はじまり
開発分室は、とても静かだった。テニスコートほどのスペースがあるが、中央に大きなデスクが置かれているせいで狭く感じる。デスク上にはコンピューターが数台と、資料類や企画書が散乱していた。辺りには人はいない。人の気配もしない。耳を澄ましても、聞こえるのは冷却ファンの回転音だけだった。
その少女は入るべき部屋を間違えたと思い、一度部屋から出た。そして入り口に掲げられている看板を、もう一度注意深く確認する。セクターの入り口には、子供心を刺激する洗練された筆記体で、『株式会社デルタフェニックス 開発分室』と刻まれた銀板が掲げられている。
「間違いないよね……」
少女はぽつりと呟いて、看板から目を離した。ここは高層ビルの六階。ガラス壁の向こうには、少女が住む都市が広がっている。すぐ近くには高層ビルが軒身を連ねるように並んでおり、夕焼けを反射して赤く光っている。ビルの隙間からは、発展から取り残された郊外の景色がちらりと見えた。眼下を見ると、豆粒ほどの車や人が見渡せる。よくよく見ると、このビルが面している道路が、何かが押し通ったかのように車列が乱れていた。少女は救急車のサイレンを聞いていたので、きっとそれだろうと、特に気にしなかった。
「みんなどこに行っちゃったんだろ? せっかく差し入れ持ってきたのに」
少女は手の中の通学カバンと、ドーナツの入った箱をしっかりと持ち直す。だがここでくよくよしていても仕方がない。少女は部屋の中に入って行った。
「お父さんったら、私にコソコソ隠れてゲーム作らなくたっていいのに――サプライズで来たら誰もいないし……ひょっとして律夏ちゃんが、お父さんにばらしちゃったのかな?」
少女はぶつぶつと独り言を零しながら、室内を歩き回る。デスクは散らかり放題だが、日頃からきちんと掃除しているのか、清潔ではあった。壁には資料類がまとめられ、埃は見られない。しかし最後に部屋を出た人間は、余程慌てていたらしい。ドリンク剤や資料類が、室内から入口まで、尾を引くようにして散らばっているのだ。そして人を引きずったかのように、地面には靴底が擦れた後も残っていた。
少女は「ふぅん」と考え込むように顎に手を当てながら、視線をデスクの上に戻す。そして喜悦の叫びをあげた。
「あ~! これ、もしかして『ジョイボックス』!?」
少女はパソコンに接続してある、見た事のないゲーム機に走り寄った。パソコンの前に座り、ゲーム機をしげしげと眺める。それは真四角の形をした鞄ほどの筐体で、ワイヤレスのコントローラーが四つ、その脇に並べてあった。少女は現物を見たことはなかったが、開発室に置いてあるのだ。これが近日発売と宣伝をしている、次世代型ゲーム機ジョイボックスに違いない。
少女は嬉々としてゲーム機の電源を入れてみる。パソコンのモニタが、緑を基調としたデザインのスタートメニューを映し出した。少女は試行錯誤しながら、コントローラーを操作して、ゲーム機を早速いじり始めた。
本体のメモリには様々なゲームが入っている。動作確認用の簡単なゲームや、ボツになった企画のプロトデータ。そしてこのゲーム機で発売するのであろう、過去発売されたゲームの移植作などだ。少女は興奮しながら、その一覧を眺めていった。
そこでジョイボックスのディスクデバイスが、駆動音を上げた。キュルキュルと、ディスクを読み上げる音を立てながら、モニタの右下に読み込み中のサインを表示する。
少女は首を傾げる。ジョイボックスにはまだソフトが無いはずだ。それを少女の父親が作っているのだから。少女はじっと、ディスクの読み取りが終わるまで待った。やがてディスクの読み取りが終わり、モニタにはソフトのデータが映し出された。まず目についたのが、火を吹く地獄の番犬と、それに斬りかかる勇者風のキャラクターの一枚絵だ。地獄の番犬は勇者に爆炎を吐きかけつつ、背後には大勢の魔物――ゴブリンやリザードマン、ゴーレムなど――を率いている。対する勇者も、その後ろに弓使いや魔法使い、僧侶を連れていた。一枚絵の上には、あくまで仮にと言った様子で、無骨なゴシック体でタイトルが記されていた。
『ユークリッド・データ』
ゲームが完成したのだ。少女の顔がほころぶ。彼女はコントローラーを握る手に力を込めた。
「何だ、マスターアップしたんだ。打ち上げの準備に行って、それで誰もいないのかぁ」
少女は納得すると、少しだけユークリッド・データをプレイすることにした。ゲームはもちろんの事、後で親友にプレイしたのを自慢するのが楽しみだった。ソフトのアイコンを押すと、デルタフェニックスのロゴの後に、注意書きが表示された。
『このゲームをプレイするためには、ブレインリーダーが必須です。ブレインリーダーを接続して下さい』
注意書きには、必須周辺機器であるブレインリーダーの図が映し出され、プレイヤーに接続と装着を促している。図によるとブレインリーダー頭に装着する機器のようで、ヘルメットによく似た形をしていた。
少女は慌てて周囲を引っ掻き回し始めた。もう期待で胸がはち切れそうなのだ。ここでおあずけなんて食らいたくない。彼女はデスク上のパソコンの隙間や、開発資料の山の中、資料棚のダンボールなどを探して回ったが、それらしきものは見当たらなかった。
少女はパソコンの前に座り直し、未練がましくゲーム画面を見つめる。だがあのヘルメットが無いとプレイできない。彼女は行き場を失った期待をぶちまけて、頭を掻き乱しながら両足をばたつかせた。と、そこで足が何かを蹴った。蹴り飛ばした何かは、ボールのような形をしているようで、地面を転がって音を立てた。少女がデスクの下をのぞき込むと、そこには画面に映し出されているものと、よく似たヘルメットが転がっていた。
「あっ、これか!」
少女はヘルメットに飛びつくと、急いでジョイボックスに接続した。そして頭にかぶろうと、両手で高く持ち上げる。そこで彼女はある事に思い当たり、ふと手を止めた。
「何で転がっているのかな? まるで放り投げたみたい。それに――」
改めて室内を見渡してみる。この開発分室は異質だった。何故本社の開発室で開発しないのか。デルタフェニックスは自社ビルを持っている。そこには開発室が三つあり、うち一つを父が任されている。それが何故こんな分室を作ったのか。そしてこんな部屋一つだけの小さな開発室で、碌なコンピューターも無いのに、最新機種のゲームソフトなんて作れるのだろうか。少女は甚だ疑問だった。
「ま、いいか」
詳しくは父に聴けばいいだろう。どんな経緯で、どんなからくりで、このゲームを作り上げたのか、教えてくれるに違いない。少女が最も楽しみにしているのが、父の開発秘話だった。きっと突拍子もない話をしてくれることだろう。何故なら少女の父親は天才プログラマーと呼ばれるあの男――井守明なのだ。彼女は、ブレインリーダーを被った。同時に父の声が聞こえた。どうやら帰って来たらしい。急にその場が慌ただしくなる。
「冬美! 何をしている! やめろ! 誰か電源を切れ!」
「私がやる!」
少女の親友――律夏の声もした。少女は親友に何かを言おうと口を開きかけたが、急に気だるさが体を襲った。不思議なことに、ブレインリーダーを被ると、少女の意識が微睡に落ちていった。
しかしそれも束の間。ブツンと電源の切れる音と共に、彼女の決定的な何かもキレた。
それから、一年の月日が流れた。