幸せ
ひとしきりに彼女にパンを食べさせた後、大佐は満足げに寝転びました。
また、空を見ます。
もうつい先程よりも暗くなってしまったように思えます。
隣で少女が航空機を指差して言いました。
「戦争、なんだね」
「ああ」
「どうしてみんな仲良くできないんだろう……」
肌寒くなってきたのか寝転ぶ大佐の胸にくっ付いてきました。
彼女の目には涙が浮かびます。
「でも私たちはすごいよね、恋人同士よ!」
今度は膝の上に乗ってきます。
大佐は体を起こして切り株に腰かけると、膝の上に彼女を乗せたまま、後ろから腰に手を回しました。
「恋人か」
彼女の髪が風になびいて顔にかかります。
大佐は口づけの余韻に浸りました。
柔らかい、始めての感触。驚いた顔。あの声、あの吐息。
「戦争、早く終わるといいね」彼女が言います。
戦争が終わって、もしドイツが敗北しナチスが解体されれば、収容所に関わって虐殺を繰り返した俺は、戦後の裁判で確実に死刑になる。
今殺されるか、後で殺されるか。
いずれにせよ逃亡生活が待っている。
大佐は拳銃を取り出して、戦闘機に向かって、バン、と撃つ真似をしました。
「そうだな、早く終わるといい」
「戦争が終わったらね、お嫁さんにしてくれる?」
目を輝かせます。
「お嫁さん?」
「うん!他に何も要らないから。高価な指輪も、高貴なドレスも、豪華なお家も。ただ、あなたと一緒に暮らしたいの」
夕焼けに染まる彼女の横顔がとても美しく見えます。
こんなにも美しい彼女と、自分自身とが、とても同じ人間だとは思えませんでした。
きっと彼女とは、育ってきた環境も、生まれ持った資質も、すべてが違いすぎるのだと思いました。
「……ダメかな?」
「いいや、ダメじゃないよ」
パーッと表情が明るくなるのが分かります。
「嬉しい!」と言って大佐の手をつかみ、ブンブンと振り回しました。
大佐は彼女が喜べば喜ぶほどにうつむいて、地面のほんのりと甘く香る草花を見つめていました。
どうして彼女はそんなに自分に好意を向けるのか、不思議でした。
自分にはサディズムと暗い欲望しかなく、恋も愛も知りません。
それに彼女の言うことは叶いそうにないことは分かっています。
ずっと変な夢を見ているみたいで、胸が苦しくて、喉が痛くて、粉々になりそうでした。
大佐は思います。
この戦争がずっと続けばいい。
そうでなくともドイツが勝って、ナチズムが世界に広がって、民族浄化が行われて、ゴミみたいに死体の山を消費して。
とにかくそうやって世界がこのまま混沌に落ちて、地獄のどん底から這い出せずに、この世が常に最悪なものとして存在すればいい。
そうすれば、俺の醜さは一生この世の陰に隠れ続けられる。
お前が花なら、俺は蜂でもないし、蝶でもない。お前が知る由もない「人間」だよ。
自分で種をまいて、花になるのを待って、飽きたら踏みつぶしてやる人間だ。
そんな人間のどこがいい?
