雨
「別荘ってどこにあるの?」
辺りに何もない森の奥深く。
二人は傘もささずに立ち尽くしています。
バケツをひっくり返したような激しい雨で地面はぬかるみ、彼女の声はその雨音にかき消されそうなくらいひ弱に響きました。
「寒いよ」
すがるように温もりを求めて腰に腕を回してきます。
そんなもの、彼にあるわけないのに。
大佐の黒服と彼女の純白のワンピースが、けもの道の上で二人を分かつように鮮やかに引き立ちました。
「ずっとこうしていたい……」
胸にほおをあてて目を閉じる少女。
「……このままここに、ずっと一緒に」
ずっと一緒。
その言葉に大佐は「心配いらない」と言って微笑みます。
「お前は俺の心の中に、永遠に生き続けるよ」
「……え?」
その時ピカッと辺りが明るくなりました。
雷鳴とともに照らし出されたのは、こちらを見上げる不安げな表情。
途端に大佐は少女の腹を思いきり蹴りつけました。
かはっと声にならない音を喉から出して、華奢な体が大佐の手元を離れます。
そしてそのまま勢いよく地面へ倒れました。
「な、なんで……うぐ!」
なんとか起き上がろうとする少女の顔を片足で踏みつけます。
「好き?愛してる? 一緒にいたい? ふっ、正気かお前」
「なんで……」
「俺を誰だと思ってる?あのドクロマークの親衛隊だぞ。ユダヤの豚などなんの見返りもなしに助けるとでも思ったか?全部お前を無残に殺すための芝居だ」
「そんなわけ、ない!ローリッツさんは……うっ!」
「まだ信じてるのか。かわいいな」
グリグリと足を沈めます。
「う、ああ、やめて……!」
自分の足の下で魚のようにもがく少女の様子に、大佐は身震いしました。
雨に濡れた服や髪が彼女の白い肌へと吸い付き泥にまみれ、妙になまめかしく見えるのです。
素晴らしい。
ここまで良いとは。
人の絶望を感じるのが、ここまで良いとは。
やはりこの計画は間違っていなかった。
横たわる少女に馬乗りになり、その美しい顔を一発、殴りました。
口から血を流しています。
それでもなお、すがるように彼の腕を掴んできました。
「そうか……まだ分からないのか」
大佐は腰から短剣を取り出しました。
「これで分からせてやるよ」
そう言うと少女の左手を押し付けて固定し、小さなその手の平に短剣の刃先を滑らせました。
「いっ、いや!」
刃先と手の平の間から鮮血が滲み出て、雨に流されていきます。
痛みにじたばたと動く少女を足で挟むようにして抑えつけて更に刃を深く落としました。
彼女の目には涙が浮かび悲鳴をこらえるように口に力を入れていますが、我慢出来ずに声が漏れます。
「あぁ! い、い、ああっ!!」
彼女の純白のワンピースが血と雨に濡れ、水彩絵の具のようにじんわりと紅く染まりました。
自分が動く度に喘いでは体をびくびくさせている彼女。
心地よい背徳感に包まれます。
すごく楽しい。
絶命……絶頂にまで陥れるまでの間、今度はどこをどうしてやろうか。
彼女の顔と体を舐めるように見ながら考えます。
少女は後に力無くぐったりとして、ただ大佐を虚ろな目で見つめていました。
これはきっと信じていたものに裏切られ、絶望の淵に追いやられた光のない瞳。
大佐は初めて見るその瞳孔に惹きつけられました。
彼女はこんな表情をするのか、と。
短剣を喉元に近づけます。
その時、何やらきしむような轟音が鳴り響きました。
雷の音ではありません。
灰色の空を見上げると、この雨の中、数十機の航空機が列を成して頭上を通過していくのが見えました。
爆撃機です。
ドイツの急降下爆撃機、Ju 87 シュトゥーカ。
大佐は少女にまたがったまま東の空へと向かう機体たちを眺めました。
奇襲だ。
今頃慌てふためいているのだろう。
こんなはずではない、とうなだれているのだろう。
いい気味だ。
平和ボケした人間はいずれ馬鹿を見る。
「ローリッツさん」
痛みに震えていた少女が、消えそうな声で話しかけました。
「飛行機、好きなの?」
「飛行機じゃない。あれは戦闘機だ。ポーランドを木っ端微塵にするドイツ空軍の戦闘爆撃機」
「そっか、好きなんだね」
いきなりなんだこいつは。
ここにきて殺されまいと俺の気を引こうとしているのか?
