旅立ちは波乱に満ちて
「モエギさん、どこへ行きますかぁ?」
エイーガの街を抜けると、南エリシュオーネ大陸を横断している主要街道がある。東へ行くとぼくが昔住んでいた駐屯地、西に行くとマース国縦断の旅になる。ぼくは道標を見ながら考え込んだ。フェルは冒険ガイドブックを見ながら、北と東を交互に指差して何かブツブツと呟いている。こいつは絶対に修行の旅に出るんじゃなくて、遊びに行くつもりなのだとぼくは確信した。
「モエギさん、東にあるユベリアルの街では、海水浴ができるそうですよぉ。それから、北のエイラーンの街の温泉は、美肌になるって書いてありますぅ」
ぼくはフェルの顔をジロリと見た。こいつは絶対に修行の旅を遠足と間違えているんじゃないのだろうか?まあ、フェルだしと思いながらも、いやいや、こいつは王子なんだよね。それってやはり不味くないのかと悩む自分もいる。なんか出だしでもう躓いた気分だ。嘆息。
フェルはぼくの持っていた冒険ガイドブックを両手でしっかりと握って、顔にくっつけるみたいに夢中で読んでいる。失敗だった。修行の旅に出るというのに、格好だけで何の準備もしていないフェルに、旅の心構えを身につけさせるために渡した冒険ガイドブックだったのに。フェルは、付録のマース国お勧め観光ガイドがいたく気に入ったらしい。
ぼくはフェルを放って、東に歩を進めた。
「モエギさぁーん!待って下さいよぉ!置いて行くなんて酷いじゃないですかぁー!ぼくとモエギさんは一心同体も同然なんですよぉ!ぼくがいなくて困るのは、モエギさんなんですよぉ!」
フェルは勝手なことをほざきながら、金魚のウンチみたいに、ぼくの後を追いかけてきた。道行く人がぼくたちを見てクスクスと笑った。うっ、うっ、うっ、恥かしいよぉ!ぼくは後ろを振り向いて、フェルの口を押さえた。それから、フェルを引き摺るように夢中で道をそれ、バタバタと駆け出した。
「モエギさん、休みませんかぁ?ぼくはもう駄目ですぅ!」
フェルの足が鈍り、ペタンと地面にヘタリ込んだ。ぼくはチッと舌打ちをした。無我夢中で駆けてきたので、ここがどこなのか見当がつかなかった。ぼくはキョロキョロと辺りを見回した。木々が鬱蒼と生い茂った森の中にぼくたちはいた。小鳥が忙しなくさえずり、生い茂った木々の隙間をぬうように木漏れ日がフワフワと漂う。風が新鮮な森の香をぼくたちに振りまいてる。ここには精霊さんたちがたくさん住んでいるらしい。ぼくが冒険ガイドブックを覗いて確かめるとエイーガの東に広がる槐の森の中だった。
「まあ、いいか。お腹も空いているし、どこか適当な場所を見つけて食事にしようか」
ぼくが声をかけると、フェルは満面に笑みを浮かべて、ぼくを見上げた。無邪気な子供っぽい笑顔に、ぼくの胸がドキンと高鳴った。子犬だ。尻尾と耳まで見える。か、かわいい。ぼくの顔が不意に赤くなった。ぼくは火照った顔をフェルに悟られたくなくて、クルッと後ろを向いた。落ち着け、ぼく、相手はフェルだ。間違えるな。気が付くと遠くからせせらぎが聞こえる。近くが小川があるのだろう。ぼくはせせらぎを頼りに歩き出した。
森の中を流れる小川のそばで、ぼくたちは食事にすることにした。川のそばは木々から少し離れていてちょっとした広場を作っていた。ここなら、火を使っても問題がない。枯れ枝を拾って焚き火をおこし、携帯用の小さなお鍋に水を入れ、沸騰してきたところで、出がけに作ってきたおにぎりを二個放り込んだ。ぼくの特製おにぎりだ。中に鮭やイクラをたっぷりと詰込んである。固形スープを加えておにぎりをほぐして、頃合よく煮えれば、簡単雑炊ができあがる。
「モエギさん、ぼくは感動しましたぁ。モエギさんがこんなのお料理が上手だったなんてぇ。ぼくは果報者ですぅ!モエギさんの作った料理を食べられるなんて感激ですぅ」
ぼくが朝食用に作った雑炊を食べながら、フェルは何度も同じ言葉を繰り返した。聞かされているぼくは、いい加減嫌になってきた。ぼくは耳に蓋をして、黙々と雑炊を平らげた。
「ほぉ、こら、いい匂がすると思ったら、こんなところに上玉が二人もいたぜ」
森の方から野太い声が近付いてきた。声と共に、いかにも盗賊か人攫いといった人相の男たちが、森の中から現れる。これって冒険のお約束ってやつ?ぼくはお行儀悪く、スプーンを口にくわえたまま、男たちを見つめた。男たちは薄汚れた革のアーマーを着て、ニヤニヤと薄笑いしながら近寄ってくる。
-ガチャン!
