第3話 逢瀬
これで半分くらいです。
明るいうちに小屋に忍び込むのは難しい。僕は夕闇が訪れるまで待つことにした。
薄闇に乗じて小屋の裏手に回り込む。明り取り用の窓は見当たらなかったが、幸い、板壁の隙間から中を覗き込むことが出来た。
人影が見える。後ろ姿だ。
白装束に身を包み、部屋の中央に正座している。肩の辺りで切り揃えられた艶やかな黒髪が見える。
「沙耶花」
名前を呼ぶと、びくりと体を震わせて周囲を窺がう。砂糖のような肌は緊張で透き通る程になり、桜色をした唇がわずかに開く。白い歯が見えた。意志の強さを表す眉と目は不安に大きく開かれる。そして、その瞳に光は映っていない。
「僕だよ――」
沙耶花の表情に驚きの色が付け加わる。僕の声の方向に体を向けて立ち上がり――
「譲二、譲二なの?――あッ」
盛大に転んだ。びたぁん、と、冗談みたいな音が、乾いた板張りの部屋に響いた。
「……足、痺れた」
潰れた蛙の様な姿勢で呻く。あぁ、これは間違い無く沙耶花だ。僕は何故か、安心する。
「相変わらずだなぁ」
「何だよぉ。相変わらず馬鹿だって言いたいのかぁッ」
ぷくぅ、と頬を膨らませて怒る。これでも僕より年上の筈なのだが、時折非道く幼く見える。
「正直に言おうか」
「やめて。多分、傷付くから」
ある程度の自覚はあるようだ。
まだ痺れが残っているのか、よたよたと僕の方へ歩いてくる。
「あれ、譲二、どこ?」
ぺたぺたと壁を触りながら尋ねる。顔を壁にくっつけるようにして探すので、板壁の隙間から、沙耶花の唇が目の前に見えた。僕は思わず身を反らせる。
「壁の向こう側だよ。外に居る」
努めて平静に僕は言う。板越しとはいえ、無邪気に接近されるのは心臓に良くない。
「えぇ、何でよ。這入って来てよ」
沙耶花は壁をぺしぺしと叩く。
「這入ろうとしたら怖いオバサン達につまみ出された。こっそり回り込んできたんだ」
僕は板壁を背にして座り込んだ。背中から、どすどすと、苛立たしげな足踏みの音が聞こえる。沙耶花が落ち着くまで僕は黙ることにする。
太陽はすっかり地に没し、わずかな残り火が西の空をかすかに染め上げている。気の早い月が、既に東の山の稜線を大きく超えて、太陽に負けじと淡い光を放つ。
暫くすると、背中に微かな衝撃を感じた。ようやく沙耶花も座り込んだようだ。ちょうど背中合わせの格好になる。薄い木の壁越しに沙耶花の体温を感じる。
「わたし、あのオバサン達嫌い」
「僕も苦手だな。まだお尻が痛い」
僕がそういうと、突然、沙耶花は弾けたように笑い出した。
「譲二、まだお尻ペンペンされてるの?昔から好きだったものね、叩かれるの」
ちょ、何を言い出すのですか、沙耶花さん。
とてつもない誤解が進行しているような気がする。「そっかー、そういう趣味もあるんだねー」と、楽しそうな呟きが聞こえてきた。
これは良くない。非常に、良くない。
「お、お尻ペンペンなんてされてないッ。投げ飛ばされただけッ」
全力で否定しなければ、碌でもない評判が広まるのは目に見えている。
「譲二、声おっきい。見つかっちゃうよ」
