決意
「ローリッツさん、おつかれさま」
少女は笑顔で大佐の帰りを出迎えます。
大佐は彼女に軽くうなずくとソファに勢いよくもたれかかりました。
大佐は殺した科学者の扱いをどうしようかとか、彼の後任をどう調達しようかとか、そういったことばかりに頭を巡らせていました。
「こんなに遅くまで…何か、あったの?」
少女が隣に来て顔を覗き込みました。
「いいや、何もない」
ぶっきらぼうに返事をする大佐に、少女はその薄緑色の澄んだ瞳でじっと大佐を見つめました。
そして時折困ったような表情を浮かべています。
「ごめんなさい、私のせいで」
そう言ってうつむきます。
「どうかしたのか」
「私のせいで余計な仕事、増やしてるのよね…?ごめんなさい。」
少女は悲しげな表情から、ついには涙を流して泣き出しまいました。
「そんなことはないよ。お前のせいじゃない。」
床に泣き崩れる少女の肩を抱いて、頭を撫でます。
それでも一向に泣き止む様子はありません。
出会ったときからよく泣く女だなとは思っていました。
しかし、様子がおかしい。
人を殺していることが少女にバレているのだろうか?
彼女をかくまうために科学者を殺害したことが?
いや、それならまだいい。
俺に殺されることに感づいていたりするのだろうか?
そう考えるといてもたってもいられません。
だとするとそのうち本当に彼女に逃げられるかもしれない。
そうでなくともこれでは殺す意味がなくなってしまう
こんな悠長なことはしていられない。
早く、少女を殺さなくてはならない。
大佐は焦りました。
部屋にある、かつて少女が隠れていたクローゼットの中を探します。
そして奥の方から女性ものの洋服を取り出しました。
白いシンプルなワンピーススカートです。
大佐は少女を殺す際には外でやると決めていましたので、目撃者から、「親衛隊とユダヤの囚人が出歩いている」と不審に思われることをできるだけ避けるため、囚人服ではまずいと判断してのことでした。
「他の囚人の私物だったものだが、お前に似合うと思う。その囚人服は脱いで、これに着替えろ。」
「く、くれるの…?」
少女は涙を拭って満面の笑みを浮かべました。
「ありがとう!」
正直なところ、人の信頼というものがどういうものか大佐にはよく分かっていません。
けれども彼女の屈託のない笑顔を見ると、少し安心して、そんなに焦る必要もないかもしれないとも思いました。
しかし、何にせよ明日には殺すと決めました。
これ以上同僚に手を出して警察に逮捕されるのは避けたいし、体も限界です。
「今日はもう遅いからもう寝るんだ」
着替えの終わった少女をベッドに促して、大佐も寝転びました。
少女がベッドに入ってこちらを向く瞬間、またどこか悲しげな表情をするのを大佐は見逃しませんでした。
早朝、ドイツ空軍がポーランド本土への爆撃を開始したとの連絡が入りました。
ついに戦争の始まりです。
くそ、こんな時に…
大佐の部屋の外からガヤガヤと話し声がして、収容所内は朝からその話でごった返しているようでした。
大佐は、みながまだ寝静まっている時間に計画を実行しようと考えていましたから、このような状態では彼女を外へ連れ出すのがためらわれました。
予想外だ、どうする。
少女はまだスヤスヤと眠っています。
焦ってはいけない。
けれどもこれ以上かくまい続けても意味はない。
ラジオからはドイツのポーランドへの侵攻を告げる放送が流れてきました。
軍歌のBGMをバックに、部屋にジンジンと響きます。
意気揚々としたアップテンポの音楽。
「ん…何?何の音?」
大佐はバンっと勢いよくボタンを押してラジオを止めました。
「…何でもない。起こしてしまったか。」
「ううん…大丈夫。どうしたの、こんな時間に」
もう、やるしかない。
我が国ドイツの聖戦は、他でもない俺が待ち望んだこの日のために行われているじゃないか。
それに今日じゃなかったら一生できなくなるかもしれない。
だってそうだろ。
戦争が始まったらこんな収容所、いつなくなったっておかしくないのだから。
「なあ、落ち着いてよく聞くんだ。」
「……?」
「ここの森の奥をずっと進んだところに、俺の別荘がある。」
大佐はまだ寝ぼけたような顔をした彼女の肩を掴み、小声で言いました。
「お前を今からそこへ連れて行く。」
「ど、どうして?」
「俺はこれ以上お前の面倒は見れない。俺のことは忘れて、そこで暮らすんだ。」
「え…?」
「他のユダヤ人たちがすでにその辺りに暮らしているから、生きていけるだろう。」
これで喜んで納得する。
大佐はそう思っていましたが、彼女は話を聞いて喜ぶどころか昨日よりもまして悲しい顔をするのです。
そしてまた大粒の涙を流しては俯きました。
やはりこいつ、これから殺されると分かっているのか?
