ストーカー 【202号室】
ある日突然……何もかもがどうでもよくなった。
今日が何月何日で。
会社をやめてからどれぐらい経ったのか。
さっぱりわからない。
わかるのは、今が夏ってことだけだ。
エアコンを切ると、むわっと暑くなるから。
朝から晩までエアコンを入れている。
部屋中が冷え切っていて、まるで冬だ。
長袖の服を着て、羽毛布団を被って転がっている。
寝て、
寝て、
寝て。
食って、クソして寝る。
その繰り返しだ。
何もしたくない……。
起きる気力もない……。
誰にも会いたくない……。
ほんとはメシも食いたくない……。
息をするのも面倒だ……。
このまま死んでしまいたい……。
ああ、でも……
自殺するのも面倒だ。
……なんで、こんなことになったんだ……?
おれは普通だった。
働いていた。
彼女もいた。
友人もいた。
悩みらしい悩みもなかった。
……なんで、こんなことになったんだ……?
来年の秋頃がいいと、あいつは言っていた。
目標額は600万。
がんばって貯めようと笑っていた。
……なんで、こんなことになったんだ……?
どうして、あいつはここにいない……?
おれは捨てられたのか……?
……なんで、こんなことになったんだ……?
思い出せない。
頭をつかおうとすると、疲れる……。
何もしたくない……。
何となく。
携帯をいじった。
けど、見たいものはなく。
トイレの帰りに。
ふと、リビングを見渡した。
……足の踏み場がない。
ゴミの袋がトーチカのようだ。
洋室からトイレへの道だけは確保しているが……
ゴミ置き場に持って行けず、溜めに溜めた生活ゴミがゴロゴロと転がっている。
一番古いものは、何週間……いや何カ月前の物だ?
ものすごく臭いはずだ。
だが、よく……よくわからない。
鼻がバカになっている。
袋の中はどうなってるのか……
今は夏だ。
湿気も腐敗もひどい。
袋の中には虫が山のように……
想像するだけで気が滅入る。
あのゴミ袋の山を踏み越えていかなきゃ、出口まで辿り着けない……。
……外へなんか出られない。
家電が目に入った。
留守電が五件……。
再生して、後悔した。
全ておふくろからだった。
『明弘。お盆は帰って来るの? 連絡ちょうだい』
ピー。
『明弘。お盆は休みでしょ? お父さんがあんたと話したいって。帰っておいで』
ピー。
『明弘。留守電聞いてないの? お盆くる? こない?』
ピー。
『明弘。携帯の方にも連絡入れたのよ。聞いてるわよね? あんたが無視するから、お父さんうるさいのよ……連絡して』
ピー。
『明弘。お父さんには、あんたは仕事で来られないって言っといたから。あんたの名前でお供え物を買っておくわね。何も心配しないで。お布団干して待ってるわ。連絡なしに来てもいいからね?』
――電話線を引き抜いた。
おふくろは、昔から変わらない。
おやじもきっと変わっていない。
おふくろは、いつもおやじから一歩引いていた。
おやじを立てて敬っていた。
俺にもそうしろと教育した。
『お父さんはお仕事がんばってるのよ。せめて家では、気持ちよく休ませてあげましょうね』
小さい頃は、おやじの顔色をうかがってばかりいた。
怒らせてはいけないと、いつもビクビクしていた。
あんな敬う価値もない男に……。
いい事はぜんぶ自分の手柄。
悪いことはぜんぶ他人のせい。
好きなのは、自分語り。おれはこんなに苦労してるんだ、ねぎらえと、事あるごとに求めてきた。
言いたいことだけを言い、他人の話は無視するか、頭から否定する。自分の価値基準を『正義』と信じて疑わない。
そんな自己中心的な傲慢な男……尊敬できるわけがない。
失業のことは、家族に知らせていない。
再就職活動もせず、ただゴロゴロしていると知ったら……
おやじは怒って、俺をののしるだろう。
『甘えるな』『だらしない』『家の恥だ』……言いそうな罵倒はいくらでも浮かぶ。
おふくろもののしられるだろう。
