8話 決算報告書を作成しましょう──四半期の成果をまとめます
エルデ領に赴任して、3ヶ月が経った。
マルグリットが朝食を運んできてくれた。黒パンとチーズとスープ。エリーゼの朝食は、赴任初日からずっとマルグリット製だ。
「あんた、また徹夜したね。目の下のクマ、ひどいよ」
「決算期ですから」
「決算って、あんたしか見ない書類でしょ」
「自分しか見ない書類だからこそ手を抜けません。監査がないということは、自分が監査役を兼ねるということです」
マルグリットが首を振った。それから、窓の外を見た。
朝日の中に、村の景色が広がっている。修復された水路。新しい乾燥小屋。増えた家屋。畑に水を引く分水路の脇で、子どもたちが走り回っている。
「……3ヶ月前は、死んだ村だったよ」
マルグリットの声が、少し低くなった。
「人が減って、畑が枯れて。次の冬は越せないかもしれないって、本気で思ってた」
「マルグリットさん……」
「あんたが来て、変わった。数字のことはわかんないけどさ。村の空気が変わったのは——あたしにもわかるよ」
エリーゼは黒パンをかじって、視線を手元の帳簿に落とした。
数字が並んでいる。3ヶ月分の、エルデ領の変化を示す数字。
薬草交易の利益は月平均銀貨200枚。灌漑設備の第一期・第二期工事が完了し、作物の収穫量は倍増。人口は9世帯から25世帯に増えた。新しく来た大工の一家のおかげで、領主館の扉がようやく蝶番に収まった。3ヶ月間、扉が外れたまま暮らしていたのだ。
税収は実質ゼロから月あたり銀貨30枚。
(前世の自治体で3ヶ月で税収を30倍にしたら表彰ものだな。……いや、前世にそんな制度はなかった。あったのは残業と始末書だけだ)
「ねえちゃん、集計終わったよ」
フィンが帳簿を持ってきた。きれいな数字が並んでいる。3ヶ月前は字すら読めなかった少年が、今では収支帳簿を一人でつけている。
フィンの帳簿と自分の集計を突き合わせて、決算報告書を仕上げた。全12ページ。
この報告書を2部作成した。1部は自分の記録用。もう1部は——クラウゼン公国将軍府宛て。
「ねえちゃん、なんであの将軍にも送るの?」
「通商協定のパートナーに対する報告義務よ」
「ふぅん。ねえちゃんが『義務』って言葉を使うのは、やりたいことに理由をつけるときだよね」
「……帳簿の練習しなさい」
「今日の分はもう終わったよ」
このところ、フィンのツッコミが鋭くなってきた。成長は嬉しいが、方向性が気になる。
報告書を送って3日後。返事が来た。
ヴォルフからの書簡。いつも通り、無駄のない文面。
『報告書を受領した。内容は極めて明瞭。特に収支計算の精度が高い。我が国の財務官より出来がいい。——ヴォルフガング・ゼルスト』
たった二行。
なのにエリーゼは、その二行を三度読んだ。
「我が国の財務官より出来がいい」。ヴォルフの言葉には裏がない。お世辞もない。思ったことをそのまま書く人だ。だからこそ、この一文の重みがわかる。
(……嬉しい。なんでこんなに嬉しいんだろう。書類を褒められるのは初めてじゃないのに)
前世では、書類を褒められても「ありがとうございます」で終わった。心が動くことはなかった。
なのに、この人の「出来がいい」の五文字で、胸がこんなにざわつく。
書簡を丁寧に畳んで、引き出しにしまった。あの視察申請書と同じ引き出しに。
引き出しが、少しずつ埋まっていく。
さらに5日後。ヴォルフがエルデ領を訪れた。
今回も事前の書面通知あり。書式は完璧。そして——回を重ねるごとに上手くなっている。前回より余白の取り方が洗練されている。
(私の書式に寄せてきている? ……気のせいだろうか。だとしたら、少し嬉しい。いや、嬉しいが多すぎる。今日だけで何回嬉しいと思ったんだ)
いつも通り、水路の視察。村の様子の確認。マルグリットがスープを出し、ヴォルフが黙って完食し、おかわりをした。
——ここまでは、いつも通りだった。
変わったのは、そのあとだ。
視察を終えて、帰り支度をするかと思ったヴォルフが、動かなかった。
領主館の前に立ったまま、黙っている。
クルトが後ろで、何か言いたそうな顔をしている。でも口は出さない。
珍しい。あの副官が黙っているということは——これは、クルトにとっても想定外なのだ。
「閣下? 何か——」
「エリーゼ」
