プロローグ2
作者の知識の前提は谷口克広の織田信長家臣人名辞典などからとなっています。
他にも複数の書籍や論文などで調べているので、他の方が調べるときの参考にわかる範囲で掲載していきます。
天正三年七月一日(1575年8月6日)
山城国相国寺にて向かい合う者達がいた。
上座に座るこの中で眼光鋭く対面する者達を睨む男がいた。
元亀四年七月三日(1573年7月31日)に征夷大将軍足利義昭が槙島城にて挙兵をすると、織田信長は七月十八日に槙島城を攻略すると、将軍義昭を京より追放し尾張・美濃・近江・伊勢・山城・河内・和泉・摂津・若狭を支配下に治め畿内を支配する者であった。
天正三年五月二十一日(1575年6月29日)三河国長篠で武田家を破り、武田との戦から一月ほどあとのことであった。
「申せ」
「御初に御目にかかり光栄であります、これより別所家は全身全霊を傾けて弾正忠様に忠節を誓いまする」
「何故これほど遅くなった」
「西の小寺、北の在田がおりましたので上洛する機会がなかなかあらず、先日在田を降しようやく上洛の機会となり誠遅くなり申し訳ありませぬ」
信長に相対する下座に座る男の一人は播磨国美嚢郡を拠点にする若き別所家当主別所長治。
信長が上洛するまで畿内を支配していた三好家に従属していたが、幼くして父を亡くし二人の叔父に支えられながら別所家の当主となり、内部抗争で弱体化した三好家を見限り義昭上洛後に将軍義昭の後ろ盾となる信長に従い播磨国の中では早くから信長の傘下に従属していた。
永禄十三年1月(1570年2月)に信長より禁裏修理、武家御用、天下静謐のために上洛を促されていたが周囲に敵が多く上洛することができなかったが、信長の仲介により浦上家と和睦し、小寺家と在田家を戦で破ることで周囲に敵がいない状況を作り出した。
「まぁよい、いずれ毛利との戦になろうその時は別所には働いてもらおう」
「はっ」
安芸の毛利家は当主毛利輝元の叔父小早川隆景が天正二年に備前の宇喜田直家と同盟を結びこれに反発した備中の三村元親が織田家と通じたことで毛利家は三村家と戦うことになり、三村家は宇喜多に押されていた備中の浦上と同盟する。
浦上宗景は天正元年十一月(1573年)信長により当時支配していた備前・美作・播磨の支配地の安堵を受けていたが、天正二年(1574年)に播磨の小寺家にいた浦上宗景の兄政宗の孫久松丸を呼び寄せ浦上家当主として挙兵させ浦上宗景に戦いを挑んだ。
天正三年一月(1575年)に毛利の大軍によって三村家が滅ぼされると宇喜多支援を本格化させ、浦上宗景は宇喜多直家に押される状況であり宇喜多を支援する毛利と、浦上を支援する織田との代理戦争はもうまもなく宇喜多・毛利が勝利目前の状況であった。
「まぁよい、播磨の者どもに早く上洛をするように促せ。重棟よ若き当主をしかと支えよ」
「はっ、この重棟必ずや長治を支え来たるべき毛利との戦において上様に別所家の戦い御披露したいと思います」
長治のやや後方に座り重棟と名乗るこの男は、別所長治の叔父の一人で別所重棟。
永禄十二年一月に京の本圀寺に居た足利義昭を討とうと三好家が攻め込んだ時に、三好三人衆の一人岩成友通を撃破するなどして将軍義昭から感状を貰っていた。
相国寺から出た長治と重棟は気性が激しく身分や出自に関係なく振る舞う信長との会見が問題なく終わったことに安堵していた。
無位無冠の信長は陰口を叩かれたとして、公家の竹内季治は処刑された。
「しかし叔父上よどうする?織田様にはああは言ったが吉親叔父上は成り上がり者として織田を嫌ってはいなかったか?叔父上を説得する自信が儂にはないんだが」
「難しい話よな、東国最強と謳われた武田も先の戦で大敗したと聞いた。武田を大きくした信玄公も数年前に亡くなったという話で此度の武田の総大将を務めた勝頼殿は武田家当主を名乗ることを許されず陣代だという話だ。織田様を苦しめた越前の朝倉や北近江の浅井も滅び織田様の天下は不動だというのにな」
「だが叔父上よ先ほどの織田様の話では中国の毛利と戦うと言うておったではないか、数ヶ国を支配する毛利相手では流石の織田様も苦しいのではないか?」
「そうよな、毛利相手では織田様も苦しいかと思うが畿内を制している利点は大きいと思うぞ、商人に聞くと人と物の数が畿内と中国では違うので小田が有利だろうと言う話じゃ」
「なるほど人と物の数がそれほど違うのか、時に叔父上、間もなく越前攻めが始まると言う話じゃが別所家に御声はかかるかの?」
「先ほども言うておったろうが、別所家は毛利との戦に備えよと言う話じゃから声は掛からんだろうな」
越前は朝倉家を滅ぼした後は織田家の支配下となっていたが、内部の軋轢によって連携して戦うことができなかったため一揆勢によって天正二年(1574年)に織田家の勢力は駆逐され一向宗の支配下となっていた。
黒田官兵衛で有名な小寺家は1573年にいなみの戦いと増位山の戦いで別所家に敗れているので、この時点で別所家に臣従した設定としています。
今後出る可能性がある官兵衛は姫路出身ではなく西脇出身説とします。
信長の官位についての説明で、谷口克広の信長の政略で文書による名乗りは初めは三郎、次に上総介(守)、三介を経、永禄十一年二月八日尾張守、同十一年八月で弾正忠となっており上洛後も弾正忠で通していて、弾正忠は勝手に名乗った自官であるとしている。
公卿補任によれば天正二年三月十八日に正四位下参議ですが、いきなり従三位権大納言に就かせるときに不自然さを隠すために任官させたものにすぎないとある。
信長は天正三年十一月までは無位無官で、天正三年十一月四日に従三位権大納言、同じ月の七日に宇近衛大将を兼務、天正四年十二月二十一日正三位内大臣、天正五年十一月十六日に従二位、同月二十日右大臣、天正六年一月六日正二位となっています。
家臣からは足利義昭追放後から上様と呼ばれるようになったとあり、天正からは織田家の家臣であれば上様と呼ぶのがいいのだと思います。
上様と言えば時代劇の徳川八代将軍の暴れん坊将軍のイメージですが、室町時代などの武家では自分の所属する大名を大殿と呼びますが、同じように上様と呼んだりします。
暴れん坊将軍のイメージで征夷大将軍=上様のイメージが強いですが、自分の上司に対して上様でいいと思います。