煙
少女をかくまう生活を続けて4日目の日のこと。
大佐はいつものように仕事を終えると、少女の待つ自分の宿舎へ戻ろうとしました。
「ローリッツ大佐、大変です!」
その時、一人の部下が滑り込むようにして目の前に飛んできました。
「何事だ。」
「脱走です!収容所の外へと囚人が脱走しました!」
またか。
はあ、と大佐は大きくため息をつきました。
ことごとく無能な警備。
親衛隊員の中で本当にやる気があるのは自分だけではないのか。
世の中に無能が蔓延るこの環境のお陰で、俺は27歳の若さで大佐の地位まで上り詰められたのだろうか。
大佐は呆れて物が言えませんでした。
「さっさと見つけて始末しろ。脱走したばかりならまだこの辺りにいるだろう。」
「はい、分かりました。」
虐殺のない収容所には1秒たりとも居たくはないのに。
こいつらはいつもこうやって俺に手間をかかせる。
大佐は苛立ちながら、ぶつくさと収容所の方へ引き返しました。
「いたぞ!逃すな!」
収容所を警備している人員が、庭をかけていく囚人の一人を見つけました。
ライフル銃を持った彼ら複数が続々と収容所の高台へ配置につきます。
大佐は収容所の窓からその様子を遠巻きに眺めました。
「女だ!」
狙いを定める警備の一人が叫びます。
女。
大佐はふと、嫌な予感が頭をよぎりました。
「待て! 撃つな、やめろ!」
けれども騒ぎに掻き消されて大佐の声はちっとも届きません。
無慈悲にも、その場を支配したのは銃声と薬莢の転がる乾いた音。
その弾丸のいくつかが彼女の腹部と脚を貫きました。
そんな…
外へと通じるドアを開け、夢中で中庭へ飛び出します。
台無しじゃないか。
大佐にとってただの銃殺は無でした。
あっけなく、つまらなく、相手に慈悲を与えるようなもの。
せっかく育んだ二人の愛情をその程度の殺し方で無駄にすることは耐えられない。
お前、なのか…?
女は地面に血だまりを作りながらうつ伏せに倒れていました。
大佐が建物から出てきたので、部下の隊員たちと警備員達が銃を下ろして後ろに並びます。
倒れこんだ囚人を足でめくるように裏返す。
大佐は、ほっと肩を撫で下ろしました。
そして女の顔をブーツの足で思い切り蹴りつけました。
くそが、紛らわしいんだよ。
囚人は中年の女で、髪のなびく後ろ姿は少女とそっくりではありましたが、顔は全くの別人でした。
「虫がたかる前にさっさと焼いておけ」
そう部下たちに指示すると、大佐は早々とその場を後にしました。
バカみたいだな、ホントに。
結果的には本当に少女を気にかけているように思われても仕方がない自分の行動に、後から大佐は吐き気を覚えました。
たとえ演技でも、殺す時の喜びのためでも、他人の命を案ずるという行動自体が気持ち悪くて仕方がありません。
収容所のトイレの手洗い場で、鏡に写る自分の目のクマに気づきます。
彼は、他人と一緒に寝るなんてことも、本当はできないのです。
だからここ数日、ずっと少女の寝顔を見ながら朝まで待つしかなく、ほとんど睡眠がとれていません。
殺す時のことを考えろ…
首元にナイフが刺さり、絶望に涙を浮かべるその瞬間を思い浮かべろ…
大佐はまるで念じるようにかろうじて平静を保ちました。
「まさか君が、囚人の身を案じるとはね。」
トイレから出てすぐに、とある男に呼び止められました。
この収容所に配属されている科学者達のリーダーの男でした。
ユダヤ人達は労働以外に人体実験の被験体にもさせられていたのですが、彼は特に、あらゆる非人道的実験を繰り返して殺す、悪魔のような男でした。
科学的好奇心のためなら何でもする。
穏やかな口ぶりと表情とは裏腹に、目の奥にはそう言ったギラリとした眼光をのぞかせます。
「何の話だ?」