『おまえの育て方が悪かったんだ』と。
実際、俺の失業におやじは関係ない。おふくろも、だ。
しかし、俺の人格形成に両親は深く関わっている。
おふくろに非があるのなら、おやじにもある。
そんな当たり前の事をわかろうともせず、あの男は自分の正義をふりかざして説教するだろう。
ネチネチ責め続けるだろう。
おんなじ内容の説教を、グダグダグダグダ……グダグダグダグダ。えっらそうに毎日毎日毎日毎日……。
……ぜったい帰省しない。
そもそも……外に出る気力がない。
電話もしたくない。
俺は何もしたくないんだ。
あいつのお守りは、おふくろがすればいい。
好きであの男と結婚したおふくろが……。
実家に帰らず、このまま一人……。
貯金が尽きる前に、俺は死ぬだろう。
外へ出て行くには、すごいエネルギーが必要なのだ。
今の俺には無理だ。
最後にコンビニへ行ったのはいつだったか……
――いずれは餓死だ。
俺の未来はもう決まっている。
扉を開ければ、何処へでも行けるのに。
歩く気力がわかない……。
自分の部屋を牢獄にして、俺は好きで籠り続けているのだ……ゆるやかな自殺だ。
一日に一回、食べるか食べないか。
胃が小さくなってきたような気がする……。
家にあるもので細々と食いつないでいる……。
今日が何月何日で。
会社をやめてからどれぐらい経ったのか。
さっぱりわからないが……。
今は夏だ。
もうすぐお盆? それとも、もう過ぎたのか?
おかしいよな……
俺が退社したのは、春なのに。
なんで食料が尽きないのか……
カップ麺が無くならない。
食っても食っても、まだまだある。
洋室の物入れにも、リビングの戸棚にも。
安売りの時に、2ケース箱買いした。カップ麺はいっぱいあった。
だが、それでも……ひきこもってから、もう二カ月? 三か月? さすがに四カ月にはなってないと思うが……
なんでまだ……半分以上残っているんだ?
スナック菓子。
チョコレート。
彼女にすすめられて置いといた、災害備蓄品。カロリー●イト、缶詰、レトルトおかゆ……
食ったはずの物が、しばらくすると何処からかひょいと出てくる。
誰かが、買い足してくれているのか……?
俺が寝ている間に、こっそり部屋に入って来て……
俺を支えてくれているのか……?
誰かが俺を見守ってくれているのか……?
ふと、彼女の顔が浮かんだが……
……ありえない。
虫嫌いの彼女は、このリビングに居られまい。
悲鳴を上げて、すぐに逃げ出すだろう。
大学時代の友人や元同僚たち……
こっちで顔見知りになった者も居るが……
俺なんかをわざわざ訪ねて来るか……?
合鍵を持っているのは、彼女だけだ。
ここの契約時に、スペアキーをおふくろに渡したような気もするが……よく覚えてない。
この部屋に勝手に入れるのは、あとは……大家か不動産屋か……。
おふくろは実家に居るはずだ。
だいいち、おふくろなら……
食料の差し入れだけで帰るはずがない。
寝てる俺を叩き起こして、『あんたも手伝いなさい』と汚部屋の掃除を始めるはず。
いったい誰が俺を生かしているのか……?
親切な誰かは、他にも何かしているのだろうか?
玄関がゴミで埋もれないのは……もしかしたらゴミの袋を少しづつ捨ててくれているからか?
ゴミ袋の数が減っているような気もするが……
……よくわからない。
しばらくリビングを見つめ……
俺は洋室に戻った。
考えすぎて、疲れた……。
眠い。
眠い。
眠い。
冷え切った部屋の中で、俺は羽毛布団にくるまった。
この部屋に誰かが出入りしていたからって……それが何だ?
どうでもいい。
その誰かが、エサをくれるならもらうだけ……。
その誰かが、俺を殺すなら、殺されるだけだ……。
この部屋でこのまま一人……。
貯金が尽きるまで、何も変わらない。
俺はここに居座り、飼われ続ける。
寝て、
寝て、
寝て。
食って、クソして寝る。
その繰り返しだ。