雑炊の入った器を落とした音。これもお約束みたいにフェルが対応する。
「モ、モエギさぁーん!ど、どうしますぅ?ぼ、ぼくたちは殺されるんですかぁ?」
半泣き顔でフェルは、腰でも抜けたみたいにぼくのところへ這いつくばってきた。男たちの中で一番体格がいい男が進み出て、心外だと言わんばかりの顔をする。どうやら、こいつがボスらしい。
「お嬢ちゃんたち、俺たちは何もとって食おうってわけじゃねえんだ。何も抵抗さえしなければ、いいベベが着られる仕事を斡旋してやろうって親切なおじさんたちなんだぜ」
ぼくたちを値踏みするように、男はねぶる目で見る。ああ、これは人攫いってやつね。つまり、ぼくたちを娼館に売るっていうお約束の展開だ。なんだこれまるでテンプレ通りじゃないか。それにしても、「巡察士のおじさ~~ん、ここに悪者がいますよ~~、早く来て下さ~~い」と心の中で叫ぶ。これがお約束の王道通りなりなら、助けが来る予定なんだけれどね。まあ、たぶん来るだろうなあ。ぼくは冷めた目でフェルを見る。これに男としての矜持を期待するだけ無駄だと悟る。
「ぼくたちは修業の旅の途中だ。まだ、仕事など考えていない!」
ぼくはこいつらに心当たりがあった。冒険ガイドブックに書いてあった人攫いだ。マース国の慣習を逆手にとり、修業の旅に出たばかりの子供たちを襲って北エリシュオーネの奴隷市場に売る。ここ一年の間で、被害が増大した。その正体は北エリシュオーネからの流れ者だ。巡察士や騎士団が、躍起になって取り締まっているらしい。
「や、やめてくださぁーい!」
フェルの悲鳴が上がった。ぼくが振り向くと、フェルは男に羽交い締めにされていた。あれ?ぼくの方が女の子なんだけれどなあ。やっぱり、そっちの方が女の子に見えるよな。
「役たたず!」
思わず、ぼくは怒鳴った。ちょっとした怒りだ。別にぼくよりもフェルが美人だという事実に蓋をしただけだ。悔しい。
「アニキ、こいつは男ですぜ」
フェルを羽交い締めした男が、ぼくの前の大男に告げた。男はいまいましそうに舌打ちをした。
「まあ、いい。綺麗な子供は、男でもそれなりの使い道があるっていうものだ」
男の目が一瞬、ぼくの後方を見た。チャンス。ぼくは横にジャンプして、腰のショートソードを抜いた。ある程度、男との間合いを取るためだ。深呼吸をすると、ぼくは一気に男に切り掛かった。
-カキン!
