津語の日の朝の出来事
ぼくは大きく伸びをした。窓から入ってくる涼風。実に清々しいしい朝。見上げれば、粗末な板の天井。寝ているベッドもぼくの物じゃない。あれっ?ぼく、何でこんなところに寝ているのかな?ちょっと身体がフラフラするみたい。ぼくはぼうっとした目で辺りを見回した。男の人の姿が目に入る。
「あ、起こしてしまいましたか?」
窓辺にレンダークさんが佇んでいた。穏やかな笑みを浮かべたレンダークさんの髪から、光りがこぼれ輝いている。ちょうど、後光がさしているみたいで、神に愛されている精霊たちみたいだ。ぼくはしばし、その端正な横顔に見蕩れた。
「とても良い天気なので、窓を開けたのです。室内の空気の入れ替えも必要ですしね」
ぼくははっとして部屋の中を見回した。ぼくの寝ているベッドが一つ。中央に置かれた丸いテーブルとお揃いの椅子たち。東向きの窓に立つレンダークさん。ぼくの服じゃないパジャマ姿のぼく。
ぼくの顔が見る見るうちに赤く染まっていく。もうすぐ十四才になる正常な女の子のぼくとしては、こ、この状況って、やっぱり、あの状況だと思うわけで、というと、昨日の夜、ぼくは?と考えてはたと気が付いた。
あれ、あれ、なんかぼくは大切なことを忘れている気がする。昨日、ぼくは何か重要なことを思い出した。それが思い出せない。きれいさっぱりと忘れてしまったようだ。思い出そうとするたびに記憶の奥に障壁ができる。その厚い壁はどんどん強固になり、ぼくは思い出そうとするの無駄だと悟った。
それで改めてレンダークさんを見る。いつも綺麗なレンダークさんはさすがにルイさんの従弟だと思う。そのレンダークさんと二人きりって、これはやっぱり、学校のお友達が言っていたようなシチュエーションなのだろうか?
女の子が集まれば、自然と話の行きつく先は恋バナになる。マース国の成人が十五歳なので、女の子の結婚適齢期は意外と早い。特にぼくが通っていた学校は平民の学校なので、こういう話は耳年増になるくらい聞かされた。みんな、恋愛には積極的で実に現実的なのだ。いい男を捕まれるために必死になっている。いい男の条件は仕事がよくできることと家族を大事にすること。そのために、いろいろな情報交換という名目でちょくちょく恋バナをしている。それを聞きながらぼくはものすごく羨ましくて堪らなかった。ぼくもいわゆるお年頃なので、恋愛はしてみたいと密かに思うのだ。
貴族には大抵婚約者がいるから、恋愛なんて無理だろう。もっとも僕は貴族だけれど、貴族らしく育っていないので、貴族階級に友達はいない。成人前なので社交界にデビューすることもないので、いわゆるボッチだ。そのボッチのぼくに嫌がらせをしてくる貴族階級のご令嬢にはほとほと手を焼いている。接点がないのになんでわざわざぼくを探して嫌味を言うのだろうか?わけがわからないよ。
特にレンダークさんのことでいろいろと言われる。確かにレンダークさんは優良物件。まだ、婚約者のいない貴族令嬢の中では一番人気なのだとルイさんが自慢気に言っていた。つまり、ぼくの婚約者であるけれども、他にも婚約者がいるからぼくの正式な婚約者に選ばれない限り、レンダークさんはフリー状態と同じなのだ。それがぼくへの嫌がらせや嫌味に繋がるらしい。早くレンダークさんをぼくの婚約者から解放しろと何度言われたことか。そういうことはおじいちゃんたちに言ってほしい。ぼくにはどうにもならない。