嬉しそうだ。「わたしには全部わかってるんだからね」とでも言いたげな声音だ。僕は少しだけ声を抑えて、
「僕、もう十六歳になったんだよ。そんな子供みたいな叱られ方、するわけないじゃないか」
きっぱりと否定する。僕にも意地とか沽券といったものはあるのだ。
「だって、わたしは譲二が十歳の時の姿までしか知らないんだもの」
からからと笑う沙耶花。思わず次の言葉を飲み込む。悲壮感が欠片も無い事が逆に心苦しく感じられる。この閉鎖された村で盲目であることは、村の営みから完全に外れる事を意味する。除け者だ。光を失ってからの六年間、沙耶花がどんな気持ちで過ごしてきたのか、僕には想像もできない。
「いっつも叱られてたよね。二人で悪戯して、叱られるのは譲二だけ。言い出すのはわたしだったのにね。ぼくが沙耶花を巻き込んだんです~って、全部自分のせいにして」
魔法みたいに次から次へと面白い遊びを考え出す沙耶花と一緒にいるのは本当に楽しかった。僕は後についていく事しか出来なかったけど、せめて悪戯の結果は僕が負おうと思っていた。好きな娘の前で格好をつけたかっただけというのもあったかもしれない。
「いっぱい怒られて、いっぱい叩かれてさ。けど譲二って、わたしが「大丈夫?」って訊くといつも笑ってたよね。目に涙溜めながら」
沙耶花に心配をかけたくないという、僕なりの精一杯の強がりだったんだ。
「それでね、ある時思ったの。あぁ、この子はもしかして、叱られたり、叩かれたりする事が好きなのかな、って。好きだから、わざと自分から進んで怒られるような事をするんじゃないかな、って。」
僕のなけなしの漢気を返せ。
「わたし知ってるよ。世の中には、痛いのや苦しいのが大好きな人達が居るんだって。「ひぎゃくあいこーしゃ」って言うの。滝に打たれて修行する偉い御坊様も、石段から布団を抱えて転げ落ちる柔術家の先生もそうなんだって。だから大丈夫、叩かれるのが好きでも、ぜんぜん変じゃないよ」
被虐愛好者。何処でそんな言葉を覚えたのか。とりあえず、釘を刺して置く。
「絶ッ対に御坊様に言ったら駄目だよ、それ」
苦行僧に向かって「あなたは被虐愛好者なんですか、凄いですねー」とにこやかに言ってのける沙耶花の姿が自然と想像出来てしまい、頭が痛くなる。
「でも、でもね、痛いのが気持ちいいって事は、矢ッ張り隠して置いたほうが良いと思うの。ほら、気持ち悪いだとか、変態とか言う人も多いと思うの」
……もう好きにしてくれ。
沙耶花の暴走が収まるまで、黙んまりを決め込むことにした。一つ溜息をつき、目を閉じ体を丸める。
「あっ、勿論わたしは違うよ。譲二が変態でも私はぜんぜん気にしないっていうか、譲二のこと大好きだってのは変わらないっていうか。それにわたしだって――」
「なッ!?――んがッ」
驚いて体を起こした弾みに、後頭部を壁に叩きつけてしまい、一瞬目の前が暗くなる。
「きゃっ。ちょ、ちょっと、どうしたの?」
沙耶花の慌てた声が聞こえる。
「沙耶花・・・・・・今、何て?」
「何って、譲二が変態で、それで――。
――えっ?
