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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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9話 将軍閣下の帳簿を整理したら、横領が3件見つかりました

 ヴォルフの執務室は、想像以上だった。


 想像以上に——ひどかった。


「…………」


 扉を開けた瞬間、エリーゼは立ち尽くした。


 書類だ。


 書類、書類、書類。


 机の上。机の周り。棚の上。棚の前。床。窓際。暖炉の横。部屋の隅。


 羊皮紙と紙束が、まるで雪崩のように堆積している。一部は本当に天井近くまで達していた。


 事前に見取り図はもらっていた。「部屋の7割が書類」と聞いていた。覚悟はしていた。


 ——甘かった。


 (これは7割じゃない。8割だ。いや、9割かもしれない)


 クルトが後ろで申し訳なさそうに立っている。


「……3年分です。閣下は戦場では天才ですが、書類には……その……」


「わかります。見ればわかります」


 ヴォルフが執務室の奥から現れた。書類の山の隙間を器用にすり抜けてくる。この移動には慣れているらしい。


「……来てくれたか」


「来ると申し上げましたので。では、始めます」


 エリーゼは上着の袖を肘まで捲った。


 まず、部屋の中央にスペースを確保する。書類の山を壁際に寄せて、作業用の平面を作った。


 次に、仕分けだ。


「閣下、大きな分類をします。お手伝いいただけますか」


「……何をすればいい」


「私が書類を読み上げます。閣下は、それが何の書類か教えてください。軍事関連、財務関連、領地行政、外交、人事。この5つに分けます」


「わかった」


 作業が始まった。


 エリーゼが書類を一枚取り上げ、表題を読む。ヴォルフが分類を告げる。エリーゼが該当の山に振り分ける。


 最初は1枚に10秒かかっていた。30分後には3秒になっていた。


 ヴォルフの記憶力が驚異的だった。3年前の書類でも、表題を聞いただけで内容を思い出す。日付も差出人も覚えている。


「この書類は2年前の秋、北部国境の補修予算の申請だ」


「次、これは?」


「昨年の冬、バルトハイム駐屯地の兵糧調達の報告」


「次」


「一昨年の春、領内の橋梁修繕の見積もり」


 エリーゼは内心で舌を巻いていた。


 (この人、書類の中身は全部頭に入っている。ただ「処理の仕方」がわからないだけだ。読めるけど、決裁の手順がわからない。何を承認し、何を差し戻し、何を却下するかの基準がない)


 前世でも見たことがある。現場では天才的な判断ができるのに、書類仕事になると固まる上司。問題は能力ではなく、行政事務の訓練を受けていないことだった。


「閣下、ひとつ提案があります」


「何だ」


「仕分けが終わったら、決裁基準の一覧表を作りましょう。案件の種類ごとに、承認・差し戻し・却下の基準を明文化しておけば、今後はお一人でも処理できます」


 ヴォルフの手が、一瞬止まった。


「……一人でも、処理できるようになるのか」


「ええ。基準さえあれば、あとは機械的な作業です。閣下の判断力なら、すぐに慣れます」


「…………」


 ヴォルフが何か言いたそうな顔をした。でも何も言わなかった。


 代わりに、次の書類を手に取った。


 仕分けを続けながら、エリーゼはヴォルフの横顔を時々見ていた。


 集中しているときの顔は、戦場の顔とも、村を訪れるときの顔とも違った。眉間の皺が少し緩んで、目が書類の文字を追っている。この人は書類が嫌いなんじゃない。書類と向き合う方法を知らなかっただけだ。


 ふいに、ヴォルフが手を止めた。


「……お前の仕分け、速いな」


「慣れの問題です。何千枚もやっていれば、表題を見ただけで分類がわかるようになります」


「何千枚」


「前の職場では、年度末に一人で400件の決裁を処理したことがあります」


「……化け物だな」


「書類の化け物は褒め言葉です」


 ヴォルフの口元が、ほんの少し動いた。笑ったのだと思う。


 二人の間に積まれた書類の山が、少しずつ低くなっていく。


 不思議と、嫌な作業ではなかった。隣に人がいるからだろうか。前世の年度末は孤独だった。一人きりのオフィスで、一人きりの残業。誰もいない深夜の蛍光灯。


 今は隣に、銀髪の将軍がいる。


 黙って書類を手渡してくれる。時々、内容を教えてくれる。たまに手が触れる。


 ——たまに手が触れるのは、作業上の不可避的接触であり、それ以上の意味はない。


 作業は続いた。



 2日目。仕分けが完了し、内容の精査に入った。


 財務関連の書類を一枚ずつ読み込んでいく。収支報告、予算執行状況、物資調達の記録、税の徴収実績。


 午後。3束目の帳簿を開いたところで、エリーゼの手が止まった。


「…………」


 目が細くなった。


 あの目だ。エルデ領で前領主の横領を見つけたときと同じ目。


「閣下」


「何だ」


「この帳簿、おかしいです」


 ヴォルフが隣に来た。エリーゼが指さした箇所を見る。


「ここ。軍需物資の調達費。昨年の第三四半期、同じ品目が二重に計上されています。そしてここ、支出先が実在しない商会になっている。さらにこちら、税収の一部が『雑損金』として処理されていますが、雑損金にしては金額が大きすぎる」