それはともかく、ぼくはレンダークさんと二人でこの部屋で過ごしたのだろうか?ぼくは知らないうちにレンダークさんとそういう関係になってしまったのかもしれない。考えただけで顔が赤くなっていく。レンダークさんだって男だし。据え膳食わずはなんとやらって言う話もあると聞いた。平民の友達の中には男の人とそういう関係になっている子もいる。駄目だ。ぼくの許容量が超えた。
「よっこらしょっと。おや、お嬢ちゃん、目が覚めたんだね」
不意の闖入者に焦りまくったぼくは、その前の変な妄想もあって、あわてて、ベッドから抜けだそうとしてこけた。したたかに腰を打ったらしく、ズキズキと痛みが脈動している。ぼくはそのまま床にへたり込んだ。
「モエちゃん、大丈夫ですか?」
「おや、おや、そそっかしいお嬢ちゃんだね。どれ、どれ」
部屋に入ってきたのは人のよさそうなおばちゃんで、レンダークさんを押し退けて、ぼくのそばに近付いてきた。
「キャアー!」
突然の展開に、ぼくは悲鳴を上げた。おばちゃんは、事もあろうにぼくのお尻をペロッとむき出しにしたのだ。レンダークさんがいることなど、はなから眼中にないって調子で、ぼくのむき出しのお尻を遠慮なくじろじろと見る。
「あら、これは見事に赤くなってるわ。そう、そう、そこのお兄ちゃん、下に行って軟膏を取ってきてくれるかい。うちのに言えば、すぐに出してくれるからね」
笑いながら、そう言った。レンダークさんの足音が、トタトタと頼りなく去って行く。ぼくは恥かしいやら、悔しいやらで、ポロポロと涙をこぼした。
「あら、あら、泣くほど痛かったのかい?困ったお嬢ちゃんだね」
おばちゃんは、あたしを子供みたいに膝の上に抱きかかえた。おばちゃんの肉付のよい身体が、極上のクッションを思わせる。ぼくは自然と亡くなったマーサおばちゃんを思い出した。懐かしいぬくもりだ。
レンダークさんが戻ってきた。真っ赤な顔で軟膏をおばちゃんに渡すと、そそくさと部屋を飛び出した。おばちゃんがたっぷりとぼくに塗りたくった軟膏のお陰で、しばらくたつとお尻の痛みは治った。おばちゃんはぼくが泣き止むまで、ずっとそばにいてくれた。
「そうだね。もう少し休むといいよ。お兄ちゃんたちにそう言っておくからね」
おばちゃんはぼくをベッドに寝かしつけて、布団を掛けるとそう言って部屋を出て行った。ぼくは恥かしくて、布団に潜り込んだ。レンダークさんと顔をあわせられない。
ぼくはすぐに布団から顔を出した。暑くて息苦しい。ぼくは深呼吸を繰り返した。呼吸を整えているうちに、、あた昨日のことが頭に浮かんできた。
そうだ、昨日、あの男の子と会ってから、ぼくはどうしたんだろう?ここにいるっていうことは、ぼくは助かったのだ。なんだろう?ぼくはやはり大事なことを忘れてしまった気分になる。とても、大切なこと?重要なこと?記憶の奥底はガードが固く、思い出そうとするたびにますます堅固になっていく。まるで思い出すなというように。それでぼくはやはり無駄だと思いあきらめた。
どのくらい時間が経ったのだろうか?そんなに経っていない気もするが、コンコンと遠慮がちにノックする音がした。
「どうぞ」
ぼくはすっかり先程の出来事を忘れていた。
「モエ、食事」
ぶっきらぼうに言いながら、タクトくんが入ってくる。背中でドアを押し開けて、足で閉める。両手にトレイを抱えているので、お行儀悪い。タクトくんが、トレイをテーブルの上に置いた。
「ありがとう」
「おい、レンダークさん、どうしたんだ?昨日から、ずっとお前を心配して付き添っていたのに、いきなり、面倒を見るのをバトンタッチしてくれなんて言い出すんだもんな」
