ぼくの住む世界について
ぼくは大きな銀杏の木を慎重に下りながら、ふとぼくはかつて住んでいた北にある駐屯地を思い出した。それはマース国に住む人たちには学校で必ず教えられる神代からの歴史と絡んでくる。
伝説によると、神はエリシュオーネを創り上げてから、約二千年前までぼくたちの祖先と一緒に暮らしていたという。神の恵のお陰で、人もモンスターも魔物も動物もエリシュオーネに生きる生き物は、全てが平和で満ち足りた暮らしを送っていた。神の下では全てが平等だったからだ。
約二千年前、神は一人の少女を愛した。少女の存在はエリシュオーネに争いを招いた。まず、神官たちが対立した。神が一人の少女に愛情を注ぐことをよしとしなかった者たちと神の愛情は不偏であると信じた者たちが争った。神の下に一つにまとまっていた神代にも、幾つかの国家があった。それらの国々は神の名の下に、一つの同盟国家を作り上げていた。神官たちの争いが、その同盟を破り、各国家間の戦争へと発展するには、たいして時間がかからなかった。人間たちは自分たちの争いに、モンスターや魔物や動物たちをも巻き込んだ。
少女はエリシュオーネ大陸の南にある小さな国の王女で、同盟国家時代の神の巫女の一人だった。少女の王女としての身分が、余計に人々の不安をあおったらしい。神は自分の軽率な行ないが招いた結果を嘆いた。少女とは別れて、エリシュオーネ大陸の東にある小さな孤島に渡った。だが、エリシュオーネ大陸の北の地に住む人々は少女を許さなかった。少女は自分の罪を認めて、北の地で自害したとも、処刑されたとも伝えられている。
少女が死んだ瞬間、エリシュオーネ大陸が大きく揺れた。エリシュオーネ大陸の中央に大陸を北と南に分断する広大な山脈が現れた。地の壁をも思わせる突然の山脈の出現に、神の力を恐れた南の人々はエリシュオーネ山脈と名付けた。時を同じくして、モンスターや魔物、猛獣たちが人間を襲い始めた。神の怒りが、エリシュオーネを暗黒の混乱に陥れたのだ。暗黒時代の到来に、神代は終わりを告げた。
神の愛した少女を死なす原因でもあり、更に神の恵がなくなった北エリシュオーネでは、争いが日常茶飯事に行なわれるようになった。南も例外ではないが、神を信じていた南エリシュオーネの人々にはわずかだが、神は恵を与えてくれた。大陸を分断したエリシュオーネ山脈は、地の壁となり人の往来を拒んだ。
千年もの間、エリシュオーネの暗黒時代が続いた。やがて、神はその終わりを告げるかのように、東の果てと西の果ての山脈の外れに北と南を結ぶ道を開いた。終わりの道と呼ばれる二つの道は、最初、北と南の商人たちによって、純粋に交易のために使われた。終わりの道での交流が始まってから、千年過ぎた今では、イーストエンドと呼ばれる東にある終わりの道は北エリシュオーネからの軍事侵攻路になっている。
イーストエンドの南エリシュオーネ出口は、マース国の領土であるため、マース国では騎士団を駐屯させて、北エリシュオーネの侵攻に備えている。毎日が緊迫した駐屯地では、正規の騎士団や魔術士隊だけでなく傭兵や冒険者崩れも多くいた。駐屯地は一つの大きな街になっていて、活気にあふれ、ぼくは五才までそこで暮らしていた。
ぼくの住む南エリシュオーネには、三つの国家がある。ぼくの住むマース国は、南エリシュオーネの東端から北部、中央部にまたがる広大な領地を持つ。南エリシュオーネの三分の二に匹敵する広さだ。他の南部にあるフォース国と西部にあるディーア国とは、同盟を結んでいて、暗黒時代が過ぎてから、南エリシュオーネの国家間の争いはなくなった。神の恵が北よりも多く注がれている南エリシュオーネには、住み着いているモンスターや魔物たちも比較的にはおとなしい。北エリシュオーネの人間が侵攻してこない限り、南エリシュオーネは平和で穏やかな世界だった。