えぇッ!?」
バタンと何かが倒れる音。続いて人間大の塊が転がる音。
「―――――――――――ッ」
押し殺したような呻き声。
――顔が熱い。
「ちがっ、違うのッ!好きとか、そんなんじゃないからッ。むしろ譲二の事なんかぜんぜん好きじゃないんだからッ。あ、いや、違ッ」
僕はすっかり舞い上がってしまい、沙耶花の声を遠くに聞いていた。
「もぉ、こんなの嫌だよぉ。譲二の、馬鹿ぁ」
だんッ、と壁を叩く音が聞こえ、それっきり、静かになった。
僕は大きく深呼吸をする。
沙耶花に言わなければならない言葉が二つある。
「――沙耶花」
「はひッ」
びくり、と体を震わせる気配がする。
「僕は、変態じゃない」
先ず一つ目。
そして、二つ目。
「一緒に、逃げよう」
長い、長い、沈黙。あるいは十秒かそこらだったのかもしれない。
沙耶花の声。
「出来ないよ。オサカナ様の祟りがある」
か細い声。微かに震えている。
あぁ、沙耶花までオサカナ様に囚われているのだと、僕はどうしようもなく哀しくなる。
「沙耶花は知っている筈だろ。オサカナ様は居ないんだ。僕たち、六年前に一緒に化生ヶ沼で魚を取って遊んだじゃないか」
沼の魚を取った者は、オサカナ様に水底へと引きずり込まれる。
――だけど
「沙耶花も僕も、生きて居る」
そうだね、と、寂しげな声で答える。
「代わりに、お母さんが死んだの」
「――え?」
沙耶花の母は、沙耶花が目を患った翌月に亡くなっている。山崩れに巻き込まれて、遺体は見つかっていないと聞かされた。
「沼で遊んだ次の日から、わたし、凄い熱が出た。良くなったり悪くなったりを繰り返して、二十日以上も続いたの。体力も無くなってきて、いよいよ駄目かって状況になったのね。その時、わたしは譫言で「オサカナ様、御免なさい」って言ってたらしいの。
それを聞いたお父さんとお母さんには分かったのね。わたしたちが沼で悪戯をしたんだって。
その日の晩、お母さんは沼に身を投げたの。そして次の日、わたしの熱はすっかり下がっていた」
――沙耶花の母親がオサカナ様への生贄になった?
「沙耶花のお母さんは、事故に逢って亡くなったって――」
「オサカナ様はその人にとって最も大切なものを奪うの。わたしからはお母さんと光を。譲二からは村の中でのつながりを奪った」
つながりを奪った。
そういわれてみれば確かに、僕は六年前から孤独になった。誰もが僕を遠巻きにして近寄らなくなった。誰も僕の話を聞かなくなった。今日だけじゃない。誰も沙耶花の居場所を教えて呉れないから、沙耶花がこの小屋に移動させられてから、生贄の儀が行われるこの日まで、僕は独りで沙耶花を探し続けた。
「だけど、そんな祟りなんて――」
「沼の底が亡者の国に繋がっているかどうかなんて分からない。けれど、あそこには何は良くないものが居るの。
それを鎮めるために、わたしは逃げちゃ駄目なのよ」
気が付けば、辺りには闇の帳が下りようとしていた。生贄を運ぶ御輿に篝火が燈されるのが見える。
「だけど――」
僕は語気を強める。
「仮令オサカナ様が居たとして、沙耶花を犠牲にして祟りを鎮める事が出来たとして、沙耶花の居なくなった世界は僕にとって何の意味もないんだ」
「わたしの代わりに、もっと多くの人が苦しむよ」
沙耶花の震える声が聞こえる。
そうだとしても――
「構うものか」
そう、構うものか。もっと早くに気が付くべきだったのだ。祟りの在る無しではなく、僕がどうしたいかこそが重要だということに。
「いつも我儘を言うのはわたしだったのにね」
余りにも寂しげな笑い声。たまには僕だって我儘を言うんだ。
と、急に扉が開かれる音。足音。次いで女性の声が聞こえてきた。
「時間です、花嫁御」
「御覚悟を」
小屋の前に居た二人が沙耶花を促す。
ゆっくりと、沙耶花が立ち上がる気配がする。
「さよなら、譲二」
微かな呟きが僕の耳に届く。
ゆっくりと遠ざかる足音。
僕は叫ぶ。
「沙耶花ッ」
小屋の中に居る人間が動きを止めた。
「必ず、迎えに行くから」
踵を返し、僕は走り出す。
沼へ向かって。
沙耶花がどんな顔をしているのか、窺い知ることは出来なかった。
読んでいただき、ありがとうございました。