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三話 天正三年七月二日 現状の把握

兵庫県のため池数は約2万2千で全国1位で、全国のため池が約15万4千でやく14%が兵庫県にあります。

淡路島には約1万のため池があり、個人の小さなため池などは第三者の視点からは必要なのか疑問なところです。

一応この作品は稲美町にある加古大池の近くに家があるという設定です。

麦類に関しては肥料によって7割収穫量が変わるので、麦踏と施肥が麦の耕作には大切です。

水稲は施肥による効果は3割で、雑草を除去することが一番大事みたいです。


土地面積の単位について 梁瀬範彦

室町時代の末期では1間は6尺5寸で、太閤検地では6尺3寸となり、江戸時代に6尺1寸で、明治から現代は6尺となります。

この様に1間が舞台の天正の頃と現代では5寸も変わってくるので反収であらわされる反という面積も大きく変わってきます。

太閤検地によって1歩は約6%縮小され、1反は17%縮小、1町が22%縮小されているので1ヘクタールの面積で考えると、太閤検地とそれ以前は22%増税されているという話です。

今後この作品において現代よりも一反当りの収穫量が多くなる可能性がありますが(どうなんだろうな)現代と面積の大きさが全然違うということ知っておいてください。

 日が昇り初め夏の太陽が照り付け始める現代で言うならば朝七時頃、気温があがり始め25度を超えていた。

 そんな中ベッドで寝ている大輔は、ようやく目を覚ます。

 (あぁーしんど、今日は何するんだっけ?えーと、あっ下水管探して掘らないとダメなんだよな。考えても仕方ないから起きるか。そういえばタイムスリップの影響で時間もずれてるから、正午に時間合わせないといけないな)

 昨日の夜にスマホやパソコンの電源を確認すると日没の時間が大きくずれていることに気付いていたので、時間を調べる方法もないので日時計で大体の時間を合わせようとしていた。


 起きて1階に降りて冷蔵庫から牛乳を取り出して、コップを使わずに牛乳を飲み冷蔵庫に戻してジャージに着替えて玄関を開けて外に出ると門扉のところには昨日と同じように寺坊達四人はいたが、今日は住職はいなかった。

 「おはようございます、もしかして待っていましたか?待たせていたなら申し訳ありません。ここのボタン?鋲?まぁとりあえずここを押してもらえれば家の中に音が鳴るので次からはここを押して下さい」

 待たせていたなら悪いと思い謝罪して、インターホンの使い方を簡単に教える。

 「ここを押せば音が中に伝わるのですな、次からはそう致します。今日は住職は用事があり来れなかったので、我ら四人のみとなりますがお手伝いできることがあれば何なりとお申し付けください」

 (寺坊達が手伝ってくれるのか、穴掘り手伝ってもらうか)


 「すみませんが今日は皆さんに手伝ってもらいたいことがあるんですよ、家から出る排水が地面の中に埋まっているのでそれを探し出したいので手伝ってもらえませんか?」

 「穴掘りですか、構いませんよ。では寺に戻って鋤をとってきましょう」

 「道具は物置に入っているので、少し待っていてください」


 玄関に置いてある物置の鍵を持って、物置の鍵を開けて扉を開けるとショベルが二本あり日本とも持っていくことにした。

 ショベルとスコップの違いはJIS(日本産業規格)で足をかけて使えるのがショベルで、足をかけれないのがスコップと規定されている。


 寺坊達の元に戻りショベルの一本を一番若そうな火魯に渡すと、「すべて鉄でできているのですか」と呟いていた。

 (そういえばこの時代に使われていたショベルのように使われていた鋤は、先端だけ鉄だったな)

 家の境界と排水の位置を予想して最初に自らショベルで掘っていくが、10分ほどでショベルを渡した寺坊の火魯に交代で掘ってもらう。

 「おぉこれは凄いですぞ、いつも使っている鋤よりも簡単に掘れますぞ」

 「なんと次は私にもやらせてくれ」「私にも」「早く交代してくだされ」と言ったように他の三人もショベルを使いたいと懇願してきたので数分交代で掘ると、周囲を境界に沿って1mほど掘ると自分が想像したよりも早く三十分ほどで排水管を見つけることができた。


 「皆さんのおかげで思ったよりも早く排水管を見つけることがありがとうございます」

 「何かほかにすることはありますか?ちなみにこの排水管とはどういった物なのでしょうか」

 風呂やトイレや炊事場の排水が流れて現代だと下水処理場に向かって流れ、そこで集められた排水が処理されると説明した。


 「なるほど排水をそのまま捨てると周囲が汚染され病気になるのですな、徳川家康が作った江戸の町は上水道と下水道が整備されて、百万という人が住んていたのですか」

 「このあたりも水道というものを整備できれば水に困らないのでしょうな。佐藤様がおられた時代のこのあたりはどうなっていたのですか?」


 「このあたりは江戸時代になると少しずつ村ができるんですが、川がないので村同士でずっと揉めていたらしいです。明治時代になるとイギリスという国の協力でここから北東にある山田川と淡河川から水を引いていました。

