五話 天正三年七月三日 吉親再訪
プチトマトは品種の名前で現在は栽培されてないようで、ミニトマトに変更。
今日は朝から梅酒を作ろうと台所で4kgの梅があるが1kgは栽培用に取っておき、梅のアク抜きには4時間ほどかかるのでボールに梅と水を入れて漬けておく。
梅を付けている間に棚にあった紙コップの底に複数小さな孔をあけて土を入れ、ミニトマトの種や梅の種を入れていき水を散布して発芽するまで放置しておく。
(これでミニトマトと梅が発芽すればOKだな)
梅のアク抜きの待ち時間の間は寺坊達に渡す資料として江戸時代以降に作られた加古川東部の用水路に関する資料を紙に写していると、玄関を叩く音と声が聞こえてくる。
「佐藤出てこんか!早う扉を開けい!」
(俺の名前を知っていて、家に来るって誰なんだろうか?)
玄関の扉を開けると一昨日来た別所吉親がいて、今日も前回と同じ10人ぐらいで来たようだ。
「扉を叩かなくても家にいる時はインターホンを押せば家の中まで聞こえるので、次からはインターホンを押して下さい」
門扉にあるインターホンを押せば音が鳴ると説明すると、さっそく何度も押して確認して「おぉ」と声を出して何度もボタンを押すので、吉親を止めて家の中に招くと供の者も前回と同じ3人がついてくる。
部屋に案内すると台所にあるボールに入った梅を見つけ「大きく立派な梅だな、この梅で何をしておったのだ?」と問われたので、梅酒を作っていたと答える。
「梅の酒か?」と問われたので焼酎などの強い酒に梅と砂糖を入れて熟成させたものと説明すると、強い酒を飲んでみたいというので紙パックのホワイトリカーを少量グラスに入れて飲ませると。
「くぅー強いのー」
「この強い酒を使うことで腐敗しにくくなり、砂糖と梅を入れて数ヵ月寝かせると美味い梅酒ができるですよ」
梅酒を漬け込む瓶を3つ用意してホワイトリカーを少量入れて蓋を閉めて軽く振って消毒してから、水に漬けておいた梅を水洗いしてヘタを取り水気を取ったら瓶に氷砂糖と梅を入れていく。
「ちょっと待て、これ全て砂糖なのか?」
「氷砂糖と言って砂糖を結晶化させたものらしいです。本当は黒砂糖も使いたかっったのですが、黒砂糖は高く売れると聞いたことがあるので保存しています」
「佐藤のいた時代では砂糖は安く手に入るのか?そうですね白い砂糖は安かったのですが、黒砂糖はほとんど作られていなかったので高かったですね」
「なるほど、この梅酒はいつ頃飲めるのだ?」
「3年以上は寝かせようと思ってますが、3年前に作った物ならあるので飲んでみますか」
飲みたいというので梅酒を取りに行きグラスに梅酒を全員分出していくと、さっそく飲んだ者達から「なんと濃厚で芳醇な」「先ほど飲んだ酒がこれほどまろやかになるのか」「甘くて強い酒だ」「美味い」という感想が聞こえる。
この時代の酒と言えば米から作られる濁酒や清酒があるが度数は高くても酵母菌が生存できるアルコール度数が20%までで、アルコール度数は15%ぐらいだったとされる。
日本の蒸留酒の歴史は現代のタイがシャム王国と言われた時代に長粒種の米から作られる酒を蒸留したものが琉球王国に伝わり、琉球王国から薩摩国などには江戸時代に入る前には作られ、焼酎のことは琉球酒や焼酎とこのころにはすでに言われていた。
梅酒はいつ頃から作られていたのかは不明だが、江戸時代の頃には作られていた。
「砂糖や焼酎が手に入らないと作れなくなるんですよね」
「なるほど、これほどの酒であれば高値で売れるであろうな。今はどれほどある、全て買い取ろうではないか」
「いや、普通に売りませんよ。3年寝かせてこの味ですよ、半年以上寝かせれば飲めますが趣味で作っているので売るわけないですよ。砂糖は海外に船を出せば今の半値で手に入りますし、焼酎は数が少ないのと播磨の地でも作れる大麦から作って売れば良いと思うんですよね」
この時代の砂糖の値段がマカオで白砂糖は半値ほどで黒砂糖は1割程度と説明し、焼酎は蘭引という蒸留装置を使えば作れ原料の酒は大麦からも作れると説明する。
大麦の値段は米の売値の半分程度だが、肥料や麦踏を行うと反収が1石(180リットル)を超えると説明する。