ぼくの剣は軽々と弾き飛ばされた。男の剣がぼくの首筋近くにある。ぼくは鋭利な感触から逃れようと、首を後ろに退けぞらせた。男の手がスッとぼくの胸を鷲づかみにする。あまりの痛さに、ぼくは顔をしかめた。男の顔がニヤッと笑った。
「こっちは正真正銘の女だ」
「アニキ、これを見て下さいよ」
フェルの荷物を探っていた後ろの男が、フェルのレイピアを持ってきた。ツカの部分に燦然と輝くマース国の紋章が見える。羽根を広げた二匹の鳳凰が、向い合っている図案。ぼくはこの紋章を気に入っている。理由は簡単きれいだからだ。
「ほう、これは俺たちにも運が向いてきた証拠か。そういえば、この国には十四になる王子がいたはずだ。てぇっと、こいつがその王子らしいな」
男はぼくを抱え込んだまま、フェルをチラッと一瞥した。
「モ、モエギさんを離して下さい」
か細い声が上がった。フェルだ。男に羽交い締めにされながらも、気絶しなかったらしい。フェルにしては上出来だ。こういう状況でなかったら、誉めてやりたいくらいだ。
「ほお、頼りない王子様でも、自分の女には格好いいところを見せたってわけか」
ぼくを抱えた男がフフンと鼻で笑った。それにつられて、周りの男たちもゲラゲラと笑い声を上げる。
「ぼ、ぼくはどうなっても構いません。お願いです。モエギさんを離してやって下さい」
ぼくはもがいて、首を動かした。フェルを見たかったからだ。フェルは恐くて倒れたいの我慢して、必死の形相をしている。おお、フェルが男になった。ちょっと感激。
「モエギさんにだけは、何もしないで下さい。モエギさんは大切な人なんですぅ」
男が堪え切れないといった感じで、クククと笑った。男の手がぼくのあまり大きくない控えめな胸を揉みしだいた。先程の鷲掴みと違う。ぼくの身体が震えた。これは不味い。ちょっとぼくは危機感を覚える。
「止めてぇ!」
フェルの声がひときわ高く聞こえた。
「こりゃー、いい見ものだぜ」
男たちの下品な笑い声が辺りに響いた。
「止めろ!」
殺気に満ちた声が、上から降ってきた。辺りが奇妙な沈黙に包まれる。ぼくの身体を下劣な笑みを浮かべ、撫で回していた男の手が、ビクンと震えて止まった。男が身体を震わせながら、空を見上げた。ぼくもつられて見る。
空中には男の子が浮かんでいた。神官服みたいなグレーのローブ姿、スッポリと目深に被ったフードで顔の表情は見えない。ぼくと同じくらいの年に見えるその子は、男たちを険しい目でにらんでいた。
「勝手な真似をするな!」
「お頭、申し訳ありません」
男たちが卑屈気味にペコペコと頭を下げた。おお、やっと黒幕のご登場ってわけだ。つまり、これはあれだね。やっと助けが入るってお約束だね。ぼくは口角をあげた。
「女には勝手に手だしするなと言っておいたはずだ」
-我願う。風の精霊よ、契約に従い、我の力となれ。風裂。-
ぼくの頭の中に、呪文を唱える声が響いた。
ヒューと風がぼくたちの周りに渦巻く。男たちが悲鳴を上げた。空中の男の子が、チッと舌打ちをする。
ぼくたちを取り囲んでいた男たちの体勢が外側から崩されていく。
「モエギの手を離せ!」
男たちを飛び越えて、タクミくんがぼくの前に立った。タクトくんも華麗な剣捌きでバタバタと男たちを倒している。レンダークさんがフェルを捕まえた男に、地の呪縛を与えた。フェルは自由になると、ぼくのところへ一目散に駆けてきた。ぼくを捕まえていた男が、ぼくの首筋に剣を押し当てた。ピリッとした刺激。剣を伝ってぼくの血が筋になってこぼれて行く。
「キャア!」