北エリシュオーネのことは、一般にはよく知られていない。ぼくは学校に通っていた時に、北エリシュオーネから来た商人とひょんなことから、話をしたことがある。それで、多少のことはわかっていた。
北エリシュオーネの商人たちの多くは、ウエストエンドと呼ばれる西の果ての出口にある自由都市トレェードに住んでいる。交易ができなくなると、一年の半分を雪と氷で閉ざされる北エリシュオーネの国々は生活に困窮するわけで、商人たちは厚遇されているらしい。彼らの都市は、不可侵条約で守られていると言っていた。
北エリシュオーネでは、エリシュオーネ山脈で分断されて以来、小国家が乱立し、戦争に明け暮れていた。暗黒時代が過ぎてからも、その状態は変わらなかった。それが、今から十五年前に、北エリシュオーネは一つの国に統一されたのだ。国の名は、ゼニス国。北エリシュオーネの南部の小さな国だったゼニス国は、わずか十三才で王位を継いだ少年王アザレイが次々に周辺諸国を制圧したという。
アザレイは北エリシュオーネを統一すると、念願の南北エリシュオーネの統合を目指した。それが、十三年前の大侵攻だった。一時は駄目かと思われたマース国騎士団だったが、ルイさんとノブユキさんが危機を救った。ぼくはこの戦争の詳細は知らない。二人とも、照れて話したがらないからだ。救国の英雄となった二人は、国王の命令で、騎士と宮廷魔術士として迎えられた。国王の命令には逆らえないおじいちゃんたちは、渋々と半分だけ勘当を解いたのだ。それでぼくたちは、エイーガに戻ることになる。おじいちゃんたちが今でも解かない残りの半分の勘当とは、言うまでもないぼくの不幸の源である後継者問題だ。虚しい。
エイーガの二の街を抜け出したところで、ぼくはもう一つの足音に気が付いた。尾行するつもりなら、もっとうまくやればいいのに、時折、ベチャッとこけた音や枯れ枝をポキンと踏みつける音が聞こえる。それだけで足音の主がぼくには見当が付いた。
ぼくは一気に駆け出して三の街の学校を曲った。足音が必死になって追いかけてくる。一時陰に潜んだぼくは足音の主の前に急に姿を現した。
「わぁ!」
ぼくの声で足音の主は、ドタン、ベタンと尻餅をついた上に地面に転がった。ぼくは頭痛を感じて、ちょっと頭を押さえた。転がっているのは、思った通りにフェルだったからだ。情けなく道に転んでいる彼にぼくは手を差し出して彼を立たせた。フェルはヤァと挨拶するみたいに片手を上げると笑みを浮かべた。白々しい。
「奇遇ですねぇ。モエギさんも今から修業の旅に出るのですかぁ?ぼくもそうなんですよぉ。できたら、御一緒しませんかぁ?」
夢中で暗記してきた文章を棒読みしているといったフェルの言葉に、ぼくはますます頭が痛くなった。こいつは天然を装っているけれど、本当は策士なんじゃないかとチラッと思ったくらいだ。
「それで、一体いつから、ぼくの家を見張ってたわけぇ」
ぼくは学校の塀に寄り掛かると、腕組みをしてフェルをにらんだ。校門のそばの街灯に照し出されたフェルは、ナメシ革の簡易アーマーと黒のショルダー付きのマントという一応は剣士らしい格好をしている。腰に差しているのは、細みの剣であるレイピア。どこから見ても、フェルは麗しい女剣士のいでたちだった。そう、物語に出てくるような男装の女騎士。むしろ、その方がよかったのかもしれないとぼくは思う。王女なら、立派な王配を選べばいいのだから。それならこの国は安泰だとぼくは断言できる。