「いろいろと知っておるな、結果を出せば佐藤を別所家で雇うとして禄はどうするかで何か希望はあるか?」
この時代の武士は下は足軽から上は大名と階層があり、武士は古くは由緒正しき家柄の者達が武装したことから始まったのだが、南北朝時代の頃から土地を集めて力を持った百姓たちの中から没落した武士の家系図を買い取ったり盗むなどして家系図を偽り武装化した者達が地侍として世に現れだすと大名たちは戦うものを集める為に被官化していった。
応仁の乱の頃になるとさらに多くの兵が必要になり、土地を捨てた百姓や争いごとを好む者達を武士は足軽として銭で雇うようになっていった。
銭で雇われた足軽や、村などから年貢として所領を知行地として安堵された武士がいた。
他にも城代など大名の持つ城に手勢を率いて城番として勤めることや、奉行や代官として働くなどして役職に応じて役高が支給されていた。
「希望としてはこのあたりの土地で開発されてない土地を知行地として欲しいですね、俺が関わった事で結果が出ればそれに応じて役高も欲しいですね。技術や他の分野に投資できるように軍役はなしにしてほしいですね」
身分社会が明確に分かれる以前は大名は武士以外にも商人や僧なども家臣としており、商人には武器弾薬兵糧などの軍需物資の調達を知行地を宛がい確保したり、村や町の税の徴収を委任するなどしていた。
御伽衆として商人や僧を含め専門職の者達を、近くに配して相談などをしていた。
「儂だけの判断では難しいが、このあたりの土地はほとんど手付かずだから問題はないだろう。村もなくだれも住んでおらんので収入は数年はほぼなかろうから役高として儂の懐から2貫文だしておこう」
吉親がそう言うと供の一人が外に出ていき、戻ってくると床に紐で繋がれた銭の束を複数置いていった。
(あれ?1貫文は1000文だから2個のはずだけど3倍ぐらいあるんじゃないか)
「2貫にしては多くないですか?」
「佐藤は知らなんだか、織田が上洛して以降に畿内でも永楽銭がびた銭が市中でも公然と使われるようになってな、精銭1文が永楽銭1枚とびた3枚と同じ価値なのだ」
日本では皇朝十二銭の鋳銭以降は公権力による銭は作られなくなったが、中国から文化の伝来とともに貨幣経済が国内に浸透していき、年に1億枚以上という圧倒的な鋳造数のあった宋銭を中国から輸入していた。
宋が滅び宋銭が作られなくなり日本に入ってこなくなったが、畿内では破損した宋銭を集め貨幣として使っていた。
13世紀後半から14世紀になると日本では京で鏡や金属製品を作る職人が副業として模造銭を作るようになり、康永二年(1343年)検非違使庁に銅細工職人が模造銭を作っていて摘発された記録が祇園社にある。
畿内では中国の銭を民間で模造されたものを「びた」と呼び、中国で作られた宋銭は精銭と呼ばれた。
室町時代になると宋銭が入らなくなり、この時代に中国の王朝であった明が作っていた永楽銭が日本に入ってきたが西日本では使用すると受け取る側が嫌がるために銭の選別をする撰銭を禁止する撰銭令が大名や自社によって出された。
畿内で永楽銭は撰銭の対象となり、民間で作られた新しいびた銭は織田信長が上洛するまでの永禄の頃までは撰銭令によって使用が禁じられていたが、市場に銭が不足していたこともあってびた銭と永楽銭は宋銭を使用するときに低価値ながら少数混ぜて使われていた。
信長が上洛すると信長の支配地域に対して撰銭令を出し東日本で多く使われていた永楽銭に価値を持たせ宋銭と永楽銭を等価とし、それまで価値のなかったびた銭や破損した銭に対して価値を持たせるようにした。
びた銭に価値を持たせたことによって市場に多くのびた銭が流通するようになり銭の価値が下がり、それまでは京や奈良以外の地域でしか米が貨幣の代わりとして使われていなかったのが京や奈良の地域でも米が貨幣の代わりとして使われるようになっていき小さな取引には銭を使い、大きな取引には米を使うようになっていった。
精銭1枚とびた銭3枚がこの頃の相場であり、びた銭の中にも上中下とランクがあり酷いものでは生鮮1枚に対してびた銭が10枚以上も価値に差があった。
