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教祖冷笑  作者: 巳使雄介
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依頼編

 衣笠太一は、目の前の建物を見上げて一抹の不安を覚えた。

 衣笠は学生時代に空手をやっていた。だから、例え目の前のビルに暴力団の事務所が入っていようが、怖気づかないだけの度胸も自負もある。しかし今、彼が感じた不安はそれとは別物であった。

 目の前のビルの一階には算盤教室が入っており、小学生くらいの子供の姿がちらほら見える。二階には碁会所があるらしく、穏やかな老人の姿も見えた。清潔感のあるビルの外観も手伝ってか、さながら公共施設である。

 だからこそ、衣笠は不安を感じたのだ。本当にここでいいのだろうか、と。

 衣笠が道を間違えたわけでなければ、このビルの三階には……探偵事務所が入っているはずだった。

 ポケットからB5の用紙を取り出し、プリントアウトされた地図とビルの名前を見て再確認する。やはり、ここで間違いはない。

 最初に探偵事務所と聞いたとき、衣笠は瞬間的に、うらぶれた街角の怪しげなビルを思い浮かべた。実際、そこまでいかなくても、探偵事務所や興信所というのは和やかな雰囲気とは程遠いものだ。

 (考えていても仕方ない)

 そう思い直し、衣笠は階段を昇り始めた。途中、子供と楽しげに話す老人の一団を横目に見た。こんなところに探偵事務所を構えて、果たして依頼があるのだろうか?

 『柚木崎探偵社』

 事務所のドアにはポップ調の文字でそう書かれていた。ますます、衣笠の抱く探偵事務所のイメージとは程遠い。

 インターホンを探したが見当たらないので、衣笠はドアをノックした。

 数回ノックしたところでドアが開き、短髪の青年が顔を出した。青年は衣笠の顔を見て、困った顔をした。こちらが誰なのか、わからないのかもしれない。

「依頼していた衣笠ですが」衣笠は張りのある声で青年に言った。

「あぁ、依頼人さんですか」青年は微笑むと、「どうぞ」と言ってスリッパを差し出した。

 青年の差し出したスリッパに衣笠が履き替えている間に、青年は奥の部屋に向かって「柚木崎さん、クライアントの方がいらっしゃいました」と声をかけた。どうやらこの青年が柚木崎というわけではなさそうだ。

 スリッパに履き替えた衣笠は、奥の応接室に案内された。

 応接室には必要最低限の机と椅子、そしてたくさんの本棚が並んでいる。一番奥の机には長身の男が腰掛け、パソコンに向かっていた。

「やあ、どうも」男がパソコンから顔を上げて、衣笠に声をかけてきた。「僕が柚木崎正一です」

 そう言って立ち上がった男を、気づかれない程度に衣笠は観察した。

 少し耳にかかるくらいの長めの髪は目にかかっていたが、鬱陶しいというほどでもない。営業用なのか微笑を浮かべてはいるが、快活そうには見えなかった。どちらかといえば、マニアックな……学者のイメージだ。ただ、怪しげな雰囲気はなかった。

 黒のポロシャツにジーンズというラフな出で立ちの柚木崎は、衣笠にソファを勧めると、ファンヒーターを移動させ、衣笠の前に腰を下ろした。

「コーヒーでよろしいですか?」柚木崎が尋ねた。

「あっ、はい」衣笠は反射的に頷いた。衣笠はどちらかといえば紅茶党だが、言い直すのも不躾だと思い、口には出さなかった。

「草野君、コーヒー二つね」柚木崎が青年に向かって言う。衣笠を案内した青年は草野というらしかった。

「彼が居てよかった」柚木崎は笑いながら言った。「彼は日曜日だけアルバイトで入っているんですが、草野君の入れるコーヒーは凄く美味しいんですよ」

「アルバイトを雇っていらっしゃるんですか?」

「ええ。といっても、草野君一人だけですがね」柚木崎は苦笑した。

 やがて、草野がコーヒーをカップを運んできた。運ばれてきたコーヒーを一口飲む。確かに美味かった。

「では、本題に入りましょうか」柚木崎がゆっくりとした口調で言った。「ある団体を探って欲しい、ということでしたが」

「はい」カップをテーブルに置いて、衣笠は言った。「私はT大学で応用物理学の教授をしています。調べて頂きたい団体には、本学の学生が関わっているのです」

「その団体とは?」

「翌檜イマジニア協会 」衣笠は忌々しげに言った。「協会と言えば聞こえが良いですが、実際は、若者が主体のわけのわからない新興宗教です。その新興宗教にうちの大学の新興宗教研究会の生徒が嵌っているのです」

「新興宗教研究会、ですか」柚木崎が苦笑する。「しかし、そういうサークルなら新興宗教に興味を持つことは当然なのでは?」

「あぁ、嵌っている、という言い方では語弊がありますね」衣笠は訂正した。「嵌っている、というレベルではありません。サークル自体が、もはや協会に乗っ取られているみたいなんです。サークルの入部希望者も凄まじい勢いで増えています」

 話しながら、衣笠はここ数週間のことを思い出した。新興宗教研究会の活動自体、大学側からは大きく抵抗があった。よくわからない新興宗教の布教活動に学生が参加していることが発覚しては、大学のイメージダウンになるのだ。近隣住民の目に付く範囲内で彼らは行動するし、皮肉にもそういった活動は注目を浴びやすい。しかも、良い意味ではなく、不快感を持って注目を浴びてしまうのだ。