不機嫌な顔でタクトくんは椅子に座る。
「タクミにじゃんけんで負けたから、しゃーねえけど、今回はこうして持ってきてやった。起きてるなら、昼飯はちゃんと下に食いに来いよな」
「う、うん」
「タクミはどうかわかんねえけど、俺はモエのこと何とも思ってねえからな。じいさんがうるさいから、こうしているだけだ。あんまし、迷惑かけんなよ」
ぼくは目をまん丸くして、タクトくんを見つめた。ぼくの前で、タクトくんがこんなに喋ったことなかったからだ。
「何だよ、俺に何かついてるか?」
「ううん、だって、ぼく、タクトくんがこんなに喋るなんて知らなかったもの。いつだって、ぼくの前じゃ、こんな顔してムスッとしてたじゃないか」
ぼくは手で目をつり上げて見せる。プッとタクトくんが吹き出した。あれ、笑った顔がタクミくんと一緒だ。ぼくも一緒にケラケラと笑いだした。笑いだしたら止まらなくなって、二人でゲラゲラと笑い転げた。
「俺、モエに対する認識を変えなくちゃなんねえな。おまえが結構話せる奴だと思ってなかったぜ」
笑い転げた後で、ぼくはタクトくんといろいろなことを話し合った。ぼく自身がタクミくん、タクトくんはもちろん、レンダークさんとも結婚など考えられない。おじいちゃんたちにはかわいそうだけど、ぼくにはどちらか片方など選択できない。ぼくがそう言い切ると、タクトくんが「偉い!」って、誉めてくれた。ちょっとくすぐったい気分になる。
「俺、誤解してたんだな。モエはじいさんたちの言いなりだと思っていた。モエが俺たち三人をどう思っているかなど考えたことなかった。じいさんたちはあれで結構、おじさんたちを気にしているんだ。本当はモエでなく、おじさんとおばさんに後を継いで欲しいんだよ。それが素直に口にできないから、俺たちを使って代理戦争しているんだ。ルーイが悪い。オーダが悪いってね」
うんうんとぼくもあいづちを打つ。気難しげだったタクトくんも話してみれば、意外と話しやすいし面白い性格をしていた。自分の確たる意見をしっかり持っているところは、フェルに爪の垢でも飲ませたいくらい。たった三つの年の差で、大人と赤ん坊ほどの違いは一体何?ぼくもまだまだ修行が足らないと自覚する。
「実は俺、本当のこと言うと、オーダを継ぎたくねえんだ」
タクトくんが真面目な顔で話し始めた時、バタンと勢いよくドアを開けて、フェルが部屋に飛込んできた。
「モエギさん!もう、大丈夫なんですかぁ?」
頬にジャムの残りをつけて、鼻の下にうっすらとミルクの白い筋が残っている。食事もそこそこにやってきた様子で、ぼくとタクトくんは、顔を見合せてまた、笑い転げた。
「俺、行くわ。モエ、また後でな」
笑いすぎたお腹を苦しそうに抱えて、タクトくんは出て行った。フェルがキョトンとしてぼくを見る。ぼくは壁に掛かっている鏡を指差した。
「あっ、すみません。ぼく、モエギさんが心配で夢中だったものですから」
ポケットから出したハンカチで、口の周りと頬を丁寧に拭いて、ついでに身だしなみまで整え出した。一応王子なだけはある。きちんと身だしなみを整えれば、それなりに見えるのに残念だ。
「これでいいですかぁ?」
何度も鏡を見た後やっとと満足したのかくるりと後ろを振り向いて、小さい子供みたいな仕草をするフェルに、ぼくは思わずくすっと微笑んだ。フェルを見ていると、心がほっこりしてくる。癒し系の子犬だ。また耳と尻尾の幻覚が見える。幻覚なはずなのに耳をピコピコさせて、尻尾をぶんぶんと振りまくるフェルって、お得な奴。こいつが王子でも何でもなくても、たぶん、皆がこいつの面倒を見る羽目になる。これはぼくの確信。