びた銭に価値が出たことで各地でびた銭が作られるようになり、秀吉が天下統一した頃になると近江坂本で作られた銭が国内外で流通するようになり、海外ではサカモトと呼ばれていった。
「城下の三木町に佐藤の屋敷を用意するように手配しておくから、準備ができれば連絡を入れるので城に出仕せよ。その時は殿にも紹介しよう」
そういうと吉親は必要なものを準備して城に来るようにと伝えて、城に帰っていった。
銭踊る東シナ海 太田由紀夫
撰銭とビタ一文の戦国史 高木久史
無料で読める日本銀行金融研究所の貨幣史研究会・東日本部会の記録の第4回がこの時代頃で、日銀研究所の資料は一度目を通すだけの価値はあります。
びた銭や明銭(永楽銭)は信長上洛するまでは、ほとんど価値がなく宋銭が精銭と呼ばれて貨幣として流通していました。
信長上洛後の価値はだいたい宋銭1枚と明銭1.1枚とびた銭3枚が等価ぐらいで、明銭とびた銭が大量に畿内で使われるようになると精銭(宋銭)を持っている人たちが使わずにタンス預金のように保存するようになり精銭は流通量がほぼなくなります。
慶長のころには明銭1枚とびた4枚が等価となります。この頃には東日本ではびた銭のことを京銭と呼んでいました。
ややこしい話で京銭と書いて「きんせん」と「きょうせん」と読み方が変わり、中国の南京などで作られたかなり質の悪い銭が室町時代に「きんせん」と呼び、慶長の頃に畿内付近で作られた銭を「きょうせん」と呼んでいました。
びた銭が信長が上洛するまでなぜ価値がなかったかというと、びた銭は新しく作られた銭なので鋳造してすぐなので光り輝いていて新しく作ったということがわかるので価値がありませんでした。
戦国の村を行く 藤木久志
百姓から見た戦国時代 黒田基樹
これらの本を読んで自分で調べて思ったのが、以前は自分も戦国時代は戦があれば村から兵を集める農民兵が主体と思っていましたが、農民は戦には基本的に参加せずに年貢だけを払い、有力な農民が武士化した地侍が年貢の代わりに軍役で応えていたのが農民兵と勘違いされているんだと思います。
見たことはないんですが、七人の侍がこの設定らしいです。
室町時代までは武士は一族郎党が戦い職業軍事の集団で、応仁の乱によって兵をかき集めるために銭などで大量に雇うようになったとかで傭兵などが登場するようになり骨皮道賢が有名です。
大量に増えた足軽の武器として以前は太刀や薙刀が使われていたのが、大量生産のために分業化して槍や打ち刀が普及するようになりました。
ここで一部補足すると室町時代に永享六年(1434年)に幕府は村に対して落ち武者狩りの動員を求めたりして、6つの村から村民200人以上動員していたりはします。
北条氏では永禄十一年(1568年)の冬に武田と戦争になるということで、戦で戦える15歳から60歳までの村民の男の名簿が欲しいと通達を出し、前線には武士が行くので砦や城が空になると困るから代わりに防衛してくれと村に命令しますが、村では戦は武士の仕事として村で役に立たないものなどを出したりしていました。
武田では長篠の合戦で大敗すると戦える武士が減ったことで、天正5年(1577年に)に村に対して1人20日の出陣を頼みましたが、村では夫丸として数合わせの人だけを出して戦の役に立たなかったと敵にも味方にも噂されたとあります。
足軽は2〜5貫で雇っていたとされていますが、実際に銭で雇っていたと資料は現時点でなかったはずです。
そもそも戦国時代の資料がほとんどなくて、年貢などに関しても税金額である貫高がなっている資料は北条家で残っていますが実際に村の生産高がいくらだったのかの資料が残ってないんですよね。
現代の感覚でいくと年度末の確定申告で所得税の額だけは記録として残しているけど、年収や住民税や健康保険や年金や生命保険などの控除できる保険や生前贈与や遺産相続といったほぼ全ての数字が不明な状態で記録した資料しかないという感じですかね。
江戸時代に北条氏の家臣だった人物が北条家は四公六民だったという文書を残していたりしますが、実際に北条家の税率が載っている資料はなく現代研究されているのでは各種税を合わせると七公三民ぐらいだったとされています。