「あ、あのですねぇ。ぼ、ぼくはそのう、どうしても、モエギさんと旅をしたかったのです。いつも、モエギさんに、ぼくは助けられてばかりいたので、モエギさんが旅に出るのなら、ぼくは少しでも、そのう、あ、あのう、手助けをしたいなあと思いましたぁ」
モジモジと胸の前で、手を組んだり外したりしながら、フェルはやっと言い終えた。その間、ぼくはイライラする気持ちをなだめるのに必死だった。
「帰れ!」
全ての感情をこの一言に込めて、ぼくは言った。フェルの顔が歪んだ。あ、こいつ、泣く。まずい、こんなところで泣かれたら、ぼくは困る。ぼくはとっさにフェルの口を手で押さえた。必然的にぼくは、フェルと向い合った。こんなに近くで彼の顔を見るのは始めてだった。
「バカヤロウ、こんなところで泣くなよ」
フェルの薄い水色の瞳は、すでに涙で濡れている。ぼくはまじまじとフェルの顔をながめた。長い睫、女の子としてもこれなら生きていける。綿アメみたいな繊細なブロンドから、仄かに香る甘い匂。気が付くとフェルもぼくを見つめている。ぼくはあわてて手を離した。まるでお互いを見つめあう恋人同士みたいだと思ったからだ。冗談じゃない。フェルなんて問題外だ。
「モエギさん、ぼくを見捨てないで下さぁい。ぼくにはモエギさんが必要なんですぅ」
ぼくは黙って歩き出した。フェルは後から情けない声を出しながら、ついてくる。変な付録がついてしまった。まあ、いいか。どっちみち、ぼくはどこかのパーティに入れて貰うつもりだった。それがフェルのパーティに入ったと思えばいい。ここで置いていったら、絶対にやばいことになる。危険だ。連れて行っても危険、置いていっても危険、それならまだそばにいた方が少しは安全かもしれないとぼくは判断を下したのだが、果たしてこれが正解だったのかと後悔することになる。
ぼくたちはエイーガの街を足早に過ぎた。ぼくはこれ以上、変な付録を増やしたくない。夏の夜は欠伸一つで過ぎて行く。エイーガの四の街を過ぎた頃には、もう東の空の地平線が白く光り出してきた。
ぼくとフェルがいなくなったことは、すぐに知られるだろう。いや、もう知られているかもしれない。だって、フェルは王子だ。絶対に影がついている。王子に何かあれば由々しき問題だ。きっと、この場も誰かが影としてついていると思う。王族にはそういう護衛兼諜報任務の人が守り従うとノブユキさんから聞いたことがある。
このまま大人しく二人で修行の旅に出してくれるはずがない。王家はそれでいいと思うかもしれないけれど、ルーイ家とオーダ家がそれを許すわけがない。また、おじいちゃんたちが騒ぎだして、あの三人が渋々とやってくる未来が見える。
それまでに少しでも遠くに行こうと決めた。どうせ捕まるなら、ほんのわずかでもいいから、旅の自由を満喫したい。本音は一人がよかったのにとちょっと恨めしく隣のフェルを見る。
「モエギさんの気持ちはよくわかりますから、絶対に今日中に家を出ると思っていましたぁ。だってモエギさんの性格は十分わかっていますから、面倒ごとは嫌いですよねぇ。だから、ぼく、ずぅっとモエギさんが出てくるのを待ってたんですよぉ。必ず、一人で行くと思っていましたから、ぼくはモエギさんのそばを絶対に離れませんからねぇ。今度は絶対に離れませんからねぇ」
何の決意かわからないが、フェルは自分うんうんとうなずきながら、一人で熱く語りだした。何それ、もしかして、フェルってストーカーなのってビビりたくなるような内容だったので、厄介な奴に懐かれたとわが身の不幸を嘆いた。
それにしてもだ。ぼくにはこれという才能もルイさんみたいな美貌もない。ごくごく平凡なぼくに逆ハーレム要素なんてどこにもあり得ないのに、どうしてこうなった?
あいかわず駄文です。すみません。