sub 彼女達は釣りを始める
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日が昇るよりずっと前から彼女は広間のソファーに座って本を読んでいた。
ソファー近くのテーブルに置かれたランプが彼女の手元を照らし、小さな欠伸を彼女は手で押さえる。
そしてしばらくしてあの男が寝ているだろう部屋の向こう側から唸り声が聞こえて来た。それは両手を上げ、背筋を伸ばし、欠伸を掻いてこちらに来る男の姿を容易に想像できた彼女は小さく微笑んだ。
男が寝ていた部屋のドアが開き、彼はソファーに座って本を読む彼女に向かってこう言うのだった。
「お前……まだ本を読んでたのか?」
「ええ、悪い?」
そう言って彼女はいつもの様に返答する。
すると男は心配そうな口調でこう言葉を返してくるのだった。
「本当に寝てないのか?」
「いいえ、寝たわよ」
「じゃあ、起きて来たってことなのか?」
「ええ、そうね」
「いつも、この位に起きてるのか?」
「そんな訳ないでしょ? たまたま目が覚めたのよ」
「そうか……」
そう言うと男は剣を手に取って外へと向かう。
それを彼女はチラリと視線を本から動かしてその姿を見ると同時に男が言う。
「それじゃあ俺は行くよ……」
そして男はこう続ける。
「あのメイドが起きてないみたいだけれど、日が昇ったら起こして、北門に来いって言っといてくれ。それじゃ……」
そう言って男は軽く片手を上にあげて背を向けながら手を振るのだった。そしてドアを開けて外へと出ようとした時、彼女は彼を呼び止めた。
「ねえ……」
男はその声に反応して振り返る。そして彼女は視線を本に向けながら小さな声でこう言うのだった。
「気を付けて行ってきなさい」
「……ああ、気を付けるよ」
そう言って男は嬉しそうに外へと出て行った。
男が外へ出て行くと同時に彼女は開いた本を傍のテーブルに置き、ランプの光を消す。
そして立ち上がって自室へと向かおうとした時、ゆっくりと中央の部屋のドアが開き、中から出て来たメイドがこう聞いてくるのだった。
「おはようございます。エレナ様。今からお休みですか?」
「ええ、何か問題が在るのかしら?」
「いえ……ですが、エレナ様には少し驚かされました」
「何の事かしら?」
「シンジ様の為に自らの睡眠時間を削ってまでお見送りするなんて……といったところでしょうか」
「ただ、寝付けなかっただけよ」
「そうですか。では、もうご安心してお休みください。今日と明日の護衛仕事、私が命を賭してシンジ様をお守りしますので……」
「そう……」
そう言ってエレナは自室へ戻ろうとした。だが、不意にあの男がメイドに対して伝えてくれと言っていた伝言を思い出すのだった。
「そういえば……あの男がアナタにこう言ってたは『日が昇ったら北門に来い』だそうよ」
「はい、かしこまりました」
それを最後にエレナは無言で部屋の中に入って行くのだった。
深夜の中途半端な時間に起き、彼女は今の今まで暇つぶしに本を読んで起きていた。
目は疲れて、余り眠れていなかったせいなのか。彼女はベッドに入るとすぐ眠りにつくのだった。
温かい日差しが窓からエレナの部屋を照らす。
それに気が付いたエレナは小さな欠伸を手で押さえ、ぼやけた視界を手で拭う様に擦りながら目を覚ました。
「よく眠れたわ……」
寝起きの第一声がそれだった。
目を覚ました彼女はいつもの通りに広間へと向かう。そして食料が仕舞ってある棚から魚の燻製の入った袋を手に取った。すると袋の中は軽く、中を覗くと少ししか入っていない事に気が付いた。
――私のご飯が……
困った表情を浮かべたエレナは少ない魚の燻製を一つ口に咥え、残りを棚に仕舞った。
そして、彼女は口に咥えた魚の燻製を食べ終え外へと出て行くのだった。
時間は昼過ぎといったところだろう。その時間帯にエレナが雷斧亭に入ると、客は少なく、テーブルを拭いて片づけをするローラの姿が目に入るのだった。そしてエレナに気が付いたローラはいつもの様に笑顔で接客するのだ。
「いらっしゃいませ!! 雷斧亭へようこそ!!」
「ええ……」
エレナはローラのその明るい笑顔から逃げる様に視線を逸らし辺りを見回した。
「今日はお食事ですか?」
「そうね……そうするわ。あと、いつもの奴を帰りに用意しておいてくれるかしら?」
そう言いながら空いた席にエレナが座るとローラは申し訳なさそうにこう返答する。
