幸せの一刻を
お腹が空いていたときに勢いで書いたものです。息抜き程度に読んでいただければと思います。
3月1日。この日、多くの学生が卒業を迎え、街には最後の思い出を作りに来た制服姿の若者達で賑わっている。いわゆるお祝いムードというやつだ。
夜になると、仕事帰りの社会人も加わり、街は多くの人で溢れかえっていた。
そんな街の商店街の隅にある、パッと見、どこにでもあるような居酒屋「幸」。
所々に茶色のシミがついた紺色ののれん、手でスライドさせるとガラガラと音がする障子のようなガラスの扉、一歩踏み出せば目に飛び込んでくる色とりどりの酒瓶たち、その横には「大将のおすすめ」と書かれたちんまりとしたボードが置いてある。空いているわけでも混んでいるわけでもない、適度に賑わう少しまったりとした空間。知る人ぞ知る隠れた名店だ。
仕事帰りの寄り道、頑張った自分へのちょっとしたごほうび。大将のおすすめをつまみながらちまちま酒を飲むのが、最近の私のお気に入りだ。
ガラガラガラガラ……
「いらっしゃいませ~」
「…らっしゃい」
女将さんの少し訛ったゆるりとした声と大将の愛想に欠けた渋い声、だが、それがいい。
たしかに、元気な声のほうが活気がいいし、酒も進むだろう。しかし、今の私が求めるのは肩の力が抜ける癒しの空間なのだ。
<今日の大将のおすすめ 鰆の塩たたき >
鰆かあ……。
ついこの間までの鋭く冷たい風が止み、春の訪れを感じさせるように柔らかな風が吹き始めた。小道を歩くと桜は咲いていないものの梅の蕾や桃の花の甘い香りが優しい若葉の香りと共に私の鼻をくすぐるのだ。
そして、そんな春の予感を確信させる、大将のおすすめ「鰆」。頼まないわけがない。魚には冷が合う、もう決まった。
「すいません、注文いいですか。」
「はい、今日はどないしましょか~」
「鰆の塩たたきひとつと冷酒ひとつください!」
「冷酒の銘柄は何にしましょか~」
「んー、おまかせで。」
「はい、かしこまりました~。以上でよろしいですか~」
「あ、えっと、ちょっと待ってください。」
勢いで注文したが、他に頼む物が決まってなかった。急いでお品書きを手に取り、ページをめくる。
「お迷いでしたら、これがおすすめですよ~、ちょうどさっき作った辛子がいい感じに仕上がったんです~」
女将さんはそう言って季節限定メニューの一番端にある一品を指した。
<菜の花の辛子味噌和え>
「じゃあ、これもお願いします!私ここの辛子を使った料理大好きなんです。」
「そらおおきに~、辛子はうちの自信作やしね、そないに言うてもろてうれしいわ~」
この店の辛子は自家製だ。私がこの店を初めて訪れたとき、おでんに付いていた辛子の淡いクリーム色となめらかな舌触りに驚き、女将さんに聞いたことがあった。
市販の辛子では大将の作る繊細な料理を生かしきれないと、女将さんが独自に作り上げたそうだ。その辛子は、鼻を突き上げるような鋭い辛みと舌をキュッと締める酸味、ほのかな甘みの中にある和辛子特有のさわやかな香り、そして、口に入れると溶けるようになくなっていくなめらかさ。くせになるそれは、この店が隠れた名店といわれる理由のひとつだ。普通の居酒屋では臭み消しに用いられる辛子を、女将さんは臭みも雑味もない大将の料理の「アクセント」という最高の形で完成させたのだ。
そして、今やその辛子を生かした大将の料理があるほどだ。これぞ愛!夫婦ならではのコンビネーション、互いが互いのことを考えているからこそできた究極の一品!菜の花の辛子味噌和えもその中のひとつだ。
ここの辛子料理は少しの量だが驚異的な速さで酒がすすむ。心して掛からねば。
ガラガラガラガラ……
「いらっしゃいませ~」
「……らっしゃい」
「すいません、2人なんですけど空いてますか」
入ってきたのは、セーラー姿の2人組。居酒屋ではなかなか見ないその服装に女将さんは少し戸惑った様子だったが、すぐに、笑顔でカウンター席へと案内していた。他の客たちもその見慣れない学生たちが気になるようで、ちらちらと様子をうかがっている。店中に変な緊張感が奔った。
「オレンジジュースとコーラ1つお願いします」
未成年が酒を頼まないかと内心ヒヤッとしたが、ソフトドリンクだったことに少しホッとした。他の客たちも同じことを考えていたようで、胸をなでおろしていた。
「他になんか頼む?」
「じゃあ、あの鰆の塩たたきってやつ食べたい。入ってからずっと気になってたんだよね」
「いいね、これもお願いします」
「はい、かしこまりました~。それではごゆっくり~」
ほう、目の付け所がいいじゃないか。
「なんかさ、居酒屋とかで未成年なのに酒飲んで、それをSNSに載せて自慢するやついるじゃん?あれ、ほんとダサいよね。」
「それな、なんか俺もう酒飲んでる大人なんだぜ、かっこいいだろアピールね。いや、全然かっこよくないし、ていうか、酒の良さも分かってないのに酒強いんだとか言われても、あっそとしか思えない」
