表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/13

8話 決算報告書を作成しましょう──四半期の成果をまとめます

 エルデ領に赴任して、3ヶ月が経った。


 マルグリットが朝食を運んできてくれた。黒パンとチーズとスープ。エリーゼの朝食は、赴任初日からずっとマルグリット製だ。


「あんた、また徹夜したね。目の下のクマ、ひどいよ」


「決算期ですから」


「決算って、あんたしか見ない書類でしょ」


「自分しか見ない書類だからこそ手を抜けません。監査がないということは、自分が監査役を兼ねるということです」


 マルグリットが首を振った。それから、窓の外を見た。


 朝日の中に、村の景色が広がっている。修復された水路。新しい乾燥小屋。増えた家屋。畑に水を引く分水路の脇で、子どもたちが走り回っている。


「……3ヶ月前は、死んだ村だったよ」


 マルグリットの声が、少し低くなった。


「人が減って、畑が枯れて。次の冬は越せないかもしれないって、本気で思ってた」


「マルグリットさん……」


「あんたが来て、変わった。数字のことはわかんないけどさ。村の空気が変わったのは——あたしにもわかるよ」


 エリーゼは黒パンをかじって、視線を手元の帳簿に落とした。


 数字が並んでいる。3ヶ月分の、エルデ領の変化を示す数字。


 薬草交易の利益は月平均銀貨200枚。灌漑設備の第一期・第二期工事が完了し、作物の収穫量は倍増。人口は9世帯から25世帯に増えた。新しく来た大工の一家のおかげで、領主館の扉がようやく蝶番に収まった。3ヶ月間、扉が外れたまま暮らしていたのだ。


 税収は実質ゼロから月あたり銀貨30枚。


 (前世の自治体で3ヶ月で税収を30倍にしたら表彰ものだな。……いや、前世にそんな制度はなかった。あったのは残業と始末書だけだ)


「ねえちゃん、集計終わったよ」


 フィンが帳簿を持ってきた。きれいな数字が並んでいる。3ヶ月前は字すら読めなかった少年が、今では収支帳簿を一人でつけている。


 フィンの帳簿と自分の集計を突き合わせて、決算報告書を仕上げた。全12ページ。


 この報告書を2部作成した。1部は自分の記録用。もう1部は——クラウゼン公国将軍府宛て。


「ねえちゃん、なんであの将軍にも送るの?」


「通商協定のパートナーに対する報告義務よ」


「ふぅん。ねえちゃんが『義務』って言葉を使うのは、やりたいことに理由をつけるときだよね」


「……帳簿の練習しなさい」


「今日の分はもう終わったよ」


 このところ、フィンのツッコミが鋭くなってきた。成長は嬉しいが、方向性が気になる。



 報告書を送って3日後。返事が来た。


 ヴォルフからの書簡。いつも通り、無駄のない文面。


『報告書を受領した。内容は極めて明瞭。特に収支計算の精度が高い。我が国の財務官より出来がいい。——ヴォルフガング・ゼルスト』


 たった二行。


 なのにエリーゼは、その二行を三度読んだ。


 「我が国の財務官より出来がいい」。ヴォルフの言葉には裏がない。お世辞もない。思ったことをそのまま書く人だ。だからこそ、この一文の重みがわかる。


 (……嬉しい。なんでこんなに嬉しいんだろう。書類を褒められるのは初めてじゃないのに)


 前世では、書類を褒められても「ありがとうございます」で終わった。心が動くことはなかった。


 なのに、この人の「出来がいい」の五文字で、胸がこんなにざわつく。


 書簡を丁寧に畳んで、引き出しにしまった。あの視察申請書と同じ引き出しに。


 引き出しが、少しずつ埋まっていく。



 さらに5日後。ヴォルフがエルデ領を訪れた。


 今回も事前の書面通知あり。書式は完璧。そして——回を重ねるごとに上手くなっている。前回より余白の取り方が洗練されている。


 (私の書式に寄せてきている? ……気のせいだろうか。だとしたら、少し嬉しい。いや、嬉しいが多すぎる。今日だけで何回嬉しいと思ったんだ)