大佐は彼女の反応にモヤモヤしましたが、もう気にしていられません。
制帽をかぶり、手袋をつけ、ブーツを履いて支度を整えると、すぐに少女の手を引いて部屋を出ました。
これから殺す人間のことなどどうでもいい、と言い聞かせながら。
「おはようございます、大佐」
右手を前に突き出してナチス式敬礼をする部下たちに、軽く手を上げます。
「あれ、どうしましたその子は」
大佐の後ろに隠れている少女を指差して言いました。
「総統閣下から緊急のお呼び出しがあった。戦争も始まったようだし、おそらく武装親衛隊の編成にかんすることだと思う。それでついでにこの少女を連れて行くことになった。」
「というと?」
「俺の婚約者だ。紹介しろと頼まれたんだ。」
「はあ、なるほど」
「今日中には戻れると思うが、それまで俺の仕事をよろしく頼む」
そう言って大量の書類を部下に押し付けると、ツカツカと外へ向かって歩いて行きました。
「参ったな……いくらなんでも急すぎる。」
大佐と少女が見えなくなった後、部下は書類に目を通しながら頭をかきむしりました。
ようやく、やっと、ついにだ。
ついに待ち望んだ芸術のその美を堪能できる。
車の助手席の上に散乱したガラクタを整理しながら大佐は思いました。
今までこの5日間、嘘を嘘で塗り固めて、人を変えてまで彼女に天国を味わわせてやった。
次は地獄だ。
色々無理が生じて少々強引なところもあったりはしたが…。
まあ大したことはない。
どの道こいつを殺してしまえば俺は、結局いつもの俺ということになる。
殺して、死体を処理して、何食わぬ顔で収容所に戻れば周りに何か言われることはもうない。
少女をかくまっている間は、彼女に気をつかったり他の奴に殺されないようにしたりで精一杯でしたが、大佐はようやく今、当初のモチベーションを取り戻しつつありました。
整頓を終えると早々に少女を助手席に乗せて、アクセルをぐっと踏みました。
もちろん彼の別荘などは存在しません。
ただただ、どこまでも続くかのような鬱蒼とした人気のない森の中へと車を走らせました。
「雨、降ってきたね」
これまで黙っていた少女が、俯き加減で言いました。
ウィンドウ越しに空を見ると灰色の雲が静かにはり出していて、降ってきた雨が視界をにじませます。
そのせいか、薄暗い森がいっそう暗く見えました。
「あ、あのね、ローリッツさん」
「なんだ」
「あの…ね、私ね…」
もったいぶったその喋り方に、最後まで面倒な女だな、と思います。
ちらっと横を見ると、顔を真っ赤にして息を荒げていました。
「熱でもあるのか」
「ううん、そうじゃなくて、そうじゃ…なくて」
彼女の言葉を待ちます。
「…好きなの」
「なんだって?」
「あなたが、好き!」
車内に彼女の絞り出すような声が反響しました。
「愛してるの!本当に!」
好き。愛してる。
突拍子も無い言葉に、大佐は急に昨日食べたものを吐き出しそうになって、思わず手で口を押さえました。
こいつは頭がおかしいのか。
いや、俺を動揺させようとたくらんでいるのか。
愛なんて無縁だったし、好きだなんて言われたのはいつのことだったでしょうか。
大佐は人に愛されたと感じたことは、これまでの人生で一度もありませんでした。
思い返すと警察官の父親を持つ彼は、小さい頃から両親の過度な期待もありましたし、言った通りにできないと見放されるか、虐待を受けていた記憶しかありません。
そしてこれからも無縁のままで良いと思っています。
お陰で余計な感情に惑わされずにここまで昇進できたのですから。
「ごめんね?急に変なこと言って…」
少女は続けます。
「いつか絶対、別れなきゃいけない日が来るって思ってた。でもね、私、あなたと離れたくない。だって私はあなたなしでは生きられないんだもの…」
まるで車酔いのような感覚。
「お願いよ、そばに置いて…私、そのためならなんでもするから……!」
「…だめだ。」
「!」
「俺たちは一緒にはいれないんだ。分かるだろ」
嗚咽をあげて号泣する声を聴きながら、ぐっと唾を飲み込みました。
彼女の悲しみに呼応するかのように雨が激しく車の窓を叩きつけます。
「降りるぞ。」
ブレーキをかけ始めた時に膝にこぼれた彼女の大粒の涙が、大佐の目に焼き付きのように残りました。




