最終話 転身
これで終わりです。
背中を暖かいものに包み込まれる。先程までの雷鳴も雨音も消え、僕は静寂の中に居た。
頭の中に声が響く。
――気が付いた、譲二?
懐かしい声。僕は周りを見回す。
――沙耶花?何処に居るの?
――えへへー、うしろー。
振り返るが、上下左右を深緑に囲まれ、何も見えない。すると、急に黒い翼に視界をふさがれた。
――ね、凄いでしょ。わたし達、オサカナ様になったんだよ。ここは化生ヶ沼の中。
オサカナ様?
一体何を言い出すのか。今までの沙耶花の言動の中でも最大級に意味が分
からない。
と、今までの僕なら思っていただろう。けれど、もう一度沙耶花の声を聞くことが出来た事で胸がいっぱいになっていた僕は、自分が水の中に居ることも、体がずんぐりした鯉に変化していた事も、自然と受け入れていた。只、もう少し格好の良い姿に変わりたいと思わないでもなかったけれど。
――わたし達、って、沙耶花は何処に居るんだよ。
――だからぁ、う・し・ろ。譲二の背中に生えている翼が、わたし。
あぁ、そういうことか。
――じゃあ、これからずっと一緒なんだね。
――うんッ。
嬉しそうに大きく羽ばたく。弾みで、物凄い勢いで体が前方に加速した。視界が殆どきかない中、目の前に現れた岩を体を捩り辛うじてかわす。
――あ、危ないじゃないかッ。
沙耶花は悪びれもせずに
――だって、この沼狭いんだもん。
と翼を震わせる。
思わず苦笑する。僕たちの関係は、多分ずっと変わらないんだろうな。
――御免ね、沙耶花。僕が沙耶花を見つけた時にすぐ飛び出していれば、こんな姿にならなくて済んだかもしれないのに。
あの時、魅入られたように迂遠な方法を取ってしまった事を、僕は一生後悔し続けるだろう。
――え、譲二、あの時沼に居たの?
そう、一生後悔し続けるだろう……って、何だって?
――だって、沙耶花こっちに気付いてたじゃないか、倒れてたとき。
うーん、と、背中で沙耶花が震える。
――覚えて無いや。沼に着いて直ぐにお父さんがわたしの首を絞めたの。でね、それからは何もわかんない。勿論、譲二が居たのも知らないよ。
じゃあ、僕に「殺して」と言ったのは誰だったんだ。蛇の紅い瞳が浮かぶ。
能天気な沙耶花の声。
――それにね、この姿の方が楽しいから、わたし、オサカナ様になれて嬉しいよ。譲二とも一緒に居れるし。けど、沼はやっぱり、狭い。
あぁ、どうでもいい事なのかな、後悔なんて。
――沙耶花。
――ん?
――一緒に、逃げようか。
長い、長い沈黙。翼がふるふると震える。沙耶花の声が頭の中に響く。
――しっかり、ついて来てよね。
それはもう、
――どこまででも。
僕は体を水面に向けた。力強く翼が水をかく。僕等は弾丸のように急加速する。周りの緑が徐々に薄くなり、水面が近づく。
光を突き抜けた。
何時の間にか夜が明けていた様だ。眼下に鏡のような湖面が広がる。昨晩の禍々しさが嘘の様に、深緑を湛えて静かに眠っている。僕は畔を探す。争いの痕跡は全て雨に流されて仕舞ったらしく、何も変わったところは見つけられない。
――太陽、見えないね。
空は厚い雲に覆われている。
――沙耶花、光が分かるの?
――何となくね、感じる。譲二が近くに居るのも分かるよ。
……そっか。
――ね、もっと高く、いいでしょ?
僕の答えを待たずに、猛然と翼を動かす。
僕等はぐんぐん昇ってゆく。沼がもう拳程度の大きさになった。
村が見える。野良作業をしていた源太郎爺さんが僕らを指差して腰を抜かしている。口をぽかんと開けてこっちを見上げているのは、小屋の前に居た二人組だ。他にも何人か、御祈りをしたり、両腕を振り回したりしている人たちが見える。
僕は苦笑して、天を向く。鈍色の雲が目の前に広がる。
そのまま僕等は、太陽を目指して何処までも昇って行った。
※ ※ ※
化生ヶ沼には神様が居た、という言い伝えがある。
オサカナ様と呼ばれるその神様は、時々癇癪を起こして村人達に当り散らしていたのだけれど、ある日、狭い沼での暮らしにうんざりした神様は、えいやっと沼を飛び出して、新天地を求めて旅立って仕舞ったらしい。だから、もう化生ヶ沼には神様は居ないのだと――
そういう事になっている。
読んでいただき、ありがとうございました。