二、過去と未来の断層(はざま)で。
気がつけば僕は、これまで見たこともない広々とした部屋のほぼ真ん中に置かれている、セミダブルサイズのベッドの上で寝ていた。
天井も高く窓も大きくスペースがとられただでさえ解放感に満ちあふれているというのに、その上家具の類いがほとんど置かれていないために、まるで病室か何かのような殺風景さすらも感じられた。
「──おはよう。ようやく、五年ぶりのお目覚めね」
いまだ夢現の状態で上半身だけを起こしてあたりを見回していれば、突然右隣からささやきかけてくる妙齢の女性の声。
振り向けばすぐ傍らで寄り添うように横たわっていたのは、ミントグリーンのパジャマに華奢なれど出るところは出ている女の色香に満ちた肢体を包み込み、艶やかなボブカットの黒髪に縁取られた日本人形のごとき端整な小顔の中で黒曜石の瞳をいたずらっぽく煌めかせながらこちらを見つめている、二十歳がらみの見目麗しい女性であった。
そう。まさしく御本家のお嬢様にして己の最愛の女である、草薙光葉を五年ほど成長させたかのような。
……いや。何だこの、えも言われぬ違和感は。
「あら。ひょっとして、光葉だと思った? 残念でした」
そう言って枕元に置いてあった縁なし眼鏡をかける、謎の女性。
「──っ。ま、まさかおまえ、涼華なのか?」
「御名答。その驚きようだと、やっと五年前の過去からの精神体のみでのタイムトラベルに成功したようね。──ようこそ、未来の世界へ!」
にこやかな笑みを浮かべながらいかにも芝居じみた台詞を諳んじる、目の前の鮮血のごとき深紅の唇。
いったいぜんたいどういうことなんだ、これは?
どうして僕と涼華が、同じベッドで寝ているんだ?
この五年の間に、何があったというんだ⁉
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あまりに思いがけない事態の展開にただ呆然とし続けるばかりの僕へと向かって、見慣れた白衣姿に着替えた涼華嬢は、この五年間に起こった出来事を事細かに語ってくれた。
それによると何と僕は五年前のタイムトラベルの実験直後、なぜだか前後不覚の状態となり、日常生活もまともに送れない有り様になったと言う。
そのため翌日に控えていた光葉との結婚式が取り止めになったのは当然として、それから半年一年と時が過ぎても一向に回復の兆しを見せないことから、名門草薙本家の次期当主の伴侶には不適格と見なされ、婚約自体を破棄されてしまったのだ。
一方同じ本家のお嬢様で光葉の双子の姉でありながら幼い頃から半独立状態にあり、古い名家の因習に囚われることなく自由奔放に生きている涼華のほうは、何と言っても自分のタイムマシンの実験が招いた結果だという負い目もあることだし、すでに大学も退学し本家に不義理を働いたということで実家からも見放されてしまっていた僕をこの研究所兼自宅に引き取り、それ以来親身に面倒を見てくれていたとのことであった。
地下の研究施設に負けず劣らず広大な地上の居住スペースゆえに、家事全般を司るメイドさんや料理人等が数名ほど本家から派遣されてはいるものの、実質的には京都の山あいにぽつんと建てられた瀟洒な洋館での年頃の男と女の二人暮らしであり、しかもほとんど人事不省の状態にある僕にとっては頼りになるのはこの世で涼華ただ一人ということもありどうしても依存していくことになり、極自然の成り行きとして僕らは恋人同士の間柄となったと言う。
そして例のタイムトラベルの実験からちょうど五年目に当たる今日に至って、かねてよりの予定通りに過去の世界から僕の精神体が転移してきて、こうしてまともな状態に戻ったというわけであった。
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「……ちょっと待て。精神体が過去から転移してきたことによって元の状態に戻ったってことは、僕がこの五年もの間前後不覚の状態にあったのは、むしろ例のタイムトラベルの実験こそが原因だということじゃないのか? つまり五年前に精神体だけが未来へと旅立っていってしまったために、文字通り魂の抜け落ちた状態になってしまったのでは⁉」
説明を一通り聞き終えると同時に当然の帰結として思い至った考えを、怒り任せにリビングのソファで向かい合って座っている白衣の女性へと突きつける。
「結果的にはそういうことになるんでしょうねえ。いやあ、画期的なタイムトラベルの方法を実現できたと思ったのに、まさかこんな副作用があろうとは。失敗失敗」
などと、あたかもちょっとしたいたずらを母親からしかられた幼子のように、可愛らしく深紅の唇から小さな舌先を出しながら自分の頭を小突く涼華嬢。