フェルが悲鳴を上げて、気絶した。レンダークさんが倒れたフェルの身体を支える。この場合、ぼくが悲鳴を上げるのが筋っていうもの。主役をフェルに取られて、ぼくは立場を失った。
「止めなさい。あなたにはもう勝ち目はありませんよ」
レンダークさんの穏やかな声。緊張感がまるっきりない。
「立場をわきまえて欲しいな」
男の子が空中でクククと笑った。
「そいつはほんの脇役さ」
男の子の手がスッと伸びる。大男がぼくごと空中に浮いた。
-我願う。風の精霊よ、契約に従い、我の力となれ。風縛。-
レンダークさんの唄うような呪文の詠唱。風が空中に渦巻く。ぼくたちの周りを風が取り巻いた。
「フン、こんなもの」
男の子の手がサッと上がった。それに合わせるように風が途絶えた。ぼくは驚愕した。
「さすがお頭だ」
ぼくを抱えた男が感心したように呟いた。
「暗黒魔法?」
レンダークさんの驚愕の声。今まで、余裕綽々だったぼくも青ざめた。
「そうさ、この子は貰って行くよ。もっとも、ぼくの捜している子でなければ、北エリシュオーネの奴隷市場で会えるさ。売れ残っていればの話だけどね」
男の子は楽しそうにお腹を抱えて、笑い転げた。
「あっ、そうだ。こいつらがこの子を気に入ってたら、奴隷市場にも流れないな。その時は諦めるんだね」
-我願う。光の精霊よ、契約に従い、我に力を与えよ。幻、閃光。-
聞こえてきたのは、ルイさんの唄うような呪文詠唱の声。
「うわぁーーーー!」
ぼくはポンと空中に投げだされた。辺りを包んだ閃光で、ぼくの目は見えなくなった。男の子が、いまいましそうに舌打ちする声が落下するぼくの耳に入った。
《くっ、また、あいつらに邪魔された》
男の子の声が直接、ぼくの頭に飛込んでくる。どさっと落ちたぼくは地面に激突する前に誰かに受け止められた。
「モエギ、ちょっと重くなったな」
ノブユキさんの声だ。ぼくは安堵と同時にプクッと頬をふくらませる。重くなったなんて言葉は、女の子に対して失礼じゃないか。ノブユキさんはデリカシーに欠けるところがある。ぼくが未だに信じられないのは、こんなノブユキさんが女の人からもてることだ。
「覚えていろ!」
お約束の捨てゼリフ。言ったのは、ぼくを捕まえていた男だ。空中に浮かんでいた男の子と一緒に消えたらしい。地面にのびている雑魚だけが取り残されている。いわゆる、トカゲのシッポ切り。
-我願う。水の精霊よ、契約に従い、我に力を与えよ。癒水。-
ルイさんの魔法で首の怪我の手当を受けた後、ぼくの目がやっと見えるようになった。ぼくの周りに皆の顔があった。フェルは嬉しいのか悲しいのかわからない半泣き顔をしている。レンダークさんはいつもの穏やかな笑みを浮かべてる。タクミくんの口が「バカモエギ」と動く。タクトくんは無表情。それぞれの性格がよく出ていると、ぼくは変な感動を味わった。
後ろの方では、男の子たちに取り残された男たちが、ルイさんたちと一緒にきた騎士団のお兄さんたちに縛り上げられていた。ノブユキさんがテキパキと指示を出している。そういうところは父親ながらかっこいいと思う。人さらいの一味は、騎士団のお兄さんに引き摺られていった。
ルイさんの手がぼくの首筋に触れた。
「もう大丈夫ね」
ニコッて、ルイさんが微笑む。ぼくの背中がゾワワワワァーーーッと震える。
「もう、モエちゃんったら、フェルくんと駆け落ちなんかしちゃいけないじゃない!」
ガクッ。ぼくの全身の力が一気に消え失せた気分。フェルの顔が真っ赤に燃え上がる。