「幸せ」
少女がぎゅっと大佐の左手を握って、彼女の胸に当てました。
大佐はぎょっとして目を見開きます。
「幸せよ、ほんとに。こんなに優しい人と出会えて。家族も親戚も友達ももういないけど、ローリッツさんと暮らせるならずっと生きていたい」
その言葉に大佐は肩を震わせました。
「わあ…落ち葉のベッドね」
すっかり真っ暗になってしまいました。
街灯一つない夜の森は、戦時下とは思えないほど不気味に静寂です。
ひんやりと冷たい風がほおを打ちます。
大佐は当たりに散らばる色の見えない大量の落葉をかき集めました。
二人は葉の上に横になって、一着のコートを分け合って掛け布団にします。
「寒いか」
「大丈夫。こうしてるとあったかいから」
胸に顔をうずめてきます。
大佐も彼女の体温を全身で感じました。
「見て!星が綺麗」
そびえ立つ木々の合間を指さします。
「部屋の中にいるときは分からなかったけど、こんなに綺麗なのね」
大佐には星が綺麗という感性はよく分かりません。
彼女の澄んだ瞳を通して物を見ればその美しさが分かるのだろう、と思います。
けれどもこの濁った眼球では本当に美しいものだけが見えるのです。それでいい、と思います。
「眠くなってきちゃった……」
少女が目を閉じます。
「また一緒に寝られるの……うれしいな」
むにゃむにゃと語尾を小さくしていきます。
そのあとしばらくして、心地よい呼吸音が夜空に響きました。
大佐は、自分は彼女と出会ってから、起きながらにして夢を見ていたのだと思いました。
せめて彼女だけは、ずっと夢の中で幸せでいて欲しいと、願いました。
小鳥のさえずりが聞こえます。
しとやかな寝息をたてて眠る彼女を、大佐は日が昇るまで見守っていました。
腕時計を確認してみますが、壊れてしまったのか、昨日の夕方付近の時刻を指したまま止まっていました。
「よく眠れたか、ハンス・ローリッツ」
ガサガサと枯れ葉を蹴るような音と、乾いた声。
霧の向こうから小銃を携えた男が一人、姿を現します。
ナチスの制帽に水色の制服まとう、秘密警察です。
大佐はそっと立ち上がって彼と対峙しました。
「下等人種の豚を連れまわして逃亡を図るとは……ダッハウの処刑人も所詮、人の子だったということだな」
風に転がる落ち葉のそのひとひらを狙って、ダン、と片足で射止め、大佐をまた見ます。
「"寛容は弱さの印"。と言って、部下に冷酷であれと指導をしていたのはあなたのはず」
そう口にしつつも「まあ、」と続けます。
「安心しろ。今すぐあなたをとって食おうというわけではない。あなたの場合、身分もある。ルールにのっとってしかるべき手続きをとるだけだ。そのためには大人しく我々と同行してもらいたい。もちろん、その下等人種については、絶滅処理を行うが」
大佐の後ろで、気付かずに寝ている少女を指差して言いました。
「今、寛容って言ったか?」
大佐が聞き返します。
「言ったよな? 寛容って。ふふ、寛容か」
大佐は次第に喉を鳴らして笑い出しました。
腰のベルトから拳銃を抜き取ります。
「見えないだろうが山のふもとには大勢の警察が待機している。あなたは包囲されているんだ。私を一人殺したところで……」
話の最中で、ダン、ダン、と二発の銃声がとどろきました。
その音は森の中で何重にも反響して、四発だったかもしれないし、八発だったかもしれない、というくらいに広がりました。
弾丸は、眠っている少女の頭を貫きました。
「寛容なんてあるわけないだろ?」
低い、うなるような声で男をにらみます。
そして少女の顔を軽く蹴り、ツバを吐きかけました。
「何をやってもつまらなかった。あくびの出るようなこんな人生、消えて無くなりたい……そんな風に何度思ったか。豚どもがどいつもこいつも同じような死に様だからな。毎日、毎日、何か面白いことないかとずーっと考えてた。ふふふ、そしたらこいつ、ははははは!こいつだけは!気持ちいいくらいに違った!あんなにも美しくて、純粋だったのに!最後の最後に俺に裏切られて!殺されて!花の養分になるんだね!」
続いて「彼女も、周りも、俺に騙されててバカみたいで、すごく面白い」と、高笑いします。
男は大佐の様子にあっけにとられていました。
彼らは共に一夜を過ごしていたということが、男の目にも分かります。
彼女の寝顔の様子から、それは強制されたものではなく、本当に心を許していたのだと確信していました。