 そして、衣笠が翌檜イマジニア協会の名を初めて聞いたのが二週間ほど前だ。T大に通う婿を持つという母親から電話があったのだ。その学生の本籍は新潟で、今はこちらで一人で下宿しているらしい。彼女の話によると、新興宗教研究会に所属している息子から「サークルで必要だから」と二十万円の送金を頼まれたそうなのだ。結局押し切られる形になってお金を出してしまったが、息子が怪しげな宗教に入っているのではないか気になる、とその母親は大学に問い合わせてきたのだ。そこで事態が発覚し、職員会議の結果、衣笠が担当として問題解決に動くことになったのだ。

 柚木崎はコーヒーを啜りながら話を聞いていたが、ゆっくりとカップを置くと「なるほど」と呟いた。「大学側としては、明確な理由なしに彼らを止めることは出来ない。そこで、問題のある団体かどうかを調べて欲しいということですね」

「そういうことです」衣笠が頷いた。「問題がなければ、大学としては関与できない。しかし、問題があればそれを理由にサークルの解散を提案できる、ということです。しかし、我々で調べるには限界がある……向こうもそれを気にしていますからね」

「その、何とか協会はいつ頃から出入りを?」

「本学で調べたところによると二ヶ月前……七月末ですね。このころから出入りは始まっていたようです」

 柚木崎は、なるほどなるほど、と何度も頷いた。そのまましばらく、何か考えるように黙り込んだ。

 すでに空になっているのに気づき、草野がコーヒーカップを下げ始めた。そのままカップを持って立ち去ろうとする草野を、「ちょっと」と柚木崎が呼び止めた。

「何ですか?」怪訝そうに草野が振り返る。

 草野の質問には答えず、衣笠のほうに向き直った柚木崎は「その宗教団体ですが、信者は大学生ばかりですか?」と尋ねた。

「えぇ。彼らは信者ではなく会員だと言っていますが」

「なら」柚木崎は言いながら、今度は草野のほうを見る。「僕より草野君の方が探りやすい。彼は疑う余地のない、本物の大学生ですから」

「僕ですか?」草野が目を丸くする。「バイトの仕事内容には、探偵助手なんて無かったはずですけど」

「特別手当を出そう」柚木崎が微笑む。「それに……君も興味があるだろう?」

「興味があるのと、実際に捜査をするのとは別です」草野がすばやく答える。「でも……まぁ、いいですよ。特別手当が出るんなら」

「あの」今まで黙って二人のやり取りを見ていた衣笠は慌てて口を挟んだ。「えっと、草野さん……でしたっけ? 失礼ですが、探偵として動いたことはないのでしょう?」

「はい」

「それじゃあ……」衣笠は不満気に言った。いくらなんでも、探偵としての職務経験のない大学生では心もとない。金を払う以上、人員は徹底して欲しかった。

「ご心配なく」柚木崎が顎を摩りながら言った。「僕よりは社交術に長けています」

 そういうことでは……と言いかけて、衣笠は口をつぐんだ。見たところ柚木崎は自分より年下ではあるが、二十代後半といったところだろう。大学生ばかりの新興宗教に潜入するには少しばかり無理があるようだった。それに、草野のほうが社交術に長けるというのも、先ほどから二人の所作を見ていて頷ける。ここは彼の言うとおりにしたほうがいいのだろう。

「わかました。が、調査費用は電話でお話した金額しか払えません」衣笠は毅然とした態度で答えた。

「結構ですよ」柚木崎が微笑んだ。「では、調査機関等の事務的な話に入りたいのですが……今日お時間は?」

「ああ、ちょっと……」衣笠は壁にかけられた時計を見やった。電車の時間等を考えて逆算すると、五限目に講義に間に合うためにはもうあと十五分弱でここを出なくてはならない。

「わかりました。その辺はまたファックスで送りしましょう。同意書も一緒に送るので、不備が無ければそちらにサインして後日持ってきて頂ければ結構です」

「お願いします」そう言って頭を下げたとき、衣笠は気づいた。何だか焦げ臭い。

 目の前の柚木崎と、その傍らに立つ草野は気づいていないようだった。どうも、ファンヒーター以外にエアコンも作動しているようだ。そのエアコンの風上に柚木崎たちが、風下に自分がいるので、彼らにはこの焦げ臭い臭いが届いていないのかもしれない。

「また何か動きがったら、電話ででも連絡をください。僕の仕事用の携帯電話の番号も教えておくので」柚木崎が言う。

 はぁ、と衣笠は適当な返事をした。やはり、焦げ臭い。「あの……」

「何です?」柚木崎が怪訝そうな顔でこちらを見る。

「焦げ臭くないですか?」衣笠は恐る恐る言った。

 柚木崎の顔がすぐに真顔になる。

「草野くん!お餅だ!」柚木崎が叫んだ。

「は?」草野が間の抜けた返事を返す。「お餅って……」

「僕の部屋だ……ストーブの上で焼いていたんだ」言うなり柚木崎は奥の部屋へと走り出す。少しおいて、「うわぁ、焦げてる!」と声が聞こえてくる。

「何やってるんですか、もう」呆れたように言うと、草野は濡れ布巾を持って奥の部屋へと去っていく。

 衣笠は応接室に一人、残された。

 何だか、頭が痛くなってきた。


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