そんなことをしても無駄だ。
「それで、いつも泣きながら空を見上げてるのね」
「泣きながら? 何を言っている」
「だって、すごく、悲しい目してるから……」
ふざけてるのか。
自分の顔に流れるのはこの鬱陶しい雨だ。
ふと横に目をやると、水たまりに写る自分の姿がぼんやりと見えます。
「出会った時から悲しい目してる人だと思ってた」
違う。
「本当は、寂しかったのでしょ?」
違う。
「だから、私を部屋にかくまってくれたんだよね?」
「違う!!」
怒鳴り声が一瞬雨音を遮りました。
「言っただろ、 俺は最初からお前を殺すつもりだった、殺すつもりでお前をかくまったんだ! まだ分からないのか!?」
少女の服の襟元を掴み、頭が浮くほどに持ち上げます。
「いい加減分かれよ!」
濡れた彼女のほおをバシンと叩きました。
「それにもっと嫌がる顔をしろ! 泣いて叫んで命乞いをしろ! 嫌いだろ? 嫌えよ! 嫌えって!」
激高する大佐に少女はゆっくり首を横に振ります。
そして両腕を大佐の腰に回してくるのです。
「……何の真似だ」
「それでもあなたが好き」
口の中に水が入るのか、何度か小さな咳払いをして、少女は再び口を開きました。
「あなたになら何されてもいいの……世間が私たちの仲を許してくれないのなら…私といることであなたに迷惑がかかるなら、あなたに殺されていいと……そう思ったの」
困ったような微笑むようなぼんやりとした顔。
大佐はその顔を睨みつけながらも言葉を失いました。
「トラックにすし詰めにされて……逆らった家族も殺されたわ。本当につらかったのよ?だからあなたに助けてもらえて本当に、嬉しかった……!」
腰に回す腕をぎゅっと更に強めます。
「痛いのは嫌。でも他の残酷な人に殺されるのはもっと嫌」
「……!」
「殺して」
殺して。
その言葉を聞いた瞬間、自分のいるこの世界からあらゆる音が消えました。
耳の奥が詰まったように。
時が止まってしまったのかのように。
「あなたと一緒に居れないなら、生きてたってしょうがないじゃない……」
そこにはただアザだらけの少女の涙ぐんだ顔だけが見えました。
「最後はあなたの腕の中で」
少女は目を閉じます。
大佐は持っていた短剣を逆手に持ち変えると、彼女の首筋に刃先をあてました。
浅く皮に当たって微量の血がたれていくーー
その痛みに恐怖を感じるのか、目をギュッとつむりしがみついてきます。
大佐は彼女の首元から流れる血を目で追いました。
水滴が大佐の顔を伝い、人形のような少女の顔へポツポツと流れ落ちます。
「なんで……」
ドスっと鈍い音とビシャっというかすかな水音。
少女は身を固くしましたが、短剣の刺さった先は水たまりの地面でした。
どうして。
大佐は目を見開いて固まりました。
短剣を持っていた左腕が目的を見失ったかのように震えだします。
今まで散々殺してきたじゃないか。
「助けてくれ」「殺さないでくれ」
そうやって俺に恐れをなすユダヤ人どもをなぶり殺すのが楽しくて、躊躇などなかった。
それなのに俺は今、「殺してくれ」と懇願するこの女を、ただナイフの一本で、その首をきざむことすらできなかった。
頭を抱えて辺りをきょろきょろと見回す大佐に、少女は不思議そうに目を開けました。
地面に刺さったナイフの刃に映る彼の顔は怯えて見えました。
「ローリッツ、さん?」
精一杯手を伸ばし、彼の頬に手を触れます。
ひたっと冷え切った彼女の手のひらに包まれて、大佐はまた動けなくなりました。
「俺に……触るな」
震える腕で抗うように少女の細い手首を掴み、強く払いました。
「やめろ」
「ご、ごめんね?」
じっと少女を見ます。
顔にアザを作り、口から、首から、手のひらから血を流し、服を真っ赤に染めた彼女を。
そしてそんな状況でもなお純朴に輝くその瞳と目が合った瞬間、だめだと思い、歯を食いしばって目を逸らしました。
「お前のせいで俺はおかしくなった…こんなことになるなら、出会ったあの時に殺しておくべきだった……!」
地面に刺した短剣を手に取り、何度も地面の同じ箇所を刺します。
跳ねた泥水が彼女の顔を汚しました。
「ごめんね、ごめんね」
少女はずっと心配そうな顔で無抵抗に謝るだけ。
どうしてこいつはそんなに。と、その態度に余計、苛立ちました。
一体この5日間何をしてきたんだ。
ここで殺せないなら、単に自分を犠牲にして人助けをしただけじゃないか。
これじゃあ優しい人間だと言われて、返す言葉が見つからないだろ。
