迫害
秘密警察の人間はもう見えなくなりました。
ハンドルを握りながら、気になってチラッと少女の方を見ます。
彼女もこちらを見ていたのか目が合いました。
大変なことになってしまった、とでも言うような青ざめた顔をしていました。
「確か、近くにユダヤ人の村がある」
大佐は言います。
「そこに行けば助けてもらえるかもしれない」
無駄だと思う。
自分が身を置いていたのだから痛いほどわかる。
第三帝国からは逃れられない。
ユダヤ人と反逆者は徹底的に捕らえられ、死ぬより酷いことをさせられて殺される。
現に俺は今までそうしてきた。
「ローリッツさん」
目を真っ赤に腫らした少女が、首を横に振ります。
「そんなところに行ったらローリッツさんが大変よ……?」
どこに行ったって望みは薄い。
「いいんだ。口答えするな」
田園風景の広がる山奥まで来ました。
ごくごく小さな集落。その入り口に車を止めます。
一旦車の後ろに回り、トランクからコートを取り出しました。ウール製の黒いロングコートです。
男性サイズのそれは少女には大きすぎましたが、大佐は有無を言わせずに羽織らせました。
「ありがとう」
続いて「やっぱり優しいね」と少女が口にします。
彼女の汚れのない純真な心と、優しさを演じる自分。
収容所で出会った時から、何一つ変わっていない気がしました。
大佐は彼女の袖からわずかに見える手を掴み、村へと入って行きました。
村はしんと静まり返っていて、住人の姿は一人も見えません。
しかし廃墟というわけではなさそうです。
庭の手入れは行き届いており、ツタや雑草の生い茂るような状態とは無縁です。
大佐は一番近くにあるログハウス調の家に向かい、ドアをノックしました。
「助けてくれ、ユダヤ人の少女を連れてる。かくまってくれないか」
声を張り上げます。
しばらくしてから、
「なんですって?今開けるわ」
ドア越しにそんな声が聞こえた後、若い大人の女性が鍵を開けて出てきました。
「一体どこから……きゃあ!?」
女性は大佐を見るなり驚いて、後ろへ吸い込まれるように体を戻しました。
いくら取り繕おうと、華美で大仰な装飾と勲章をまとう黒服は隠しようがありません。
当然、死神でも見たかのような扱いです。
大佐は後ろに隠れる少女の腕を掴んで、突き出すようにドアの前へやりました。
「1日だけでいい。中に入れてくれ」
「お願いします。本当に困ってるの」
少女も懇願します。
女性は傷だらけの少女を目にして、更に動揺した表情を見せました。
「俺は丸腰だし一人だ。お前を傷つけたりしない。頼む」
「……ほかを当たって。私の旦那はあんたたちに反抗して殺されたんだから」
バタン、とドアが閉められました。
こちらが下手に出たのをいいことに。
舐められた、と大佐は思いました。
ドアが開けられたときに、四の五の言わずに強引に押し入ってしまえば良かったと。
収容所では、自分の言うことを聞かない囚人には好きに凌辱を与えることができたので、行き場のない暴力的衝動が、カサブタの中でくすぶる膿のように大佐の中でぐるぐるしました。
「ローリッツさん」
少女がすっと真横に来ました。
大佐の固い握りこぶしを包むようにして、手を握ります。
「大丈夫よ、別のお家に行ってみましょ」
その時でした。
「私の息子を返しなさいよ!このケダモノ!」
「ナチの犬め。今更何をしにきた。また人間のおもちゃを探してるってわけか?クズ野郎!」
怒号が響き渡りました。
後ろを振り返ると老齢の村人たちが、怒りの形相で集まっています。
五、六人はいるでしょうか。
一人の親衛隊員が武器を持たずに村を歩いていると知るや否や、家から飛び出して来たのでした。
「こいつもこんな忌々しい服を着せられて……」
一人の老人が前に出て、少女が羽織る親衛隊コートを引っ張ります。
「やめて!」
「彼女はナチじゃない。ただのユダヤ人だ」
一歩前に出ます。
「俺の仲間がじきに殺しにくる。頼む、彼女だけでも家に……」
そう言いかけた時、村人の一人が背後から、手に持っていた棒で大佐の背中を殴りつけました。
「ローリッツさん!?」
少女が叫びます。
ゴン、と地面に鈍い音をたてて顔面から倒れた大佐に、村人たちが一斉に取り囲みます。
「息子を!返してえ!!」
老婦人が顔をしわくちゃにして叫びながら、立ち上がろうとする彼の背中を叩きだします。
周りの村人たちもそれを皮切りにして、一斉に殴る蹴るなどの暴行を加えだしました。
「ダメ!やめて!ローリッツさんは違うの!ダメ!ダメ!!ああ!」
少女は必死で間に入って大佐を庇おうとしますが、邪魔だと言わんとばかりの勢いで弾き飛ばされてしまいます。
彼らにとって、本当にローリッツ大佐が彼らの家族を殺したかどうかは関係ありませんでした。
黒服と、ハーケンクロイツと、髑髏大隊のカフに特徴づけられる悪の象徴。
それだけが彼らに復讐を許しました。
「待て、あれは何だ?」
しばらくして、一人の村人が村の奥の方を指をさしました。
少女は目を凝らしました。
遠くで、大佐と同じような格好をした男たちが車から降りてくるのが見えます。
「逃げろー!」
村人たちはそれに気付くと一斉に散り散りになってそれぞれの家へと戻っていき、大佐の元を離れました。
