第4話 襲撃
ちょっとした残酷描写ありです。
沼は平生のように静まり返っている。時折、風が葦の群を揺らす他は、音を発するものは無い。月明かりを頼りに、船隠しに留めて置いた小船を探す。僕が毎晩使っているものだ。葦原に埋もれるように留めてあるので、渕からは絶対に見つからない。
オサカナ様に生贄を捧げるには、一定の作法がある。
身を清めた生贄は、沼の手前までは村人全員に連れられる。そこからは、見届人一人を伴って沼の畔までやって来る。見届け人はオサカナ様に祈りを捧げた後、生贄の両手両足を縛り、底の抜けた小船に生贄を乗せ、船を離す。小船は沼の中央付近まで流されてゆき、沈む。当然、生贄も一緒だ。それを確認し、見届人の役目は終わる。
僕が狙うのは、見届け人が船を離した直後だ。化生ヶ沼に流れ込む水流は一本だけ。沼の中央付近まで船を運ぶには、その流れを利用する他無い。見届人が船を離したら、僕の船とその船とを入れ替える。畔には葦が生い茂っている為、見つからずに細工をするのは容易い筈だ。生贄を捧げたことになるから、村人達の気も済む。僕は沙耶花と、村の外へ悠々と逃げることが出来る。
葦の束にサラシを巻いて船に横たえる。これで、遠目からは人が乗っているように見えるだろう。
大急ぎで準備を整えると、僕は葦原の間に身を隠した。気取られないように、道からは少し離れた処に場所を取る。
本当に静かだ。
満月は中天に差し掛かり、沼面にその似姿を映し出す。
さわさわと、風が葦を撫でる。
心臓の音が、やけに大きい。
鼓動が辺りに反響してしまうような気がして、僕は左胸をきつく抑えた。
微かに鐘の音が聞こえてきた。それに混じって、多くの人が土を踏みしめる音。段々大きくなって、又遠ざかる。生贄を降ろした御輿が帰っていったのだろう。
ざくりと、二人分の跫。一つはゆっくりとした、規則的な足取り、もう一つは不安げな、不規則な足取り。
――沙耶花だ。
目の見えない沙耶花は、見届人に手を引かれて歩いて居るのだろう。飛び出したくなる衝動を必死に抑える。
何時の間にか、月は雲に隠れ、ぽつりぽつりと雨が降り出している。
跫は徐々に大きくなり、水辺の辺りで歩みを止めた。
どくん、と、心臓が大きく跳ねる。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。計画通りにやれば、全てうまく行く。
僕は息を潜める。沙耶花と見届人の話し声が聞こえる。内容は聞き取れない。が、この声には聞き覚えがある。
――泰造さん?
沙耶花の父親が、見届人か。娘を捨てたがっていた男が、最後の別れに一体何を言うのか興味が湧いた。気取られないように、ゆっくりと二人の方に向けて移動を始める。
二歩も進まないうちに、声の様子が変わった。言い争う声。何かが倒れる音。
――悲鳴。
何かが起こっている。
僕は急ぐ。音を立てないよう慎重に、葦原を搔き分けて進む。
激しい息づかいと、くぐもった呻き声が目の前で響いている。
葦の衾の最後の一枚を、僅かに開く。
―――ッ?
巨大な獣が、沙耶花の上に覆いかぶさっていた。
充血して極限まで見開かれた目には紅冥い炎が燃える。下弦の月の形に歪んだ唇からは、涎が止め処なく流れ落ちている。泰造が体を動かす度に、組み伏せられた沙耶花の口から苦しげな呻き声が漏れる。
――何なんだ、これは。
咽喉がからからに渇いて声が出せない。怒りが急激に膨らんでゆく。目の前が紅く染まって――
――え?
沙耶花と目が合う。光を宿さない筈の沙耶花の瞳は、正確に僕の瞳に焦点を結んでいた。その奥には、泰造の瞳と同じ、紅冥い炎が煌々と燈っている。ちろちろと、紅の炎が揺らめく度に、僕の意識は吸い込まれ、焦がされてゆく。
すうぅ、と沙耶花の唇が嘲りの形に整えられる。ぬらぬらと、妖しげに蠢く唇から、僕は目を離せない。
別の生き物のように、艶かしく濡れた唇は新たな意味を作る
――コ・ロ・シ・テ。
声はしなかったけれど、確かに、そう聞こえた。
僕は足元の石を拾い上げ、ゆっくりと葦原の奥へと身を潜める。
頭が痺れる。どす黒い、明確な殺意だけが、僕の中で明瞭な形をとって広がってゆく。
泰造の後方に回り込み、音を立てないように一歩ずつ近寄る。
雨が強さを増してきた。
――殺して。
沙耶花の声が頭の中で反響する。
僕は石を振りかざす。
ぶるり、と泰造は体を震わせ、動きを停める。同時に僕は、泰造の後頭部に向けて石を振り下ろした。
西瓜を潰した様な感触。顔に生暖かいものが飛び散るのを感じる。
ぐぺぇ、と、奇妙な顔を上げて、泰造は沙耶花の胸に倒れ込んだ。弱々しげな呻き声。まだ、生きている。
――殺して。
沙耶花の声。
わかっているよ。
もう一度、後頭部に石を叩きつける。呻き声が止んだ。
もう一度。
もう一度。
もう一度。
泰造の頭の中身が沙耶花の胸に、顔に、ぶちまけられる。
沙耶花の声はもう聞こえなくなった。急に、頭の霧が晴れる。目の前には血塗れの中年男の死体と、少女。急激に吐き気が込み上げてきて、僕は蹲った。
「沙耶花ッ」
びくびくと痙攣している泰造の体を払いのけ、沙耶花を抱き起こす。鈍い水音がして、泰造が沼に沈んで行く。
「沙耶花ッ」
もう一度名を呼ぶ。僕の声に応えるように、沙耶花の頭がかくりと後ろに倒れこんだ。稲光りが僕等を闇から一瞬だけ浮かび上がらせる。
空っぽな二つの孔が僕を見返す。激しく降る雨粒が、主を失った虚に満ちて、赤い涙を流す。右の孔から垂れる糸の先端で揺れる、眼玉。
不自然に曲がった首には、青紫色の手形がくっきりと残っている。
雨音と雷鳴が僕を包み込む。
知らずに僕は叫んでいた。
沙耶花の体を抱いて、天に向けて呪いの言葉を吐き出す。咽喉が破れ、口中に血の味が広がっても、僕は叫び続けた。
――オサカナ様は、その人にとって一番大事なものを奪うの。
沙耶花の言葉が蘇る。
夜な夜な沼で魚を獲った。これが祟りだというのなら、余りにも酷すぎる。
激しい雨に、残っていた沙耶花のぬくもりがすっかり奪い去られてしまっても、僕はそのまま動けずにいた。
突然、左足首に鋭い痛みを感じた。見ると、一匹の蛇が僕の足に深々と牙を突き立てている。漆黒の体に、両の目だけが紅の炎を宿したように光っている。僕は急いで蛇を引き剥がすと、沼の方へ投げ捨てた。
冷たさが足元から広がる。吐き気が込み上げ、手先の感覚が無くなってきた。僕は沙耶花に近づく。
腰から下の感覚は完全に無くなった。息も出来ない。視界が明滅する。
――あの蛇の瞳、殺して、と言った沙耶花の瞳に似ていた。
僕はもう一度沙耶花を抱きしめた。
視界が急速に闇に覆われてゆく。
読んでいただき、ありがとうございました。