五十七 母と娘
大学生の私は、本来ならば何の講義を取るべきか知り合ったばかりの学友と一緒に悩み、先輩からはアドバイスを受けている、という状況であるはずだった。
まさか、高級エステに放り込まれて、指先から全身をマッサージやら脱毛やらと磨かれるとは思っても見なかった。
「ああ、素敵ね。毎日こんなに素敵な体験ができるなら、あなたの大学進学も間違った決定では無かったわね。」
私の隣で施術を受ける母はそうかもしれないが、私はこのままウェディングドレスを着せられて教会に運ばれるのではという恐怖しかない。
まるで、屠殺前に身ぎれいにされているだけの羊のような気持ちである。
「ママ。大学生活ってこんなんじゃないわよ。勉強が大変でお風呂にも入れなくなって小汚くなっていったり、朝から晩まで参考書とにらめっこしてご飯も適当にしてニキビだらけになっちゃうような世界のはずだわ。」
「そうよ。パパもそうだった。だから可愛いあなたが小汚くなっていくだけの生活なんてって思っていたのだけど、こんな風にサロン通いが出来るなら、ええ、応援するわ。学生の本分が勉強だからって、女の子が美しくなることから遠ざかってはいけないと思うのよ。」
母の言っている事は正しいとも思うが、なんだか、素直にはいと答えたら悪魔の契約に承諾してしまいそうな懸念が湧くばかりだ。
「ねぇ、ママ。ほんとーに、私はハルベルトと婚約していて、これからハルベルトとの婚約披露パーティに私達は出席するのよね。」
「ええ、そうよ。あなたはドレスは何色にするの?蓮の花のようなピンクは綺麗だと思うのだけど、どうかしら。」
ドレスの電子カタログに目を輝かせている母の姿はとても楽しそうで、私が女学校の歓送迎会の後のパーティに出たくないと言った時のがっかりした姿を思い出させて私の胸をチクリとさした。
「――ママの好きにして。私を一番に綺麗に見せれるのはママでしょう。」
「もう、あなたったら。自分の着たい服を着るのが一番輝けるのよ。さぁ、アドバイスはしてあげるから、あなたが選びなさい。」
私達は寝ころびながら同じカタログに鼻先を突っ込んで、まるで女友達のようにしてキャアキャアと歓声をあげながらドレスを選んだ。
意外とそれは楽しく、女学院で進学などを考えないクラスメイトから一線を引いていた自分自身が傲慢だったと情けなく考えた。
「私のママがママで良かった。」
「ふふ。私こそよ。私はお家が貧乏だったから着飾りたいときに着飾れなかったでしょう。でも、今の私はおばさんだもの。若い子のドレスなんて着れないでしょう。だから、あなたのドレスを一緒に選べるなんて楽しくて仕方が無いの。」
「あら、着れるわよ。ママは誰よりもきれいだもの。」
「あなたこそ、誰よりもキレイよ。ああ、――ごめんなさいね。ママを一番必要としている時にママが自分ばっかりな時があって。」
私は互いに空白だった二年の事を言っているのだと分かったが、なんて答えていいのか急にわからなくなった。
春休み前の私だったら、全然平気なんて母の心を実はえぐる台詞をすぐに返していただろうが、実際にあの二年間は私は傷ついてはいないのだし、イリアとムスファーザとの楽しかった生活を嘘でも否定したくも無いのである。
「ミモザ?」
母親の声は気軽そうであっても、自分の言葉で場を悪くしてしまったという、後悔を含んでいる響きがあった。
「あ、ママごめん。あの、楽しいから、ええと、ママと一緒はいつも楽しくて嬉しいから、私はそんな事があったのかなって、今わかんなくなって。うん、でも、これからも甘えていいかしら。ずうっと、ママって。」
母はぽろぽろと泣き出して、そのためにエステシャン達は私達を放っておくように部屋から去り、残された私達は起き上がって抱きしめ合った。
母の抱き締め方は、まるで私がまだ幼い子供のように、だ。
「ママ。私はママを傷つけてしまったのかしら。」
「そんなことあるわけ無いでしょう。ええ、嬉しかっただけよ、可愛い子。私の大事な子。今度こそあなたをお姉さんにしてあげるからね。ママは頑張るわ!」
「え?」
私は母親にぎゅうっと抱きしめられながら、妊娠したという自分の母親の年がいくつだったかと、自由な右手でひいふうみいと指を折って数えていた。
ええと、こんな未来ならば大丈夫か?