「あ、あの、ぼくは別にか、駆け落ちなんて、するつもりじゃなかったんですぅ」
恥かしそうに俯いて、もじもじしながら、フェルが答えた。ぼくの目は一気に点になる。
「俺たちはモエギが誰と結婚しようが一向に構わないんだけど、じいさんが泡吹いて倒れちまった。ありゃー、完璧にダメだな」
タクミくんが腕組みしながら、他人事みたいに首を振る。タクトくんもうなずく。
「おじさまもです。お二人とも、もえちゃんに期待なさっていらっしゃいましたからね」
レンダークさんが言葉を続けた。
「あ、あの、どうかしたんですか?」
ぼくんちの事情を知らないらしいフェルが、恐々と尋ねた。
「あら、別にいいのよ。気にしないで。単にマース国の将軍と魔術士長が、二人揃って寝込んだだけだからね」
手をパタパタと振りながら、ルイさんが笑って答える。やっと、ぼくにも状況が飲み込めてきた。
「フェル!おまえ、何て書き置きしてきたんだ!」
ぼくは目をつり上げて、フェルの胸元を掴んだ。フェルの顔が引き攣る。
「ち、違うんです。もえぎさん、ぼ、ぼくはただ、どうしても、もえぎさんと一緒にいたかったんです。だから、もえぎさんと二人で出かけます。捜さないで下さいって………」
ぼくはワナワナと身体を震わせた。
「捜さないで下さいだとぉ、それって、駆け落ちの常套文句じゃないか!」
「ヒェー、そ、そうだったんですかぁ?ぼく、ちっとも知りませんでしたぁ」
フェルが間延びした声で言う。ぼくの堪忍袋がブチッて千切れた。
「バッカヤロウ!」
振り上がったぼくの手をがっしりとノブユキさんが掴んだ。
「モエギ、止めなさい。王子は知らなかったんだ」
「そうよ、それによかったじゃない。そのお陰で、こうして無事だったのよ。もし、その手紙がなかったら、皆であなたたちの後を追いかけて来なかったわよ」
ルイさんがフワリと両手でぼくを抱きしめた。ルイさんの蒼バラの香が、ぼくの周りを仄かに包み込む。
「後一歩遅れていたら、モエちゃん、どうなっていたと思う?」
ルイさんの声がハスキーボイスに変わる。うっく、ぼくはまた、背筋に悪寒を感じた。
「北エリシュオーネの奴隷市場で叩き売られて、奴隷ならまだましよね。とんでもない場所だってあるのよぉ!」
それから、思いついたようにポンと手を叩いた。顔がニヤッと笑う。不気味!
「そう、そう、あの暗黒魔法使いの坊やも言ってたじゃない。奴隷市場に出ないこともあるって。フッ、フッ、フッ、そうなったら悲惨じゃない!モエちゃん、よかったわねぇ」
ルイさんは満面に笑みを浮かべている。ふぅー、これって、やっぱり、苛めなんだ。シクシク、ぼくは心の中で涙を流した。嘆息。
「モエギ、私たちはおまえと共に旅に出ることはできない。この先にも、また、あの暗黒魔法使いが現れるだろう。これを持って行きなさい。これは魔除けだ」
楽しんでいるルイさんの傍らから、ノブユキさんがぼくの首にペンダントを掛けてくれた。手の平に乗るくらいの小さな水晶球。
「これはモエギの物だ。これが示す方向に進みなさい」
ぼくを抱きしめていたルイさんの手が数かに震えている。ポツンと生温い雫がぼくの手に落ちた。
「ごめんね。モエちゃん、これから先はもえちゃんが辿るべき試練なの。あたしたちはもう何もできない」
「ルイ」
ノブユキさんの手がルイさんの肩に触れる。合図みたいに、ルイさんがぼくから離れた。俯いて、ぼくの顔を見ないルイさん。こんなルイさんは初めてだ。ぼくはノブユキさんに説明を求めた。