ヴォルフの声が、少し変わった。
いつもの無感情な声ではない。何かを言おうとして、飲み込んで、もう一度絞り出したような声。
「……頼みがある」
「はい」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。ヴォルフは口を開きかけて、閉じて、また開きかけた。
この人がこんなに言葉を選ぶのを、エリーゼは初めて見た。戦場で「北の鉄壁」と呼ばれる男が、たった一言を言い出せずにいる。
「我が領の帳簿を……」
ヴォルフの目が、わずかに逸れた。
この人が目を逸らすのを見たのは、初めてだった。
「……見てくれないか」
静かな声だった。
将軍の命令ではなく。国家間の取引でもなく。
一人の男が、助けを求める声だった。
「閣下の領地の帳簿ですか」
「ああ。……少し、溜まっている」
「少し、とは?」
「…………」
沈黙。
「閣下。正確な情報がないと対策が立てられません。具体的な量を教えてください」
ヴォルフが、懐から一枚の紙を取り出した。
簡単な見取り図だった。執務室の間取り。そして、その大半を埋め尽くす「書類」の文字。
「……この図で、書類と書かれている部分が部屋の7割を占めていますが」
「……ああ」
「天井まで積まれていますか」
「……一部は」
「期間は」
「……3年ほど」
3年。
エリーゼの脳内で、前世の記憶がフラッシュバックした。
年度末。課の全員が徹夜。机の上に書類の塔。朝5時のコンビニでエナジードリンクを3本買った、あの地獄。
それが——3年分。
普通なら、逃げる。
3年分の未決裁書類を「見てくれ」と言われて、「はい」と答える人間は、この世界にそう多くない。前世にも、たぶん3人くらいしかいない。
エリーゼは、その3人のうちの1人だった。
「やります」
即答だった。
ヴォルフが顔を上げた。
「……正気か?」
「むしろ腕が鳴ります」
ヴォルフの目が見開かれた。明確に。無表情のこの男が、はっきりと驚いた顔をした。
エリーゼは何を見たのか、自分でもわからなかった。驚き? 安堵? それとも——何か別のもの?
ヴォルフの目の奥に、戦場では絶対に見せないだろう色が、一瞬だけ浮かんで消えた。
「失礼ですが閣下、私は前の職場でも年度末の決算処理を一人で回していた人間です。書類の山を見て燃えないのは、もぐりの事務官です」
クルトが後ろで天を仰いだ。
「ようやくだ……。閣下の帳簿を見てくれる人間が、ようやく現れた……」
「クルト」
「いえ何も。ただ、あの書類の山を見て『腕が鳴る』と言った人間は建国以来初めてかと」
「黙れ」
「はい。しかし閣下、その目を逸らす癖は直された方がよろしいかと」
「黙れと言っている」
エリーゼは鞄からペンと羊皮紙を取り出した。
「では閣下、スケジュールを組みましょう。3年分ですと、仕分けだけで最低3日。内容の精査と決裁処理にさらに1週間。合計10日を見てください」
「10日で3年分を?」
「書類の処理速度には自信があります」
「…………」
ヴォルフが、何かを言いかけた。
口を開いて、閉じて。
「……ありがとう」
小さな声だった。
エリーゼがこの人から「ありがとう」を聞いたのは、初めてだった。
いつもは「問題ない」「好きにしろ」で済ませる人だ。感謝の言葉を口にするのが、たぶん——苦手なのだ。得意なわけがない。この人は、気持ちを言葉にすることが、何より下手な人だから。
だからこそ、その「ありがとう」は重かった。
「……どういたしまして。では来週、閣下の執務室にお邪魔しますね」
「ああ」
ヴォルフが馬に乗る。クルトが続く。
去り際、クルトがエリーゼに向かって深々と頭を下げた。冗談ではなく、本気の礼だった。
(……副官殿も、あの書類の山には相当苦しめられてきたんだろうな)
馬蹄の音が遠ざかる。
フィンが横に立っていた。
「ねえちゃん、来週出張?」
「ええ。クラウゼン公国に。閣下の帳簿整理の仕事よ」
「楽しそうだね」
「当然よ。3年分の帳簿整理なんて、滅多にできない」
「……ねえちゃんの『楽しい』の基準、ちょっとおかしいと思う」
否定はしなかった。
だって、本当に楽しみだったから。
帳簿が。
——帳簿が、だ。それ以外の理由は、ない。
ないはずだ。
でも——あの小さな「ありがとう」が、ずっと耳に残っていた。