「あっ……すいません。ここ最近、魚の水揚げが少ないみたいで今は品切れになってるんですよね……」
そう言ってローラは苦笑いをエレナに向けてそう言うのだ。
「なら、明日か明後日にでもあの男に持たせて貰えるかしら?」
「ランデルセンさんの話だと、当分こっちに魚が回って来る事はないって言っていましたから。明日、明後日にも用意できないと思います。でも代わりにお肉の燻製なら沢山用意できますよ!!」
「要らないわ」
「うぅ……ですよね……」
ローラは残念そうな顔をしてこう続ける。
「とりあえず。ご注文をどうぞ。魚以外なら在りますよ……」
「なら、魚の香草焼きで」
「魚より、豚肉とか牛肉とかの方が美味しいですよ~なんて……」
「まさか、品切れって……一匹も用意してないのかしら?」
「いえ、お昼時の注文分で少ない魚はなくなっちゃいました。なので用意できる料理は魚以外しか用意できません」
そうローラは言い切り、それを見たエレナは呆れた声で彼女にこう言って立ち上がる。
「なら、帰る事にするわ」
「ま、待ってください!!」
「何かしら?」
「駄目ですよ! エレナさん! 魚ばっかり食べてると体がおかしくなります!! この機会にお肉と野菜を克服しましょう!!」
「あの……別に食べられない訳じゃないのよ?」
「なら、なんで魚しか食べないんですか?」
「子供の頃からの習慣なのかしらね……肉を食べると太る。魚を食べると痩せる。なんて言い聞かされて育って来たのよ。だから基本的には魚をメインに野菜は付け合わせ、肉というモノを口にしたことは殆どといっていいほどないわ」
「な、なるほど……でも、食事はバランス良くとらないといけないんですよ!」
「なら、その理由を説明してみなさい?」
「えっと……それはですね……だ、駄目だからです……」
そう言ってローラはエレナに向けた視線を横に逸らしてそう呟く。
エレナは呆れた溜息を一つ吐いてその場から立ち去ろとするが、体躯の良い男が後ろから声を掛けてエレナを呼び止める。
「おい、エレナ。そんなに魚が食べたいならお前にコレを貸してやろう」
芝生の様な茶色の短髪に口髭を生やした雷斧亭のマスターであるゴードンは、一本の釣竿をエレナに手渡すのだった。
「東に小さな川が流れているところがあるからな。そこで川魚が釣れるはずだ」
「あの……釣りなんてやったことがないのですけれど……」
「なら、ローラと一緒に行ってくればいいんじゃないか?」
ゴードンはそう言いながらローラにもう一本の釣竿を手渡した。
「午後の分の魚がないのなら、自分達で調達すればいい……そう思わないか?」
ローラは困った表情で笑いながらゴードンの言葉に渋々了承するのだった。
「なら、一緒に魚釣りにでも行ってみましょうか? エレナさん」
「これって、アナタが私の分まで魚を釣れば解決するんじゃないかしら……」
「駄目ですよエレナさん。働かざる者食うべからずです」
「いえ、お金ならすぐに用意……」
「さあ、行きますよ!」
こうしてローラと一緒にエレナは東へ向かうのだった。
ローラとエレナは釣竿を片手にカイスの東側に在る、緑の木々で囲まれた渓流に来るのだった。
エレナは渋々といった表情で、ローラは嬉しそうな笑顔を浮かべながら彼女達は釣りを始めようとする。
「ところで、釣りには餌が必要なんじゃないかしら? 餌を持って来なかったのだから、今日の釣りは中止にしてさっさと帰りましょう」
「大丈夫ですよ、エレナさん。餌ならそこら辺に沢山在りますから」
そう言ってローラは流れる川の手前でしゃがみ込み、地面の少し大きな岩をひっくり返す。
「ほら見て下さい、エレナさん。こんなにミミズが……」
「帰っていいかしら?」
「駄目ですよ、私一人で釣りをするなんて退屈です。だから一緒に居て下さい。それに、ここでお魚を釣っておかないと魚料理も食べれませんよ?」
「別に私が釣らなくても、アナタが釣った魚で料理すればいいだけの話じゃない……」
「なら、私が釣ったお魚はエレナさんには絶対食べさせません。これでエレナさんが自分で魚を釣らなきゃ食べられない事になっちゃいましたね」
「……」
それを聞いたエレナは黙り込み、ローラは鼻歌交じりでミミズを釣り針に引っかけるのだった。
「アナタ……よく平気ね……」
「はい、全然平気ですよ。子供の頃にから慣れっこです」
そしてローラは釣竿を軽く振り、餌の付いた釣り針を川に投げ入れる。