 いつも通り、水路の視察。村の様子の確認。マルグリットがスープを出し、ヴォルフが黙って完食し、おかわりをした。


 ——ここまでは、いつも通りだった。


 変わったのは、そのあとだ。


 視察を終えて、帰り支度をするかと思ったヴォルフが、動かなかった。


 領主館の前に立ったまま、黙っている。


 クルトが後ろで、何か言いたそうな顔をしている。でも口は出さない。


 珍しい。あの副官が黙っているということは——これは、クルトにとっても想定外なのだ。


「閣下? 何か——」


「エリーゼ」


 ヴォルフの声が、少し変わった。


 いつもの無感情な声ではない。何かを言おうとして、飲み込んで、もう一度絞り出したような声。


「……頼みがある」


「はい」


 沈黙が落ちた。


 長い沈黙だった。ヴォルフは口を開きかけて、閉じて、また開きかけた。


 この人がこんなに言葉を選ぶのを、エリーゼは初めて見た。戦場で「北の鉄壁」と呼ばれる男が、たった一言を言い出せずにいる。


「我が領の帳簿を……」


 ヴォルフの目が、わずかに逸れた。


 この人が目を逸らすのを見たのは、初めてだった。


「……見てくれないか」


 静かな声だった。


 将軍の命令ではなく。国家間の取引でもなく。


 一人の男が、助けを求める声だった。


「閣下の領地の帳簿ですか」


「ああ。……少し、溜まっている」


「少し、とは?」


「…………」


 沈黙。


「閣下。正確な情報がないと対策が立てられません。具体的な量を教えてください」


 ヴォルフが、懐から一枚の紙を取り出した。


 簡単な見取り図だった。執務室の間取り。そして、その大半を埋め尽くす「書類」の文字。


「……この図で、書類と書かれている部分が部屋の7割を占めていますが」


「……ああ」


「天井まで積まれていますか」


「……一部は」


「期間は」


「……3年ほど」


 3年。


 エリーゼの脳内で、前世の記憶がフラッシュバックした。


 年度末。課の全員が徹夜。机の上に書類の塔。朝5時のコンビニでエナジードリンクを3本買った、あの地獄。


 それが——3年分。


 普通なら、逃げる。


 3年分の未決裁書類を「見てくれ」と言われて、「はい」と答える人間は、この世界にそう多くない。前世にも、たぶん3人くらいしかいない。


 エリーゼは、その3人のうちの1人だった。


「やります」


 即答だった。


 ヴォルフが顔を上げた。


「……正気か?」


「むしろ腕が鳴ります」


 ヴォルフの目が見開かれた。明確に。無表情のこの男が、はっきりと驚いた顔をした。


 エリーゼは何を見たのか、自分でもわからなかった。驚き? 安堵? それとも——何か別のもの?


 ヴォルフの目の奥に、戦場では絶対に見せないだろう色が、一瞬だけ浮かんで消えた。


「失礼ですが閣下、私は前の職場でも年度末の決算処理を一人で回していた人間です。書類の山を見て燃えないのは、もぐりの事務官です」


 クルトが後ろで天を仰いだ。


「ようやくだ……。閣下の帳簿を見てくれる人間が、ようやく現れた……」


「クルト」


「いえ何も。ただ、あの書類の山を見て『腕が鳴る』と言った人間は建国以来初めてかと」


「黙れ」


「はい。しかし閣下、その目を逸らす癖は直された方がよろしいかと」


「黙れと言っている」


 エリーゼは鞄からペンと羊皮紙を取り出した。


「では閣下、スケジュールを組みましょう。3年分ですと、仕分けだけで最低3日。内容の精査と決裁処理にさらに1週間。合計10日を見てください」


「10日で3年分を?」


「書類の処理速度には自信があります」


「…………」


 ヴォルフが、何かを言いかけた。


 口を開いて、閉じて。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 エリーゼがこの人から「ありがとう」を聞いたのは、初めてだった。


 いつもは「問題ない」「好きにしろ」で済ませる人だ。感謝の言葉を口にするのが、たぶん——苦手なのだ。得意なわけがない。この人は、気持ちを言葉にすることが、何より下手な人だから。


 だからこそ、その「ありがとう」は重かった。


「……どういたしまして。では来週、閣下の執務室にお邪魔しますね」


「ああ」


 ヴォルフが馬に乗る。クルトが続く。


 去り際、クルトがエリーゼに向かって深々と頭を下げた。冗談ではなく、本気の礼だった。


 (……副官殿も、あの書類の山には相当苦しめられてきたんだろうな)


 馬蹄の音が遠ざかる。


 フィンが横に立っていた。


「ねえちゃん、来週出張?」


「ええ。クラウゼン公国に。閣下の帳簿整理の仕事よ」


「楽しそうだね」


「当然よ。3年分の帳簿整理なんて、滅多にできない」


「……ねえちゃんの『楽しい』の基準、ちょっとおかしいと思う」


 否定はしなかった。


 だって、本当に楽しみだったから。


 帳簿が。


 ——帳簿が、だ。それ以外の理由は、ない。


 ないはずだ。


 でも——あの小さな「ありがとう」が、ずっと耳に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