二十 さわさわさわ
男の人に触れられるのはどんな感じなのだろう。
羽毛でくすぐられる感じなのかしら?
さわさわと、私の肩をくすぐり、その指はどんどんと私の胸の頂を目指して降りていく、そんな感じ……。
いいえ、こんなに優しい感触は、指先ではできないだろう。
私の首筋に触れるか触れないかのあれは、きっとキスによるものに違いない。
ああ、なんていうこと、その唇はいまや首筋から私の胸への道筋を辿っているのだ。
「ああ、ヒュー。」
夢現の私が身もだえながら夢現のまま考えている内容に私はようやくはっと気が付き、気が付いて目が完全に覚めた。
ベッドサイドにあるライトによって仄かな明りで寝室は真っ暗ではなく、また、膨らみをもってはだけている掛布団が私に起きている真実を突きつけた。
男などこの部屋にはいないが、私一人きりでは無いという事実。
私の意識はすぐに寝直してしまいたいと遠くなりかけ、でも、意識を失ったら自分は確実に死んでしまうだろう。
私はぎちっと歯噛みをすると、気を失う事からなんとか耐えきった。
私の胸の上、正確には右の乳首のほんの数センチ上の部分、胸の膨らんでいる部分に、男の手でも唇でもなく、ここにいるはずのない真っ黒な毛むくじゃらの蜘蛛が乗っているのである。
私は生物に含蓄のある自分を称えながらも呪った。
知らなければキャーと叫んでお終いなのに、知っているからこその恐怖で動けないのである。
部屋の暗さもあって胸の上の虫は真っ黒にしか見えないが、美しいコバルトブルーの縞模様もあるはずの、危険指定どころか駆除推奨のコバルトブルータイガータランチュラだ。
そもそもオオツチグモ科の蜘蛛は、猛毒のタランチュラと勘違いされてもいたが、実際の彼等はタランチュラではなく無害な生き物でしかない。
だがこの未来世界において、タランチュラなのに毒が無いのがおかしいと勘違いした誰かによって遺伝子組み換えを行われ、いまやオオツチグモ科の殆どが強い毒を持っている。
私のおっぱいの上にいるこいつなど、何度も完全駆除の憂き目に遭いながらも外見の美しさ?から好事家によって隠されて更なる改良もされ、今や人どころか牛や馬だって簡単に殺せる程の毒を与えられた生き物なのである。
つまり、これが一噛みすれば、私は天国にゴーだ。
イリアが持ってきてくれたパジャマを着ずに、ヒューから借りたシャツのまま寝てしまったのが運の尽きなのだろうか。
男物のシャツは私には大きすぎて、ボタンを全部嵌めていても自然と胸元が大きくはだけてしまうのだ。
だからこそこの蜘蛛が、私の裸の胸の上に乗り上げることができたのだ。
数時間前はブタの餌にされかけ、今度は毒蜘蛛に殺されそうとは、私は誰にとっての邪魔者なのだろうか。
これはあの首になった青年の意趣返しなのだろうか。
私は胸が上下しないようにと、かなりの注意をしながら止めていた息をそろりそろりと吐き出した。
よし、大丈夫だった。
次に蜘蛛に触れないように、蜘蛛に気付かれないように、かなりゆっくりゆっくりと爪先が攣りそうになるほどの動きで、足先だけで布団をもっと下へと摺り下げた。
はい、これも完了と、今度はそろそろと右腕を頭上に動かして、ベッドボードに置きっぱなしのスマートフォンを取り上げた。
それからそれをゆっくりと蜘蛛の傍に近づけながら、左手はこれ以上蜘蛛が服の中に入らないようにとシャツをそっと押さえた。
左手に布地を押さえつけられて右胸だけが山のように出ているという情けない姿だが、死ぬよりはいいだろう。
蜘蛛の進行方向にスマートフォンを胸という山にかかった橋のように翳し、私は覚悟を決めてほんの少しだけ蜘蛛の背中の息を吹きかけた。
ふぅっと。
蜘蛛はピクリとして、ぴょんっとスマートフォンに乗った。
私はスマートフォンをそのまま蜘蛛ごと叩きつける様にして壁に投げつけ、がばっとすぐに起き上がってベッドライトを全灯にした。
うそ、天井にも床にも、そこらじゅうに蜘蛛がいる!
「きゃああああああああああ。」
私の叫び声に廊下でドアの開く音や足音が屋敷内で響き、数秒しないで部屋のドアは開いた。
「どうし、うわ!なんだこれは!」
私はパニックのまま、開いた扉に立つ人物目掛けてベッドを蹴り飛ばした。
当たり前だが飛距離は足りなかった。
けれど、私が床に落ちる前に抱き止めてくれたヒューによって私は助かり、ヒューは自分の足元の蜘蛛を踏みつぶしながら、一目散に戸口へと私を抱きかかえながら逃げだした。
そして、彼は足で蹴るようにして寝室の扉をばあんと閉めた。
「畜生!どうして蜘蛛があんなにいるんだ!おい!誰でもいい!この部屋は密閉だ!空調は完全に止めろ!穴という穴は塞げ!殺虫剤だ!とにかく殺虫剤を持ってこい!」
私をやっぱり猫みたいにして抱いている彼は、半分パニックに陥っているようでもあるが、まるでこの屋敷の王様のようにして召使達に命令を下していた。
私達が抱き合う横で、つまり、私が寝ていた部屋の隣の部屋のドアだが、バンと大きな音を立てて開いた。
そこからデトゥーラが出てきたのである。
「ハルベルト!どうしたの!ミモザに何かあったの!」
バニラ色で胸元がレースのロングスリップにグレーのガウンを羽織った姿のデトゥーラは、豚小屋で見た時と同じに真っ青な顔をして、そして、豚小屋の時と同じくらい罪悪感と脅えを目に浮かべていた。
私は自分がした事でもないのに自分のせいだと考えるらしい彼女に、なぜなのかなと首を傾げるしかなく、そして、私を騙していたらしいヒューについてはなぜなのか考える前に頭突きをしていた。
眉間の辺りを。
私はそのために床に落とされる事となったが、私を騙していた彼に仕返しをする方が大事なので全く問題ない。