「見ましたよ。あなたが、脱走した囚人に銃を撃つなと叫ぶ姿を。君はここ数日ずっと残虐行為をしていない。それどころか品行方正そのものだ。あんなに暴力的で、破壊的で、加虐的で、美しかったのに。一体どうしてしまったんだ?君は」
大佐は無視して通り過ぎようとしましたが、行く手行く手に阻まれて彼はどこまでもしつこく付きまとってきました。
「お前には関係ない。黙って自分の仕事をしていろ。」
「関係ありますよ。私の仕事は科学だ。」
男はかけている眼鏡を指であげて、ふっと笑みを浮かべました。
「そして科学者であるからこそ、ヒトの心理に興味がある。君はまるで、心を入れ替えたみたいだ。優しい、優しいただの人間……。」
大佐はその言葉に思わず足を止めます。
「教えて欲しい。何があった?言ってごらん。きっと私には君の気持ちがわかる。だって、我々は似た者同士なのだから。」
気付けば囚人の遺体置き場に来ました。
焼却処分の前に、一度ここに置かれることになっている場所です。
堅牢な作りの部屋で、分厚い壁に囲まれた、まるで要塞です。
大佐は部屋に誰もいないことを確認すると、男に向き直ってポケットから取り出したタバコに火を付けました。
「部屋にユダヤ人の少女をかくまっている。」
「!」
「彼女が脱走して殺されたのかと思ったんだ」
口から煙を吐き出しながら微笑む大佐。
男はそれを聞いて一瞬顔を強張らせましたが、すぐにいつもの温和な表情を作ります。
そして、ゆっくりと大佐の真横にまで歩いてきて、パシッと大佐のタバコをはらい落としました。
「ここは禁煙だよ。」
男が笑います。
「はは…」
大佐も笑い出します。
「ははは…」
「ははははは!」
「ははははははははは!!」
二人はお互いに顔を見合わせて笑い出しました。
大佐も、科学者の男も、お互いの言うことがおかしくておかしくてたまりませんでした。
どちらの笑い声か分からないくらい、二人は大声で笑いました。
ひとしきりに笑った後、男は頭をかいて口を開きます。
「君は自分が何をしているか分かっていないようだ…。この収容所で行方不明になったユダヤ人の少女がいることは私も知っている。何故なら彼女は本来、私の実験室に送られる予定だったのだから」
男が続けます。
「彼女は労働者でもガス室行きでもなく、私が実験体に選んだ完全な少女だった…純粋で、汚れの知らない最高の被験者…」
「……。」
「私の元に少女を返してくれ。彼女でやりたいことが山ほどある。そうすれば君が裏切り者であったことは誰にも話さないでおいてあげよう。」
「それはできない。」
「……そうか。本当に優しいね、君は。でもどうする?君は仕事を失うぞ。」
「こうするのさ。」
その時、パンっと銃声が響きました。
「な、に……」
腹を撃たれた男がその場に倒れ込みます。
大佐はピストルを持つ手を下ろして、高笑いして男に近づきました。
「優しい?優しいだって?俺をなんだと思ってやがる。くくっ…少女もお前も、最後には殺してやるのさ。自らが信じるものに裏切られ、殺されるような…そんな絶望の瞬間を何よりもこの目で見るために」
大佐は男の両足を持って引きずり、外にある焼却炉に半ば生きたまま放り投げました。
「や…やめろ!!」
ばちばちと音を立て燃える炉の中で、泳ぐようにもがく男の顔をじっと目に焼きつけます。
「覚悟しておけよ…お前は……破滅する!こんなことを続けて、ただで済むと思うな……!」
やがて男の声が聞こえなくなると、空に上がった煙をぼーっと眺めました。
禁煙だったな。
大佐はタバコを払いおとす男のしぐさを思い出して、また面白くなりました。
堅牢な部屋だったので銃声は外には漏れませんでしたし、男が撃たれたことも、殺されたことも、燃やされたことにさえ誰も気づきませんでした。