やってきたのは秘密警察でした。
大佐は膝をついて立とうとしながら、噛んだガムを吐き捨てるように、口に溜まった血を吐き出しました。
「ローリッツさん!」
少女が駆け寄ります。
大佐の顔中に青アザが見えます。しかし老人の力です。致命傷にはなりませんでした。
「まずい……早く車へ」
「ダメ!あっちからも来てるの!」
元来た道を見ます。
大佐の車のある方からは、すぐ近くで男二人がライフル銃を持って歩いていました。
囲まれた、と大佐は思いました。
その時でした。
ガチャン、と近くのログハウスの家のドアが開けられました。
「あんたたち、これを持って!森の中へ!早く!」
先程家に入れることを拒んだ、若い女性です。
大佐と少女の様子がおかしいので、気になったのでしょう。
彼女の手にはバスケットケースと拳銃がありました。
大佐はなんとか立ち上がります。
「最初から渡せばいいんだ」
奪い取るように荷物を受け取ります。
大佐に向けられる女性の目には、混濁した葛藤の色が映し出されていました。
「いたぞ!裏切り者だ!」
兵士の声が響き渡りました。
車はもう、取りに行けません。
大佐は少女を抱えて、一目散に森の中へと走りだしました。
顔に木の枝が擦れて刺さるのも構いません。
ひたすら走って走って、とにかく走って、急勾配の山を登りました。
「どいつもこいつも俺の邪魔を!」
大佐の声が森の中に響きます。
「俺がこの世にいることをみんな憎んでやがる!」
「ローリッツさん…!」
腕の中で揺れる少女が涙ぐみます。
その瞬間、木の根に足を引っ掛けてしまいました。
前へ、肩から転びます。
少女は大佐の腕から吹き飛ばされ、目の前に転がりました。
「クソが……!」
口の中に土が入って咳き込みます。
血の味か、土の味か分かりません。
「ローリッツさん大丈夫だよ、後ろを見て!誰もいないよ」
倒れたままの状態で後ろを見ます。確かに憲兵などの姿は見えません。
遠くの方からライフルの銃声が聞こえました。
しかし本当に遠くで残響のようにこだましているので、こちらに向けられたものではないようです。
大佐は口に溜まった血をもう一度吐き出しました。
俺は馬鹿なのか。
逃げても無駄だ。それは分かっている。
頭では分かっているのに、こんなに必死になって、一体何をやっている?
少女が倒れたままの大佐の元へと駆け寄ります。
膝をつき、まだ半乾きのワンピースの裾をタオル代わりに、彼の頬や額へ軽く押し当てて拭いました。
「傷だらけ……」
「お前もな」
そう言って彼女の腕を掴んで、自分が切りつけた手のひらを見ます。
「お願い、私より先に死なないで!」
「別に死にはしない」
「ずっと一緒にいたいの!もう村に行ったりして私だけ助けようとするのはやめて!ローリッツさんが殺されちゃう!」
肩を揺さぶります。
彼女の涙が頬を伝い、かぶっている制帽にポツっと落ちました。
大佐は無言で眉間にしわを寄せ、空を見上げました。
「だめ、こっち見て!どうして目をそらすの?」
その優しさと健気さに吸い寄せられそうになるから、無理やりにでも目を離して、自分を保とうとしていました。
今まで生きてきて身に付けた、彼自身の「やり方」を否定しないように。
大佐は脚を震わせて立ち上がりました。
木々の間から見える空はもうじき夕暮れを知らせるように、淡いオレンジが滲んでいました。
「お願いよ……私を一人にしないで」
ボロボロと泣いて地面の落ち葉を濡らします。
「あなたがいないと……ん!」
大佐は彼女の顎を持ち上げて、漏れ出す声を塞ぐようにキスをしました。
少女は驚きますが、後に力を抜いて大佐に身を委ねました。
二人の間にだけ、森の中で秘め事のような吐息が響きました。
「ずっと一緒にいよう」
名残惜しく糸を引いた後、大佐の口から出た言葉に、少女は足をバタつかせながら彼の胸に顔をうずめました。
だいぶ日が暮れてきました。
大佐は歩き疲れて、低い切り株を枕にして地面に寝転びました。その暗く、燃えるような目で、朱く染まる空を仰ぎます。
この時間でもなお、東に向かう航空機がせわしなく飛んでいます。
「お腹空いたね」
少女も隣に来て寝転びます。
そういえば、バスケットカゴを受けとったのを思い出します。
大佐はその編み込みのカゴのフタをとりました。
「わあ……!」
中から、小さなロールパンが二つ出てきました。
「優しい人もいるのね」
少女がニコニコしてこちらを見ています。
大佐はその顔をチラリと見た後、「一口だけちょうだい?」と彼女が言い終わる前に、パンを一つ、二つ、と全て口に含みました。
彼女が、見るからにしょげているのが分かりました。
「うん、うん、大丈夫。ローリッツさんもお腹すいてるんだから。私はずっともらってばっかりだったし……ん!」
大佐はまた、口づけをします。
それもただの口づけではありません。
彼が咀嚼したパンだったそれを、舌を使って彼女の中へ押しやりました。
みるみると紅潮する彼女の顔が見えます。
大佐はほおの筋肉を片方あげて、笑みを浮かべました。
地面の落ち葉は黄色ばかりで、色彩に欠けるドイツの紅葉も、燃える西日と彼女の火照った顔の鮮やかさが映えるので、これも悪くない、と大佐は思いました。