それを見ていたエレナも同じ様に川に向かって釣竿を振るうが、川に投げ入れられたのは餌の付いていないタダの釣り針だった。
「あの……エレナさん……餌を付けなきゃ魚は釣れませんよ?」
「仕方がないわ。アナタの様に笑顔でミミズを針で串刺しにした挙句、川に投げ込み窒息死させるなんて芸当……私には不可能よ」
「その言い回しだと私がとても残酷な人間に聞こえますね……」
そしてローラは困った顔を浮かべながらこう続ける。
「私が餌を付けましょうか?」
ローラがそう言うとエレナはすぐさま竿を振り上げて、空中に垂れ下がった釣り針近くの糸を指先で掴みながらローラの方へと近づくのだった。
「そうしてくれるかしら?」
潔い態度を取るエレナにローラは困った様な苦笑いを浮かべながらも、エレナの釣り針にローラは餌を付けるのだった。二人は川に釣り針を投げ入れ、魚が掛かるのをじっと待つ。そして数秒してエレナがこう呟くのだ。
「釣れないわね……」
「まだ、始めたばっかりじゃないですか……」
「本当にこの川に魚が居るのかしら?」
「居ますよ、ほらそこに魚の影が映ってるじゃないですか」
エレナとローラはそんな当たり障りの無い会話を途切れ途切れに続ける。
そして話題が無くなり、数秒の静寂の中で彼女達はじっと釣り針を見つめるのだった。
だが、いつになっても魚は釣れる気配も竿が微かに動く気配も無かった。
そんな中でローラは唐突にエレナに向かってこんな事を尋ねる。
「エレナさんって、シンジさんの事をどう思っているんですか?」
その言葉にエレナの釣竿を持つ手がピクリと反応し、少し間を置いてからローラにこう聞き返すのだった。
「それはどういう意味かしら?」
「意味も何も、言葉通りの意味ですよ」
そう言いながらローラは視線を釣り針が落ちる川に向けながらこう続ける。
「好きなのか、嫌いなのか、はたまた愛しているのか……」
「……」
その言葉にエレナは無言で彼女の言葉の意味を考えた。何故ここでそんな言葉を口にするのか、その真意を考えながらも彼女はこう返答する。
「私があの男の事をどう思ってもそれは私の勝手じゃないかしら? それを一々アナタに報告する必要が在るのかしら?」
「そうですね。ただ気になったんですよ。エレナさんがシンジさんをどう思っているのか……」
そう言いながらローラは優しい微笑みを浮かべながら自分の考えを語り出す。
「シンジさんはとても良い人です。優しいし、働き者だし、容姿も悪くありません。私は正直好きですよ、シンジさんの事が……エレナさんはどうなんですか?」
その言葉を聞くとエレナはローラを試すような言葉でこう返す。
「そうね。アナタと同じで愛してはいないわ」
エレナの言葉にローラは苦笑いを浮かべながらこう返答する。
「やっぱり、バレちゃいましたか……」
「好意と愛は違うもの……そういうことでしょ?」
「ええ、その通りです。好きと愛してるじゃ意味が全然違います」
そしてローラはこう続けていう。
「でも、好意はいつの間に愛にすり替わってしまうモノですよ?」
エレナはローラが発する言葉の意味を薄々理解しながらも、エレナはこう返答する。
「アナタの好意が愛に変わるかもしれない……ということかしら?」
「はい、その通りです」
「でも、そんな事をわざわざ私に話す意味がわからないわ……」
「だって、エレナさん……シンジさんの事が好きじゃないですか……」
「私がいつ、あの男の事を好きだとアナタに言ったのかしら?」
「じゃあ、愛してるってことですか?」
そう言うとエレナは溜息を一つ吐いてからこう返答する。
「好きでもないし、愛してもないわ、あんな男のことなんて」
「じゃあ、嫌いなんですか?」
「別に……嫌い……という訳でもないわ……」
「はっきりしませんね」
ローラの言葉に対して少しイラついた表情を浮かべたエレナは、はっきりとした口調でローラにこう返答する。
「でもこれだけは言えるわ……私はアナタの事が嫌いよ」
その言葉を聞くローラは苦笑いでこう返答する。
「はい、多分そうじゃないかなとは思ってました。でも私はそんなエレナさんが好きですよ」
「おかしな娘ね……アナタ……」
「私はエレナさんみたいに自分の言いたい事をはっきりと言える人が羨ましいです。嫌いな人に嫌いと面と向かって言っちゃうんですから、それって凄い事だと思います。そんなエレナさんだからこそ、私はこうやってシンジさんをどう思っているのか? と直接聞いてみたのですが……やはりエレナさんも女の子ということなんですかね。はっきりとした言葉が返って来なくて少し残念です」