 エリーゼは別の帳簿を引き寄せた。


「同じ手口が、3件。すべて異なる時期ですが、筆跡が同一です。閣下の文官の誰かが、組織的に税収をくすねている」


 部屋の空気が変わった。


 ヴォルフの目から、さっきまでの穏やかさが消えていた。


 怒り。


 声を荒げるわけではない。拳を振り上げるわけでもない。ただ、碧い目の温度が——凍った。


 これが「北の鉄壁」の目だ、とエリーゼは思った。戦場で敵が見る目。


「……誰だ」


「筆跡の特徴から、担当者は特定できます。帳簿に署名が残っていますので」


 エリーゼは証拠書類を整理した。横領の手口、金額の算定、該当する帳簿のページ番号、筆跡の対照表。すべてを一枚の報告書にまとめた。


 所要時間、約2時間。


 ヴォルフが報告書を受け取った。読んだ。


「……完璧だ。言い逃れの余地がない」


「証拠書類は原本を保全してあります。閣下の決裁印をいただければ、すぐに処分手続きに入れます」


 ヴォルフが立ち上がった。


「クルト」


 廊下からクルトが現れた。閣下の声の色で状況を察したのだろう。表情が引き締まっている。


「財務担当官のベルガーを呼べ」


「了解」


 30分後。


 ベルガーという中年の文官が執務室に連れてこられた。


 ヴォルフが無言で報告書を差し出した。


 ベルガーがページをめくる。顔が青ざめていく。


「こ、これは……閣下、これは何かの間違いで——」


「間違いかどうかは帳簿が証明している」


 エリーゼの報告書が完璧すぎて、弁解の糸口がなかった。二重計上の証拠、架空商会の調査結果、筆跡の一致。どこを突いても崩せない。


 ベルガーが崩れ落ちた。


「閣下、お慈悲を——」


 ヴォルフは一言も発しなかった。ただ見下ろした。


 それだけで十分だった。


 クルトがベルガーを連行していく。扉が閉まる前に、クルトがちらりとエリーゼを見た。


 その目は「閣下より怖い人間を初めて見た」と言っていた。


 (怖くないです。正確な帳簿を作っただけです)


 扉が閉まった。


 執務室に、二人だけが残った。


 沈黙が落ちた。


 ヴォルフの拳が、白くなるほど握られていた。


「……俺は」


 低い声だった。


「俺は、気づくべきだった。領民の税が盗まれていたことに」


「閣下のせいではありません。帳簿を操作されれば、専門の訓練を受けていない限り見抜くのは困難です」


「だが——」


「だからこそ、帳簿を読める人間が必要なんです。閣下が戦場を守るように、帳簿を守る人間が」


 ヴォルフがエリーゼを見た。


 怒りはまだ目の奥にあった。でも、それだけではなかった。


「……エリーゼ。感謝する」


「仕事ですから」


「仕事だとしても、だ」


 また「ありがとう」に近い言葉。この人にとって、それがどれほど重い言葉か、もうエリーゼは知っている。


「……報酬を」


「お気持ちだけで十分です」


「受け取れ。これは命令だ」


「他国の将軍から報酬の命令を受ける法的根拠が——」


「受け取れ」


 低い声。有無を言わせない声。


「……はい」



 翌朝。エリーゼの作業部屋に、荷物が届いた。


 箱を開ける。


 最高級の紅茶の缶。繊細な細工の茶器セット。そして——宝石のように美しい焼き菓子の詰め合わせ。


 添え状が一枚。


『業務遂行への慰労品として。——ヴォルフガング・ゼルスト』


 エリーゼは添え状と品物を交互に見た。


「……これ、『慰労品』の域を超えてますよね」


 紅茶は一缶で銀貨50枚はする。茶器は名工の手によるもの。菓子に至っては、王都の高級店でしか手に入らない品だ。


 (どう見ても、業務への慰労品ではない。これは——)


 マルグリットがいたら「口説かれてるんだよ」と言うだろう。フィンがいたら「ねえちゃん、顔」と言うだろう。


 幸い、二人ともここにはいない。


 エリーゼは紅茶を一杯淹れた。


 ——美味しかった。


 今まで飲んだどの紅茶より、美味しかった。


 (茶葉の品質が高いからだ。それ以外の理由は、ない)


 添え状を、丁寧に畳んだ。


 持って帰ろう、と思った。


 あの引き出しに、しまうために。

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