飲み水はこの家のようにポンプを使う家もほかの地域より多かったり他の地域から水を買っていました」

 「このあたりに水を引いていたというのは本当ですか!どのようにすればよいのですか?」

 「ここより高い地域から水の高さをなるべく落とさずに水路を引いて、山を越え、谷を越えてという感じですかね」

 「それは今すぐに出来ますか」

 現代ではこのあたりに淡河疎水によって水を引いていたと知ると、寺坊達がいろいろと質問をしてくる。


 いなみの台地について説明をすると東西約二十km、南北約十五kmという広大な大地でその中央に位置するのが兵庫県加古郡稲美町で、現代でも面積の1/4はため池で地図を見てもため池があるのがすぐにわかる。

 現代の兵庫県加古郡稲美町のあるいなみの台地は西に加古川という大きな川があるのだが、いなみの台地は隆起してできたので周囲の河川よりも土地が高い位置にあるため水が利用できず開発が遅れていた地域だった。

 東播磨の加古川東部の歴史は弥生時代から古墳時代に加古川の旧道や曇川の引水によって行われ小さな水田が開墾されていた。

 七世紀に聖徳太子に由来する五ヵ井堰が築造され、皇極三年(644年)大和国官中の藤原弥吉四郎によっていなみの台地の開発が始まったとされ、白鳳三年(675年)に岡大池が作られ、同じように周囲にため池が築造されていった。


 岡大池は現代の神戸市西区神出町の雌岡山の河川から引水しており、東播磨のため池は農業用水が必要ない農閑期だけのため常に水不足の状態であった。

 江戸時代に入ると土木技術の向上と戦がなくなったことでいなみの台地の外縁部は加古川からの引水を利用した開墾が行われ、多くの村ができていった。

 

 水量の少ない河川からの引水であったので周囲にむらが新しくできると村を挙げての争われており、江戸時代に入ってもいなみの台地が水不足は変わらなかった。

 自由に使える水が少ない東播磨地域は乾燥に強い木綿栽培が積極的に行われたが、明治時代になるとアメリカから質が高く安い木綿が大量に輸入されたので木綿栽培は廃れ水稲を栽培できる地域は水稲栽培に切り替わっていった。


 いなみの台地は水稲を栽培できるほどの水が確保できないので、いなみの台地の多くの百姓が税金を払えずに家や土地を放棄することになった。

 そんな状況を変えるためにイギリスの協力もあって淡河疎水が完成すると、加古川東部は広大な稲作地帯になったと説明を四人の寺坊達に簡単に説明する


 「なんとこの地に水が引ける日が来ようとは、佐藤様どうか我々に淡河疎水を作るためにご協力させてくだされ。円光寺は行基様が開いたとされており、我らも民のために行基様と同じようにこの地を豊かにしたお思います」

 行基は関西では多くの道や池を作り土地を開墾していったことで知られる奈良時代の僧侶で、彼ら円光寺も行基が開いたとされる。


 (俺プラント設備や金属関係の知識はあっても土木・建築ってほとんどないんだよな。パソコンに何か資料があったか探しておくか)

 「淡河疎水を作ることに関して協力はしてもいいですが、俺の専門分野外のことも多いので皆さんにも頑張ってもらいますのでわかる範囲で教えますが、鋼管なんかの必要なものたくさんいるので作るには多くの銭が要るということだけは理解してください。あとはこの排水をできれば海まで繋ぎたいですね、今日すぐには無理でも時間をかけて少しずつやっていこうと思います」

 「そのことで少し相談なのですが岡村の百姓たちが何か手伝えることがあればしたいと申し出ておりまして、彼らに任せてもらえないでしょうか?」

 「やってもらえるならこちらとしては助かりますが、銭なんてないので対価なんてだせないですよ」

 「今年は村の食糧が少し心許ないので、屋敷の裏手にある畠の大麦を少しいただければとおもいまして」

 「畠?大麦?うちは農家じゃないからそんな物はないと思いますが」

 屋敷の裏に大麦がるじゃないですかと言うので、一緒に玄関の反対側を見るとススキとは違う実った作物があった。

 (えっ大麦?たしかに道に面した門扉の反対には畑や水田があったが、もしかして家と同じように反対側のとちもタイムスリップしていたのか)


