。

「俺んだって」

魚を手繰り寄せていたら、今度は正面からさっきよりも大きな声がした。もう少しのところで取り込みに失敗して魚はバラしてしまった。声がした正面を見ると、対岸に居るものと目が合った。それは河童で間違いなかった。河童は、ぬるりと水の中に入って静かに此方へ泳いでくる。段々と距離が詰まり、すぐ目の前で立ち上がり水の中から上半身を現した。それからゆっくりと沼から上がり隣に立った。魚みたいな生臭い感じは無かった。

「お前、あそこ何ともなかったか?」

河童はそう言って、この沼へ来るときに分け入ってきた方を指さした。そちらに顔を向けると、獣道みたいな先の両側に石が三段ほど積まれているのが見えた。

「あそこからこっちが俺んちだから張ってある。お前何ともなかったのか?」

座った体勢で河童を見返すと、丁度目線が腰のあたりだった。そして思わず「あっ」っと声が出た。

「だから、ここの魚は俺んだぞ」

そう話す河童の股間が反り勃っていた。

「お前、よく見ると良いな。いたすか?いたしてみるか?河童は具合がいいんだぞ」

 いたす。その言葉を聞いて変になった。何だか血管が膨れてドクドクいっている。河童の手がちょっと肩に触れると、もうその気になってしまい、河童の誘うまま一緒に穴倉へと入った。

 

 「若いのに珍しいなぁ」

近所のおじさんは、釣りから帰って来るわたしを見つけるといつもそう言っていた。

「だって鮒おいしいでしょ」

わたしが言っても、おじさんは不思議そうに顎を指でコロコロやりながら

「前はよう食ったけどなぁ」

なんて言って、声をかけた事を後悔するようにそそくさと自分の家へと入っていく。前はって、今は食べないのだろうか。そう言えばうちの両親も食べたとこを見たことはない。その両親なのだけども、わたしが十八歳の誕生日を迎えた日からパタリと、何だか憑き物が剝がれ落ちたみたいに、わたしに構わなくなった。特にわたしも気にはならなくて、それでも少しだけ違和感みたいなものはあった。それでも母は食事を作ってくれるし、洗濯だってやってくれる。学校から帰って来ると「おかえり」とも言うし、おはようの挨拶もするのだけど、家族感が無くなったというかなんというか。父さんとはなかなか顔を合わせる事が少なくなっていた。それはわたしの十八の誕生日以前から生活のリズムというか、わたしが朝起きる前には仕事に出かけるし、父さんが帰宅するころにはもうベッドの中で静かにしているから仕方ないのかもしれない。


 わたしはもう夢中になっていた。何度も何度も喜びが溢れていた。どのくらいの間いたしてたのだろう。河童のそれは本当に具合が良かった。

「だからお前、あそこ何ともなかったんだな」

河童の、言葉の意味が分からなかった。穴倉の暗がりで触れ合う感覚が最初の頃とは違っているのがわかった。

「あれ?わたし」小さな声が自然に出た時に、いつかの七五三祝いの光景が脳裏に浮かんだ。あれはなんとも妙な空気感だった。たしか七歳の時だ。神の子から人になるとかなんとかの儀式で…

 少しずつ靄が晴れて来て物事のパーツが嵌り始めた。その時撮った七五三の写真は、千歳飴を手にしたわたしの後ろに神社の境内が写っていてた。今までは気にもならなかった一対の、深緑色の、木彫りの、人というか動物というかそういうものが境内の柱脇に立っているのも写り込んでいた事を思い出した。

「お前、俺んとこへ来たんだな」

河童は嬉しそうに言った。

 あれは、そう、わたしを産んでくれた親だ。わたしは河童だった。そして今日ここに来たんだ。あの人間の父さんと母さんは?父さん?母さん?なんだっけ?あれ?わたしは、わたしは。


 女として生まれた河童は幼いうちに人間のもとへおくられます。ひっそりとその夫婦の娘となり、生活に溶け込みます。そこから十八を迎えるまで人間の知恵や愚かさ、汚さ、優しさ、そんなものを吸収して河童界へと帰って来ます。伴侶を見つけてその知識を共に分かち合い、繫栄とまではいかないまでも現代にも生き続けているのです。

 あなたの近所にも釣りガールなんて言って、よく釣りに出かける若い娘さんが居ませんか?もしかしたらあなたの記憶から消えた娘さんが居たのかもしれませんよ。


              〈終〉


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