「……さて、次の虐殺は何がいいと思う?ネタをくれよ」
「あなたは、本当に残酷だよ」
男は小銃を肩にしまい、曲がった制帽をかぶり直しました。
「ヤメだ。あなたの容疑はなかったことにする。ただし二度と紛らわしいことはするな」
そう言って背を向けます。
「待ってくれ、それは困る」
大佐が引き止めます。
「次の虐殺はどうするって聞いてるだろ?」
「どうもない。もう紛らわしいことだけはするな」
二、三歩くらいでしょうか。
男が歩みを進めた時、また銃声が響きました。
弾は彼の背中を目掛けて当たり、ぎゅるぎゅると体の中で回転して、止まります。
彼はそのまま血を吹いて、前につんのめるように倒れました。
大佐はゆっくりと地面を踏みしめて、男の元へと向かいます。
「一体……あなたは……何を考えて」
男はいびつなほふく前進をして逃げようとしています。
「次の虐殺はお前だ」
足元の男の頭に、銃口を向けます。
「これが一番、紛らわしくないやり方だろう?」
彼は体を裏返してこちらを向き、やめてくれと首をぶんぶんと横に振っています。
「何が怖い? お前は職務を全うしただろう。名誉の殉職だ。敬礼をしろ、ちゃんと」
男は仰向けになったまま精一杯右手を伸ばします。
その震える手を見ながら大佐は満足そうにうなづきました。
三度目の銃声が、森に響きました。
帰り血を浴びた大佐は、その足でフラフラと少女の元へと歩き始めました。
突然ポツ、ポツ、と雨が降ってきます。
とても静かで、優しい秋の雨です。
少女は目をつむったまま動きません。
頭から流れる血は雨に溶かされて、流されて、彼女の白いワンピースをキャンパスに、淡いピンク色を描きます。
風で時折、落ち葉が舞い上がります。
大佐は少女の前に座り込むと、彼女を埋めようとする鬱陶しい落ち葉を払いのけます。
彼女のとても穏やかな表情が、目に映ります。
少女の顔を見て、大佐の目から堪えていた涙が一気に溢れました。
今まで生きてきて、物心のつく頃から一度も流すことのできなかった涙です。
「ごめんな……」
喉から食いしばるような声を出します。
こうするしか、なかった。
彼女のワンピースを両手で掴んで、すがるように上半身を丸めました。
涙が止まりません。
大佐は彼女に心の中で話しかけます。
今までずっと、何のために生きているのか分からなかった。
パイロットになる夢を諦めて、空を見上げてばかりのこんな人生。毎日、消えて無くなりたいと思っていた。
でもお前は、なんでかこんな俺を受け入れてくれた。
お前と出会って初めて俺は、 生きてるって感じがしたんだ。
お前は今、本当に幸せかい。
もっとやりたいこと、あっただろう?
俺は、お前の優しさを消費するだけで、お前には嘘しかついていなかった。
何一つ……この時以外の何一つでさえ、本当のことを口にしていないんだよ……。
だから、な? その罪滅ぼしに俺も今から死ぬよ。
それに生きてたってしょうがない。
そうだろ? お前と一緒にいられないなら。
なあ、俺の最後の自分勝手を聞いてくれ。
もしも奇跡が起きて、どうかお前と同じところに俺も行けたなら、また夢みたいに出会って、今度はその名前を聞かせて欲しいんだ。
お前の名前だよ。
ずっと、ずっと聞けなかったんだ。
所長なんだよ? 調べようと思えば調べもできた。
どうせ、すぐに殺すと思っていたんだ。
俺、馬鹿だね。
でも、お前には出会えないんだ。
俺が行くのはきっと地獄だから。
死んだ後も一緒にいるのが許されないなんてね。
俺たち、違いすぎたね。
そうだ、せめて体だけは一緒にいようか。
大佐は倒れた少女のすぐ隣に仰向けになりました。
少女を抱き寄せて腕にすっぽりおさめます。
冷たい雨の中、彼女のまだ残る体温が心地よく感じます。
軽く、彼女の唇に口づけをします。
降ってきた雨で、彼女の頬には雫が伝っていきました。
泣いてくれているのか……?
そうか。お前は、まだ眠っているだけなんだね。
だってこの顔、今にも目を覚ましそうじゃないか。
それなら、俺もこのまま一緒に寝ようか。
もう一度、二人で同じ夢を見よう。
まだ温かい彼女の手にピストルを握らせて、その上から自分の手でかぶせるよう握ります。
さあ手を繋いだよ。
俺をそこへ連れて行ってくれ。
そのまま、自分の頭に銃口を突きつけます。
これでやっと、眠ることができる。
「おやすみ」




