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2/22 インド人はウソつかないって話

2/22 インド人はウソつかないって話


 シンガポールからクアラルンプールを経由し、カルカッタに降り立ったときはすでに夜の2時を過ぎていた。税関を後にし、透明ガラスの自動ドアをくぐると、カルカッタ国際空港の貧相な到着ロビーが私を待ち構えていた。


 ロビーは体育館を2、3個横並びしたほどの広さで、真っ白に輝く蛍光灯が、リノリウムの床材に反射して空間を鼠色に染め上げていた。そして空港の人工臭さに抵抗するように、ガラス張りの外装はインドの暗闇がすべてを真っ黒に塗りつぶしていた。


 ガランとした殺風景なロビーと、人気(ひとけ)のなさに、居心地の悪さを覚えながらも、外の暗闇へと飛び出していく勇気も私になかった。同じ便に乗っていたインド人たちは、そのままタクシーで夜のカルカッタへと消えていったが、初めてのインドの地を踏んだばかりの私に、同じ芸当が出来ようはずもなかった。いや、初めてのインド旅行どころか、初めての一人旅ですらあった。


 そもそも今夜泊まる宿すら定めていない。こんな状態で深夜のタクシーなどに乗れば、人気のない場所に連れて行かれ有り金奪われついには刺殺されてしまうだろう…渡印初日に刺殺とは何と不憫…ニュースになって2chにスレが立って叩かれてるんだ…死体蹴りするとはなんて酷いやつら! 私の被害妄想センサーが警鐘を鳴らしていたので、この日は空港のロビーで夜を明かすことに決めた。




 ロビーの長椅子に腰を下ろして、猛烈に喉が渇いていることを思い出した。インドに到着した緊張で忘れていたが、シンガポールを発ってから六時間以上、一滴も水分を補給していなかった。


 それというのも、私が使用した格安航空会社(LCC)のエアアジアは、非常に「ケチ」な飛行機ということで有名で、飲食物の持ち込みは一切禁止するくせに、機内では水の一杯すらも有料なのだ。もちろん3ドルだか4ドルだかを払えば飲料水を貰えるわけだが、いかにも敵の術中にハマったようで気に食わない。


 だいいち金がないからLCCを使ってるわけで、水に3ドルも払ってるようでは旅行前からバックパッカーの名が廃る。そんな貧乏くさいプライドからカルカッタ空港に到着するまで喉の乾きを我慢していたのだった。


「インドの最初の買い物は水だ」

 そう心に決め売店を探し始めたところで、この国の通貨をまだ持っていないことに思い至った。両替をすっかり忘れていたのだ。乾きを訴える喉をツバでなだめながら、空港ロビーを3往復し、そしてようやく私はひとつの重大な過ちに気が付いた。


 空港ロビーの両替所はすべて営業を終了していたのである。




 やっちまった。飛行機の到着時間くらいには両替所もやってるものだと思いこんでいたし、インド・ルピーは国外持ち出しを禁じられているので、当然日本からの持ち込みもしていない。


 ピンチ。喉はカラカラに渇いているのに、現地通貨すら持っていない。どうにかしなければ…。


 インド旅行する人間の例にもれず、私は内向的な人間である。例えばファミレスで注文するときは声を上げずにそっと手を挙げ店員が近くを通りかかったときにアイコンタクトが成立する幸運を待ち続ける臆病な人間である。しかし背に腹は代えられない。




 助けを求め、到着ロビーの中心に鎮座しているインフォメーションセンターへと私は向かった。しかし、インフォメーションセンターとは名ばかりで、実際は半径1mほどの六角形の掘っ立て小屋に、2人のインド人が窮屈そうに詰め込まれているに過ぎなかった。


 深夜の仕事でやることもないのだろう、2人は退屈そうに携帯テレビをながめていた。私は意を決してそのうちの1人に話しかけた。入国審査官を除けば、これがインド人とのファーストコンタクトであった。



「あの~、両替したいんだけれど」



「オッケー」



 あまりのスムーズさに耳を疑った。しかしどうやら聞き間違いではなく、この場ですぐに両替をしてくれるのだという。両替所も開いてないのに、こんな簡単に両替ができるとは、なんというホスピタリティ! オモテナシの精神! 日本の空港でもこうはいかないだろう。


 インド人の親切心に感激しながら、私は懐から50ドルを手渡した。返ってきたのは800ルピーだった。受け取ろうとすると



「待て! ちゃんとルピーは数えたのか? インド人はすぐに金を誤魔化すんだ。こういうときはちゃんと枚数を数えなきゃ駄目だ。ちゃん8枚そろってるか?1枚…2枚…よし、8枚あるな。次からは気をつけろよ!」



 彼はこれから旅立つ若き旅行者に忠告まで与えてくれたのだ。さすが空港で働いているだけある。空港で働く人間はいわばその国の顔である。当然優秀な人間が集まっているのだろう。


 私は確かに8枚の100ルピー札を確認し、親切なインド人に重ねて礼を言い、その場を後にした。その瞬間、私が後方の空港出入り口ではなく、ロビーの売店の方へと走っていくのを彼が不思議そうな面持ちで見つめていたことに気付いたが、そのときはその意味を特に意識しなかった。




 やはり貧相な売店にて、ペットボトルの清涼飲料水と、夜食代わりのサンドウィッチを購入した。会計は200ルピーだった。


 ペットボトルとサンドウィッチを持って、ロビーの長椅子に座り込むと、私は混乱した頭で思考を巡らし始めた。レシートを見るとペットボトルで100ルピー、サンドウィッチも100ルピーとある。合計して200ルピーで、800から200を引くと600ルピーが残る。


 なるほど、たしかに計算はあっている。しかし…私の手持ちの800ルピーは、50ドルでもある。その50ドル兼800ルピーから2割を引いて得られるのがペットボトルとサンドウィッチ…10ドル近く支払って得られたのがペットボトルとサンドウィッチ?