「ほんとそれ、一口飲むだけで銘柄当てられるとかならめっちゃかっこいいかもだけどさ、てか、未成年なのに酒飲む時点でかっこいいから程遠いわ」
「てかさ、まずSNSに載せたやつを警察とか学校とかに見られるかもしれないリスクとか分かってんのかね?」
「分かってたら載せてないでしょ。なんか自分は頭が悪いですって自分から言ってるようなもんだよね」
「うん、自分から評価下げにいってるよね、超ウケる」
若者によるSNSの問題が多発する世の中でこんな風にシビアに物事を考えられる学生がいることに感心した。
「あ、そうだ、あんたのクラスさ、委員長が卒業式の日にみんなで打ち上げやろうみたいなこと言ってたよね、あれどうなったの?」
「あー、用事あるからって断ったよ。なんで、大して仲良くもない人たちのために私の金と時間を割かなきゃいけないのよ」
「とか言って、ほんとは私と一緒にいたかったから断ったんでしょー」
「それもある」
「いや、こっちボケのつもりだったんだけど」
「どんまい」
こういうところはやっぱり若いな。社会人になったら行きたくない飲み会でも行かなければならない時があるからね。
「はい、冷酒と鰆の塩たたきと菜の花の辛子味噌和え、お待ちどうさま~」
「ありがとうございます、あ、追加注文いいですか。」
「どうぞ~」
「ハマグリの土瓶蒸し1つください。」
「かしこまりました~」
それでは、いただいますか。
まずは鰆の塩たたき。パリッと仕上がった艶やかな皮、淡いオレンジピンクの断面、一口食べればそれは舌の上で蕩け、炭火の香りが鼻を突きぬける。からの、冷酒を一口、口に残った脂がキュッと締まるのを感じる。はあ、至福。
次は菜の花の辛子味噌和え。菜の花の苦味と辛子の辛味と味噌の甘味、そして、それらが合わさることで生まれた新たな旨味、飲み込んだ後も残るその余韻に冷酒が追い打ちをかける。菜の花、酒、菜の花、酒……。止まらないこの無限ループ。たったこれだけなのにこの贅沢感はなんだろうか。ああ、もう冷酒がなくなってしまった。ふむ、じゃあ次はどうしようか。あ、そうだ。
「すいません、熱燗ください。」
「は~い」
さて、土瓶蒸しがくるまでまだじかんがありそうだ。どうしようか。
「ねえ、私達今日卒業したじゃん。でもさ、漫画みたいな青春ってあった?」
「いや、ないでしょ。恋愛とかひたすら他人の惚気を聞いたくらいしか記憶にないわ」
「だよね。今思うと中学生の頃とか入学したての頃とかって高校生にめっちゃ夢もってたよね」
「それな、さすがに少女漫画みたいな学校№1のイケメンはいなくてもちょっとイケメンだなって思える人とかできるかなって思ってた」
「ほんとそれ、そのイケメンとなんか仲良くなって夏休みに夏祭り行ったりとかね」
「それで、花火が終わって告白されてとかね」
「クリスマスは恋人とふたりきりで過ごすとか……」
「「はああ」」
新しい世界に飛び込んだり、環境が変わったりすると無意識のうちに何かを期待してしまう。その気持ちよく分かる。私も高校で同じこと期待して勝手に失望してたな。なのに、大学に行っても最初は期待してた。今度こそはって。高校より人数が多い大学なら運命の人に出会えるかもとか夢見てたな。大学でもダメで、社会に出たら小説のようなちょっと大人なオフィスラブとか経験できるんじゃないかなって。でも、実際は会社と家の往復でイケメン上司とかいるはずもなく、唯一の楽しみは、美味しい酒とご飯。同じような毎日に新しい出会いなどあるわけもない……。
「ハマグリの土瓶蒸し、お待ちどうさま~」
「ありがとうございます。」
せっかくの美味しいご飯にしんみりした空気は合わない。ふう、まずは蓋を開けずに、小さなお猪口にそのまま注ぐ。はあ、ハマグリのやさしいだしが香ってくる。口の中にハマグリの旨味がふわっと広がる。何杯でもいけそうだ。次は蓋を開けて中の具を食べる。ああ、大きなハマグリとその横にちょこんと居座っているのは十字線の入ったシイタケ、そして、この土瓶の中を彩る三つ葉。出汁料理に合う日本のハーブ。ハマグリの身はこれだけ濃い出汁をとったにもかかわらず旨味の塊だ。シイタケもクニクニとした食感と噛みしめる度に増す旨味。これほどまでに旨味を凝縮した料理を私は他に知らない。
「はあ、ごちそうさまでした。」
まあ、勝手に期待して失望したこともあったけど、思わぬところからの希望もたくさんあった。だから、そのあれだ。明日も頑張ろう。
「お姉さん、最近よく食べにきてるよね。俺もここの料理好きなんだよ。」
「はい?」
「ねえ、もう一杯どう?おごるからさ」
急に隣の席で飲んでいた男性が話しかけてきた。酔っているのだろう。
「なんでも好きなもの注文していいからさ、もうちょっとだけ!」
思わぬところからの出会いってやつかな、なんてね。
読んでいただきありがとうございました。