 六条大麦の収穫期は5月から六月のなのだが、5月にタイムスリップしたことで八月の夏だが大麦が過去に来る前と同じように実っていた。

 「本当に麦畑がありますね、でもこの畑は俺の物じゃないですよ」

 「そうですか、ですが元の持ち主がいないのであれば佐藤様の土地とすればいいのではないですか。それにしてもこれほど実った麦は初めて見ますな」

 (なるほど、この時代は開墾に金を出したり武力や権力によって土地を抑えた者が土地の権利を持つ当知行だったな。稲美町で育てている麦は六条大麦のシュンライだったな)


 「そうですね今日からこの土地はこの俺のものとします」

 「それがいいですね、では先ほどの続きなのですがこの大麦の一部を百姓の労働の対価にいただきたいのです」

 「それは構わないのですが、麦も刈ってもらえませんか?農業なんて知識だけでほとんどしたことがないので、作業に関しては皆さんにお任せしていいですか?」

 「作業に関してはこちらにお任せください。佐藤様には我々の知らない知識や技術を提供してもらえれば十分です」

 (何か知らないけど、ただで労働力ゲットということでいいのかな)


 佐藤家の裏にあった大麦の面積は80メートル×50メートルで4000平方メートルの土地で、現代であれば約四反の土地であった。

 シュンライの面積当たりの収穫量を示す反収は地域によって変わるが、稲美町で平均400kgを超えており、この土地に訳1600kgの六条大麦が佐藤の物となった。


 「村人10人ほどに明日刈らせるとして麦刈りは1日で十分終わますが、他にも作業含めて働くのは五日もあれば十分かと思います。一人大麦一升(1.8リットル)として村には五斗(90リットル)を対価としていただければ十分かと思います」

 近代に入るまでの日本は穀物は升に入れて体積で計っていた。寺坊の提示した一人大麦一升の対価は江戸時代では百姓などに労働させる場合に約六合の玄米を払っていたので、玄米の半値ほどの大麦の対価としては十分であった。

 大輔としては労働の対価としてもっと出しても良かったのだが、寺坊からこれから使うことも多いので節約するべきだと言われ納得した。


 「ですがこれほどたわわに実った大麦はどうやったらできるのでしょうかな」

 「それは麦踏ですよ、肥料などの影響もありますが麦類は麦踏をして分けつが起きれば新しい茎が伸びて穂が実って収穫量が増えるんで」

 麦踏というのは秋に麦類を植えると冬に成長していくのだが、土の中に空気の空間ができるとそこに霜が発生するので人が足で踏んで空間をなくす農作業であった。

 江戸時代までの裏作に作られる麦類の収穫量は現代の一反当りの平均が100kgに満たない反収であったが、嘉永三年(1850年)七月二十日武蔵国の国別府村に生まれた権田愛三によって麦踏による増収が国内に広められ他にも農作業の改良によって明治には一反当り200kgを超えるようになっていた。

 そのような偉業から権田愛三は麦王(麦翁)(ばくおう)と称えられてた。


 「なるほど、麦は踏めばよいのですな。では、水稲はどのようにすればよいのですか?」

 「米は水を抜くんです、稲は水を張ったままであれば分けつを続けてしまうので中干しと言って茎数が十分に出た水田の水をすべて抜くと稲の分けつが止まるので、数日水を抜いた後にまた水を入れると穂に栄養がいきわたるので粒の大きな米が実ります」

 「水を抜くのですか、池の水が十分でないこのあたりでは難しいことですね。抜いても再び水田に水を入れるだけの量が確保できるかは怪しいので」

 「そうですね、このあたりの土地ででは中干に関して難しいと思いますがいつかはできると思います」


 「先ほど肥料と言いましたが、どのようなものが良いのですか?」

 「そうですねいろいろあると思いますが、この時代で使ってないとすると干鰯なんかの魚肥は定番として、鶏の鶏糞、レンゲ(紫雲英)なんかの豆類を緑肥として使ったり、菜種や木綿から油を搾った残りを油粕としできると思います」

 植物の成長に必要な三要素として窒素、リン、カリウムがあり三要素が十分にあると植物は元気に育つのだが、この時代は肥料があまり使われておらず作物の収穫量が現代と比べると少なかった。


 干鰯はイワシやニシンを大きな窯で茹で魚油を抽出して身は天日干しにして乾燥させたものを作物に肥料とすると収穫量が増えることで有名だが、江戸時代には木綿栽培が広まり関西では干鰯などの肥料を多く使うことで一反当りの平均30貫(約100kg)の木綿が収穫できたが、干鰯をあまり使わなかった関東では平均16貫(60kg)と大きな差があった。北埼玉郡では13貫(48kg)しかなかった。

 イワシ漁は地引網で主に行われ古くは奈良時代の文献にもありその頃には和泉国には百五十の魚戸が存在したとあるがその頃は他の魚と混じってイワシも漁獲しているに過ぎなかった。