「モエギ、私たちは昔、モエギに出会った。その時、おまえに約束したのだ。私たちの子供として生まれるモエギには、何も語らないと。事実はモエギ自身が知っている。北エリシュオーネの神殿へ行きなさい。私たちが言えるのはそれだけだ」
「ノブユキさん?」
「モエちゃん、あなたはあたしたちの娘。何があっても、それだけは変わらない。遠い昔から定められていた宿命でも、あたしはモエちゃんの母親になれてよかった」
そう言うと、ルイさんはバタバタと後ろも振り向かずに駆け出した。ぼくは茫然自失状態。一体、このぼくに何があるっていうの?何の説明もないまま、ぼくを始めみんながポカンとしている。
「モエギ、おまえの心残りを果たしたら、戻ってくるんだ。私たちはいつまでもおまえを待っている………おい、ルイ、待て………」
ノブユキさんも言いたいことだけ言うと、さっさとルイさんの後を追いかけて行ってしまった。ぽつんと取り残されたぼくには、あの夫婦の言いたいことがわからない。ぼくの周りの婚約者たちも、唖然として、二人が消えた方向を見つめている。唐突に現れた沈黙に、ぼくはポリポリと頭をかいた。まあ、あれが二人の通常なのだから仕方がないともいえる。二人とも言葉が足りない。自分たちで自己完結していて、他人に説明なしっていうのがよく似ている。
「一体何なんだ?」
タクミくんが呆れたように呟く。
「まあ、おじさんもおばさんも普通じゃないから」
ぼそっとタクトくんが言った。ぼくはむっとして、上目遣いにタクトくんを見た。確かに娘のぼくから見ても、あの二人は普通じゃない。普通じゃないと認めていても、それはそれ、やっぱり、実の娘のぼくとしては、あからさまに言われると傷つく。レンダークさんがまるでぼくをなだめるかのように肩にそっと手を置いた。
「ルイさんにもノブユキさんにも、それなりの葛藤があるようです。でも、二人とも、モエちゃんが一番大事なんですよ。それはわかってますよね」
ぼくはコクンとうなずいた。今更、レンダークさんに言われることじゃない。反発したぼくは、レンダークさんの手を振り払った。邪険に振り払ったのにレンダークさんは、また、ぼくの肩を抱くようにそっと両手を置いた。温かい手の感触がぼくの身体にじわんと沁み込んでくる。ぼくより十才も年上の分だけ、レンダークさんは大人だ。ぼくの視線が自然に足元を向く。
「モエギさぁん」
ヌゥッとフェルがぼくを下から見上げた。いつの間に来ていたのか、フェルはぼくの足下にかがんでぼくを見上げていた。子犬だ。見えないはずの尻尾と耳がシュンとなっている。こいつ、本当に王子なのだろうか?こいつの行動パターンに、ぼくはいつも振り回されてる。
「ぼくは、モエギさんにどんなことがあっても、必ずそばにいますぅ。ぼくが絶対に、モエギさんを守りますぅ」
足下に這いつくばった格好で言うセリフか?ぼくは空を仰ぐようにして、頭を押さえる。そうだ、考えてみたら、ルイさんとノブユキさんが帰ったのに、一緒に来た三人はここにいる。っていうことは、この先の展開がぼくには手に取るようにわかった。
たぶん、レンダークさんはルーイのおじいちゃんに、タクミくんとタクトくんの二人は、オーダのおじいちゃんに泣きつかれてここに来たんだ。ぼくとフェルを二人っきりにしないために。朝早くに叩き起こされて、かわいそうに。ぼくはもう一度、雑炊を作ることにした。これで、ぼくが用意した携帯食はなくなり、お昼の分がなくなってしまうことになる。でも、まあいいか、おじいちゃんたちに苦労させられているのは、ぼくだけじゃない。
最近、語彙が特に減った気がします。年かなあ。