「ふざけるな! 何が失敗失敗だ、人の人生を無茶苦茶にしやがって。どうでもいいからその画期的なタイムマシンとやらで、僕の精神体を元の時代へ戻してくれよ! さっき状況説明を聞く前にとりあえず本家に連絡を入れておこうと電話をかけてみたんだけど、どうしても光葉には取り次いでもらえず、それでもしつこく粘っていたらむしろいかにも同情的な声で、『申し訳ございませんが、お嬢様御自身が絶対に電話には出ないと申しておられまして……』と言われた時の僕のショックと情けなさが、おまえにわかるか⁉」
「何よお。そんなに光葉と結婚式を挙げたかったわけ? カズ兄にとってはこの私との五年間の生活なんて、最初から無かったことになってしまおうが構わないって言うの?」
「うっ」
そのように拗ねた表情で言い募ってくる今やすっかり成長した幼なじみの姿に、これまで感じたことのない『女っぽさ』を見いだし、思わずたじたじとなる。
「あ、いや。おまえや光葉がどうしたとかではなく、たった五年間とはいえども、僕にとっては大切な人生であるわけであって──」
「うふふ。冗談よ、冗談。もちろんカズ兄の精神体は、ちゃんと元の時代に戻してあげるわ。──でもね、それにはちょっとばかし厄介なことがあるのよ」
「厄介なことって……お、おいっ。まさかあのタイムマシンは未来に行くことはできるけど、過去に戻ることはできないとか言い出すんじゃないだろうな⁉」
「どこかの時代遅れの三流SF小説でもあるまいし、そんなベタなことは言わないわよ。むしろSF小説では、未来へのタイムトラベルのほうが困難だというのがお約束なくらいですからね。それに対して私が考案した精神体のみによる多世界間シンクロ方式のタイムトラベルは、前にも言ったようにまさしく量子論に基づいた『可能性として存在し得るあらゆる世界』を対象にしているのだから、過去だろうが未来だろうが異世界だろうが夢や創作物等の虚構の世界だろうが、どこへだって精神体を転移することができるのだし。──でもねえ、だからこそ過去へのタイムトラベルというか、いわゆる『元の時代』に戻るためには、少々困難が生じてしまうことになるの」
「へ? それっていったい……」
「つまりね、この精神体のみによるタイムトラベルは量子コンピュータ独特の多世界間シンクロ能力に基づき、人の精神のみを別の世界の自分自身の精神とシンクロさせることによって実現しているのであり、例えば五年後の未来にタイムトラベルをしたい場合は時を超えて五年後の自分自身と精神をシンクロさせればいいのだけど、言ってみればそれは何もジャスト五年後でなくても五年と三ヶ月後とか四年と十一ヶ月後とか少々誤差があろうと別に大した支障はなく、事によっては三年後だろうが十年後だろうが一応『未来へのタイムトラベル』としては成功であるとも言い得るのであり、それほど緻密な時代を超えた精神のシンクロ作用は必要ないんだけど、これがジャスト五年前の『元の時代』に戻るということになれば、話が大きく違ってくるわけなの。何せ五年前から今日に至るまで続いていた、いわゆる魂が抜け落ちて前後不覚の状態になるのを解消したいのだから、出発時よりも後の時点に帰還するのはたとえほんの数日であろうと避けたいところだし、かといって出発時より大幅に前の時点に帰還したのでは一つの身体に二つの魂が存在する状態が長く続くことになり、それはそれでどんな不具合が生じるか予想もつかないので、まさに出発時ジャストに帰還できるように、より緻密な精神体同士のシンクロ作用が必要になってくるという次第なの」
な、何だよ、そりゃ。つまりたとえタイムトラベルといえども『行きはよいよい、帰りは怖い』という、我が国古来の格言が適用されるってわけなのか?
「話のほうは、まあどうにか理解できたけど。そのより緻密なシンクロ作用ってのは、どうやって実現すればいいんだよ?」
「それはもちろん、『海軍方式』しかないでしょうね。これからはビシバシ行かせてもらうわよ!」
「か、海軍方式い⁉」
それって、某軍曹殿みたいなやつ? これから僕には白衣の眼鏡美女から悪し様に罵られたり鉄拳制裁を受けるといった、(夢のような)日々が始まるわけ⁉
「ああ。期待しているところ悪いんだけど、海軍方式といってもドMの皆様御用足しの、例のアメリカ海兵隊方式のやつじゃないわよ。いわゆる艦砲射撃においてより精密に目標を捕捉するために事前に試し撃ちを繰り返すやり方のほうよ。つまりカズ兄にはこれからより正確に五年前の世界に帰還するために、試験的な過去への精神体のみによるタイムトラベルを何度も繰り返し体験してもらおうって次第なの」
「過去へのタイムトラベルを繰り返せだってえ⁉」
思わぬ言葉に面食らう僕に対してその妙齢の女性科学者は、話題の焦点である例の漆黒のカプセルベッド型のタイムマシンが設置されている地下研究室のほうを親指で指し示しながら、いかにも意味深な笑みを浮かべながら宣った。
「ええ。言わばカズ兄には今度は、小説か何かのめくるめく回想シーンの主人公そのものになっていただこうというわけよ」
今回はちょっと字数が少なかったので、次の第三話はこの後すぐの午後四時に投稿いたします。どうぞよろしくお願いします。