またがっていた少女の上からなんとかおりて、立ち上がります。
彼女を婚約者だと説明しているのだから、今から彼女を収容所に戻すなんてそんなことはできない。
ここで殺すしかなかったんだ。それしかなかったのに。
計画も、仕事も、何もかも全てが台無しだ。
俺は、どこに行けばいいんだ。
「終わったんだ」
空を見上げて言いました。
気付けば雨は弱くなっています。
「私、またあなたに生き延びさせられたのね」
仰向けで泥水に浸かったままの状態で、そのまま少女も空を仰ぎました。
「ありがとう」
こちらを見上げて微笑みます。
雲の切れ間から朝日が差し込んで真っ白で、彼女からは彼と空が一緒に見えました。
大佐は思います。
最終的に地獄を見たのは彼女ではなく自分の方だった。
混乱して、叫んで、こんなはずじゃなかったと後悔したのは、自分だった。
これは残酷すぎる自分への報いなのか。天罰なのか。殺された者達の復讐なのか。
しばらくの間、暗い陰を帯びた雲達が西の空へ去っていくのをその目で追いました。
足元を見ると少女は体中怪我をした上に長時間水に浸かっていたからか、衰弱しているのでしょう、動けなくなっていました。
「クソが」
少女の腕を引っ張り上げて立ち上がらせようとします。
服に水分を含んでいるからかやけに重く、ぶらぶらと足がおぼつきません。
「ふざけるなよ、ちゃんと立てよ」
「ごめんね、ダメみたい」
なんとか、大佐を支えにして立つ状態になりました。
雨はあがっています。
少女は彼の胸に頬をべったりつけて目をつむりました。
彼女を突き飛ばしたり、ののしる気力ももうありません。
こんなのは自分じゃない、と大佐は思いました。
いっそのこと死んでしまおうか。
そうだ、楽になろう。
だって、すでに死んでいるようなものだろう。
かつての自分はどこにもいない。
地位も、名声も、自尊心も。
なくした俺には何もないんだ。
少女に気付かれないようゆっくりと、太ももにあるホルスターから拳銃を取り出し、銃口を頭に突き付けるーー
硬い感触が頭蓋骨をコツンとノックします。
「ローリッツさん」
目をつむったまま少女が言いました。
「なんだ」
「お腹空いちゃった」
「俺は疲れた……眠たいんだ」
引き金に軽く指をかけます。
「そう……。じゃあ今日も一緒に寝ようよ? またいつもみたく」
「一緒に?」
「うん、一緒に」
一緒に。
手が震えました。
「ねえ、仲直りに……抱きしめて?」
引き金が、引けない。
そのままピストルは手から滑り落ち、パシャっと音をたてて水溜まりの中に落ちました。
「今のは……あっ」
空いた両手で、少女のやせ細った体をきつく抱きました。
ぐしゃぐしゃで、冷たく、凍えそうな体でした。
「あったかい」
大佐は心底くだらないと思いました。
収容所も、自分の人生も、命も。
もうどうにでもなればいいと思いました。
ただ、彼女の何度見たかも知らない涙ぐんだ笑顔だけがそこにありました。
「奴らこんなところにいると思うか?」
それからどれくらいの時間が経ったのでしょうか。
遠くから微かに声が聞こえました。
少女を抱いたまま前を向くと、道の遠くの方で、二人組の男が歩いてくるのが目に映りました。
「逃げるならもっと遠くに行くはずだからな。まあ適当に散歩したらさっさと別の場所を捜そう」
青緑色の制服と、ガラの悪そうな話し声。
秘密警察です。
ナチスからの逃亡者や反逆者、裏切り者は彼らによって暴力的取り締まりを受けており、収容所へのユダヤ人の強制連行も彼らの役割でした。
大佐も、彼らと一緒に働いていました。
「しかし、あの男がそんな心変わりをすると思えないな。ダッハウでユダヤ人どもを受け渡した時に見たんだ。奴の目を。あれはまるで……」
大佐は彼らの話を最後まで聞くことなく、少女を抱きかかえて車へと急ぎました。
「ローリッツさん?」
驚く様子を構わずに、すぐさま助手席に彼女を放り込み、エンジンをかけてアクセルを踏みました。
ナチス党員や親衛隊員の反逆行為でさえ、彼らの取り締まりの範疇です。
大佐は確信しました。
奴らは自分を探して殺そうとしているのだ、と。
そして自分のしてきたことを省みれば、殺人、国家反逆罪、ユダヤ人逃亡扶助。
いずれも少女を殺せば疑いの晴れることでしたが、それができない以上、無実の証明はできません。
車を走らせながらバックミラーを見ます。
「どこに行くの?」
行く宛など、ない。
「ずっと遠くへ」