「あれ、モエギさん、食事まだ何ですか?すっかり冷めちゃいましたよ。ぼく、温め直して貰ってきますね」
「いいよ。そのままで食べるからさ」
ぼくはベッドからモゾモゾと起き出すと、椅子にストンと腰掛けた。ちょっと、動いただけでぼくは肩で大きく息をした。身体がだるくて思うようじゃない。あれ?ぼくってこんなに体力なかったっけ?心配そうな顔をして、フェルもぼくの隣にお行儀よく腰掛ける。
「この木苺ジャムおいしかったですよ。ここのおばさんが作ったんだそうです。後で木苺のパイやタルトも作ってくれるそうなんです。ぼく、とても楽しみなんですよ。おばさん、面白い人ですよね。ぼく、ミルクが牛や山羊などの動物から取るのだとちっとも知らなくて、おばさんたちに大笑いされてしまいました。お城では誰もそんなこと教えてくれなかったんです。これって、酷いことですよね。でも、ぼく、旅に出ることができてよかったです。ぼくはもっと、もっと、たくさんのことを覚えて、いずれはモエギさんとこの国を立派に治めます。モエギさん、がんばりましょうね」
食欲のないぼくがチビリチビリとスープを飲んでいる間中、フェルは甘ったるい声で機関銃のように喋りまくった。昨日の今日で、次から次によくもこんなに話すことがあるものだと、ぼくは妙に感心したりしてる。間延びしなくなっただけましと思うしかないのか?ただ、最後の締めくくりが気になるけど、まあ、フェルが一人で騒いでいることで、ぼくに実質的な害はない。子供の戯言に目くじらたてるほど、馬鹿なことはない。たった二日でぼくは悟りを開いた。
スープをやっとの思いで飲み終えたぼくは、フェルのお薦めのジャムを食べるために、パンを半分千切ってジャムを塗る。
「昨日は大変でしたよねぇ。でも、さすがにモエギさんです。ぼく、モエギさんがあんなにすばらしい魔術士だったとは知りませんでした。流石最強の魔術師の娘ですね。血は争えないってことですよね。」
ぼくはかじっていたパンをかまずに、ゴクンと飲み込んだ。塊りがノドに引っ掛かって、ぼくは夢中でミルクのカップに口をつけた。く、苦しい!やっとの思いでパンを飲み下すと肩で息をゼイゼイと吐きだす。危うく死にかけるところだった。この年でパンをのどに詰まらせて死ぬなんて恥ずかしいぞ。
「モエギさん、だ、大丈夫ですかぁ?」
ぼくが一息付いたところで、フェルがぼくの背中を撫で擦りだした。
「おまえなぁ、人が苦しい時にただ見ていただけで、終わった頃に背中を撫でたって何の意味がある?」
ぼくの口から辛辣な言葉が飛び出す。フェルが子供みたいに泣きそうになる。こいつ、ちっとも変わらない。学校にいるときと同じだ。ぼくは椅子の背もたれに寄り掛かった。どうして、ぼくはこんな奴につきまとわれなくちゃならないんだ?理不尽な思いに囚われる。タクトくんの意外な一面を見てしまった後で、フェルの相変わらずの頼りなさが歯痒い。こいつが来なければ、もうちょっとタクトくんと話していたのに。お邪魔虫!ぼくときたら、フェルへの怒りできれいさっぱりと忘れてた、フェルの言葉に驚いて、パンを飲み込んだことをだ。
ぼくは俯いているフェルの頭を子供をあやすようにポンポンと叩いた。
「フェル、ぼく着替えるからさ。外で待っててくれる」
「うん」
まるで怒られた子供みたい。シュンと肩を落として出ていく。耳と尻尾が垂れた子犬を見ているようでぼくの胸はほん少しチクンと痛む。
つたない文章ですみません。