「最初に言ったけど……アナタがあの男をどう思っていようと、私があの男をどう思っていようとも、どうでもいいことじゃない? それをわざわざ確認する意味が判らないわ」
エレナがそう言うとローラはこう話題を切り出した。
「恋愛は釣りに似ている。昔、こうやって釣りをしている最中の雑談の中で聞いたお話です。釣り人は魚を求めて水辺へ向かい、餌の付いた釣り針で魚を釣る。なら世界で一匹だけしか居ない魚を釣るという事になった場合、一番最初に見つけた人にそれを釣る権利が在る。と私はそう思っているんですよ」
そしてローラは続ける。
「だから私は最初にその魚を見つけた人にこう聞くんです「そこの魚を釣ってもいいですか?」と。そしたら釣り人ははっきりしない答えを口にするのでした。なら私はこう言ってその釣り人の決断を急かす事にします。「今、釣らないなら。私が釣っちゃいますよ? いいんですか?」そう言いながら私はその魚を釣る為に糸を垂らすのでした。もしもこんな時、エレナさんだったらどうしますか? アナタは一番最初に世界で一匹しか存在しない魚を見つけ、私が言った状態になった時。アナタは魚を釣りますか? それとも見ているだけですか?」
「私は……」
「もしもその釣り人が「私が釣ります」と言うのだったら。私は遠くからその様子を見守る事でしょう。もしもその釣り人が「私には興味無い」と言うのだったら、私は喜んでその魚を釣り始めると思いますよ。でも、曖昧な受け答えが一番困ります。好きではない、愛してない、嫌いじゃない。そんな曖昧な言葉ではなく、はっきりとした言葉で言って欲しいんです。そうじゃないと、その魚を巡って酷い争いが繰り広げられるかもしれないんですから……そんなは嫌なんですよ……」
「……」
そしてローラは何かに気が付いた様にこう言うのだった。
「ご、ごめんなさい。エレナさん。私、どうかしてましたね……」
「それがアナタの本心なのでしょう?」
「そう……ですね……」
それから彼女達は無言で釣りに勤しむのだった。
目的の川魚は一匹も釣れる事は無く、日暮れと共に彼女達は帰路に着く。
「今日は残念でしたね」
「そうね……」
「エレナさんの分だけでも釣れれば良かったんですが……」
「ねぇ……」
そう言うとエレナはその場に止まってローラを呼び止める。
ローラが振り返るとそこには真剣な眼差しを向けるエレナの姿がそこには在った。
それを見たローラはいつもの様に笑顔を向けてエレナにこう尋ねる。
「どうしたんですか? エレナさん」
「私は……シ、シンジの事が……その……好きとか嫌いとか……愛しているとかじゃなくて……ただ興味は在るわ……それだけよ……」
エレナは視線を真っ直ぐ向けながらも、絞り出した言葉は口に出す毎に小さくなっていく。
だがそれでも彼女の言葉はローラにはっきりと届いた。それを聞いたローラは笑みを浮かべてこう返答する。
「結局、曖昧なままじゃないですか。でも、興味は在るんですね」
「ええ……」
「じゃあ、私は釣り人にこう尋ねましょう「世界で一匹しか存在しない魚を私が釣ってもよろしいですか?」と。エレナさんはその言葉に対してなんて答えますか?」
「私は……」
そう言ってエレナは口ごもる。どう答えていいのか、自分の気持ちが整理できていな中で彼女はまだ答えを見つけ出せずに居た。そしてエレナが何かを口にしようとした瞬間。どこからともなくローラを呼ぶ声が聞こえて来るのだった。それはエレナの知らない冒険者で、ローラの店に良く来る客の様だった。
冒険者の男がこちらに向かって叫んでいる内容はゴードンさんが早く帰って来いと呼んでいるそうだ。
それを聞いたローラはエレナに対してこう言う。
「この話はまた今度にしましょう、マスターが呼んでるみたいなんで……それじゃあ先に行ってますね!!」
そう言ってローラは駆け足で街へと戻って行く。
その後ろ姿を見たエレナは、自分が何を考え、何を思い、何を言葉にしようとしたのか、それを安堵と共に忘れてしまった。だがローラの言葉のせいで、自分がシンジという存在に少なからず惹かれているという事を自覚してしまった。それは彼女が今まで明確な答えを見つけずに先送りにしていた問題の答えの断片なのだろう。だから彼女は自分自身に問いかける。私はシンジの事をどう思っているのかと……。
そしてその答えを探す為に彼女は前へと歩み出すのだった。