 ここでようやく、方程式の一つに致命的な間違いがあることに思い至った。売店の店員を一瞬疑ったが、しかしすぐ目の前で会計をしてレシートまであるのに、ボッタクるというのは筋が通らない。残された可能性は一つ、両替レートが間違っていたのだ。


 私は震える手でバックパックから『地球の歩き方 インド編』を取り出すと、為替コラムのページを開いた。恥ずかしながら、私はこの時までガイドブックを熟読していなかった。というか、インドの地理すら勉強しておらず、このときようやくカルカッタの位置を知ったという有様であった。


 それに書いてあったのは、1ルピー=約1.5円が現在の一般的な為替レートという事実だった。つまり、800ルピーの価値は1000円強である。……騙された!




 『インディアン嘘つかない』なんて誰がいったのか。この国は全てがウソまみれである。私がタクシーではなく、売店に走ったときの、あの両替男の神妙な顔つきも納得がいく。もしあのままタクシーに乗ってしまえばあっちのもの、目的地についてからレートの間違いに気付いてももう手遅れだ。もしそこで手持ちが足りなければトラブルにもなったかもしれない。


 これが奴らのやり口なのであろう。ロビーに両替状がなければ、当然哀れな旅行者は彼らに助けを請いにくる。そしてトンデモレートで両替をしたらタクシー広場までエスコートしてあとはポイッ。蟻地獄のように、空港という砂漠で口を開けて獲物が飛び込んでくるのを虎視眈々と待っているのだ。


 さらにインドがテロの頻発国という事情も彼らの詐欺を有利にしている。インドの空港はテロ対策のために、出入り口のドアにはアサルトライフルを構えた屈強な警察官が警備しており、入港には航空券を求められる。当日の出発チケットがなければロビーにも入れてもらえない。

 だから、ニセ両替屋の彼らからしてみれば、旅行者を空港外に追い出せた時点でミッション・コンプリート。もはや文句の声すら届かないというわけだ。よくできたシステムである。




 しかしそうは問屋は卸さない。今回は卸させない。幸いにも空港内で詐欺のシステムに気付いたからにはこれを糾弾する義務も権利もある。つたない英語力で交渉力もロクにないし、そもそも50ドルを支払ったという証拠もない。スットボケられたら終わりであるが、しかし差額40ドルをみすみす諦めるほどお人好しではない、そのときはゲート前にいる警備員を呼んで大騒ぎしてでも回収してやる、金のこととなると意地汚いのだ私は。


 サンドウィッチと飲料水を胃に押し込むと、気の弱い私は空港を3往復してからようやく詐欺師どもへクレームを付けに行った。



「おい! さっきの両替だけど、レートがおかしいぞ。俺が渡したのは50ドルだっ」



「リアリィ~~? (室内の同僚の方を向いて) おい、ちゃんと50ドル分渡したのか? …15ドルじゃなくて50ドルだっ、フィフティーンじゃなくてフィフティ!……いやあ、手違いがあったみたい。これ差額の分ね。ソーリー」



 拍子抜けするほどあっさりと差額が手元に還ってきた。しきりにフィフティーンとフィフティを間違えたのだと弁明していたが、十中八九ウソであろう。50ドル札と15ドルをどうやって間違える。そもそも本当に勘違いしていたのなら、インド人がこうもあっさり40ドル分もの大金を手放すはずがなかった。

 クレームを予期していたからあっさり引き下がったのだ。それにしても最後まで小芝居を入れてくるのが憎々しい。


 しかし、なにはともあれ、問題は解決した。こうしてようやく、ロビーの長椅子で安心して一眠りについたのだった。…蚊だらけで全然眠れねえ!





 翌朝、私は空港横にあるバスターミナルでサダルストリート行きのバスを待っていた。すっかりインド人不信になった私は、値段も目的地も不確かなタクシーより、民間バスに乗ったほうが確実だと考えたのである。身体をヒリヒリと包み込む、熱く乾いた空気と、けたたましさを3乗にしたような尽きないクラクションが、改めてインドに来たことを実感させた。バスに乗り込むと、最後尾の椅子に腰を下ろした。財布を開く。中には2100ルピーが入っていた。


 あのときは興奮していたので思わず数えもせずに受け取ってしまったが、あの詐欺師から追加で貰ったルピーは、わずか1500ルピーしかなかったのである。換算すると約3100円。手数料、約1500円。再びクレームを付ける気力はもう残っていなかった。最後まで狡猾な男だった。




 けれどあのインド人は素晴らしい教訓を残してくれた。

「インディアン、信じるべからず」

 これからの旅路は、きっともうちょっと、慎重なものになるかも知れない。




 …ところでこのバス、行き先がヒンディー語で読めなかったけど、どこに向かってるのだろうか。

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