 その後は応仁の乱の頃にはでイワシ類を対象とした藁縄製地引網が盛んにおこなわれるようになり全国各地に広まっていった。

 海岸線が長く遠浅の九十九里浜には弘治年間(1555~1558年)には紀伊の漁民から伝えられた。

 遠浅がなく地引網漁に適した土地がないところでは船引網が行われ江戸時代以前は和泉・紀伊・摂津で行われ、江戸時代に入ると淡路・安芸・周防・伊予・讃岐で盛んにおこなわれた。

 漁によって捕獲されたイワシがいつから干鰯に加工され肥料として使われたのかはわからないが、全国的に普及するようになるのは江戸時代以降だった。


 鶏は古くから貴族が観賞用として飼っており鶏はいたが、日本では食肉を目的とした畜産が九州以外では発達しておらず農村で養鶏は行われてこなかった。

 日本では中世や近世の時代に肉は食わなかったと寝ぼけたことをいう人もいるが、食べない人もいたが食べてる人もいたというのが正しい。

 鎌倉時代になると武士たちは猟で捕獲した肉だけを食う文化が広まり、畜産による肉食は忌避されてたが農村部では害獣として鹿・猪・鳥類を食肉していた。

 鎌倉時代から民間の商人などが中国や東南アジアに船を出していたので長く交易が行われていたが、室町時代になると大陸に住んでいる人たちが日本海側や九州の地域に移住するようになり食文化なども伝わるようになり九州では豚が飼われていた。

 16世紀に入ると南蛮人(ポルトガル人)などが九州を拠点に交易をするようになり彼らの食文化も伝わり、織田信長の家臣入江某という人物が日本で初めて養鶏業を営んだとされている。

 農村部では鶏を飼うことの利点が知られてなかったので江戸時代を通して飼われることはほとんどなかったが、明治に入り食肉文化の需要によって鶏が高値で売買されるように農村部では昭和の時代までは鶏が飼われることが普通になった。

 鶏の糞をおが屑や稲わらなどと一緒に数か月発酵させると、効果の早い肥料として使われている。


 レンゲは室町時代には日本にも入ってきているとされ、秋に種をまくと4月ごろに紫の花を咲かせるので花が咲いた頃に緑肥として土に鋤きこんでいくと、マメ科の特徴である根粒菌の働きによって土壌に窒素成分が補給されるので収穫量が増えることから江戸時代には水稲の裏作としてレンゲが栽培されていた。


 油粕は江戸時代に入ると植物油を使った食文化が普及して、江戸時代以前は胡麻や荏胡麻が搾油の植物として使われていたが初夏に収穫でき裏作として使える菜の花の種や、商品としてワタを取り除いた木綿の種が多くの油分を含んでいたので江戸時代には換金作物として育てられていた。

 油を搾った残り滓は油粕として、肥料として使われていた。

 明治時代になると大豆から油が絞られるようになり味噌や醤油といった大豆製品の多い日本では大豆から搾った油が主流となっていき、大豆粕は干鰯以上の高い効果があると旧日本軍が発表していたりもする。


 「肥料にはそれほど多くの種類があったのですね」

 「まだまだありますが、簡単に用意できるものを言っただけですよ」

 「佐藤様の知識は豊富ですね、まるで思金神さまのようだ」

 オモイカネといえば戦艦に搭載されたAIが有名なので知恵の神として知っていたが、まさかそのように例えられるとは思っていなかったので大輔はちょっと恥ずかしかった。

木綿の収穫量に関しては、明治期における関東の麺佐久地域の変容 榊原忠造

肥料によってどれぐらい変わるのか色々調べても、だれもそんな実験してなくて明治に関東と関西で木綿の収穫量が倍以上違うことでわかりました。

木綿はしゅうかくりょうの1/3が綿として使えるので反収100㎏であれば30kgちょっとが糸として使えます。


オモイカネの登場するアニメを知っている人はおっさんかロボ好きが大半ですが、稲美町とかのあたりはテレ東系列の電波が入らないので放映されてなったんですよね。

近隣に住む私の市町村も電波が入らないので、全く知らず10年後ぐらいに初めて見ました。


今まであまり気にしてなかったのですが、4月末にふと畑か田んぼかわからないけどみると紫の花がるのに気づいてレンゲが身近にあったんだと思いました。

本当はゲンゲですが、レンゲでいいんじゃないかと思うのでレンゲです。


畠と畑の字について現代では畑が使われますが、昔は畠を使っていたのは畑という字は焼畑した農地に関して使う言葉だったので畠としました。

主人公は現代人っぽく畑を使い、他を畠を使う意味のない話です。


なぜパソコンがあるのかはkindleで本を買っているのと、国土地理院のデータには標高が載っていて水路を作るのには標高を知ることが重要なのと、グーグルマップなどでは地図に載ってない水路は載ってなかったりしますが、国土地理院のデータには水路が載っていますというのが大きな違いで国土地理院のデータを保存してあるという設定です。


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