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元宰相府の事務官令嬢、追放先で無双する ~将軍閣下、決裁書類ではなく婚姻届を持ってこないでください~  作者: 一条信輝


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7話 灌漑設備の設計図を書いたら、将軍がまた来ました

 ヴォルフの工兵が到着したのは、視察の3日後だった。


 10人の兵士が、資材を積んだ荷馬車とともにエルデ領に現れた。全員が無駄のない体つきをしている。工兵とはいえ、さすがは「北の鉄壁」の軍だ。


 指揮を執っていたのは、ハインツという中年の軍曹だった。


「将軍閣下の命により参りました。水路の修復作業に従事いたします」


「ありがとうございます。作業計画書を用意しましたので、こちらをご確認ください」


 ハインツが書類を受け取って、目を丸くした。


「……これ、工程表まで入ってるんですか?」


「ええ。第一期工事は崩落箇所の撤去と基礎補強。第二期は迂回ルートの掘削と調整池の造成。第三期は分水路の敷設と試験通水。各工程の所要日数と必要資材も記載しています」


「……将軍閣下が『現地の領主は書類の鬼だ』とおっしゃっていた意味がわかりました」


 (書類の鬼。……褒め言葉として受け取っていいんだろうか)


 工兵たちは優秀だった。石積みの技術は確かで、作業も早い。村人たちも手伝いに加わり、水路の修復は順調に進んだ。


 エリーゼは工事の進捗管理をしながら、灌漑設備全体の設計図を描いていた。


 あの日、ヴォルフと二人で描いた略図を基に、本格的な図面に起こす。水路の幅、深さ、勾配の角度。調整池の容量。分水路の配置。


 前世の知識だけでは足りない部分もあるが、工兵たちの実地経験が補ってくれた。


「領主様、この地盤だと、石積みより粘土で固めた方が水漏れしにくいですよ」


「なるほど。図面を修正しますね」


 村人と工兵が一緒に汗を流す光景は、2週間前には想像もできなかったものだ。


 (国境を挟んだ二つの国の人間が、同じ水路を作っている。これが「投資」の成果か)


 フィンは工兵たちに混じって石を運んでいた。体は小さいが、根性がある。


「ねえちゃん、今月の薬草出荷、昨日の分まで集計したよ。112束」


「目標の100束を超えてる。よくやったわ、フィン」


「へへ。あとさ、ねえちゃん」


「なに」


「また来てるよ。あの人」


 顔を上げた。


 水路の工事現場の向こうに、馬が一頭。


 銀色の髪。鎧。巨大な背中。


 ヴォルフガング・ゼルストが、またエルデ領にいた。


 その後ろで、クルトが馬を降りながら誰かに手を振っている。マルグリットだ。いつの間に知り合いになったんだろう。


「ねえちゃん、顔」


「え? 何か付いてる?」


「付いてないけど、なんか変な顔してる」


「……してないわよ。通常業務の顔です」


「ふぅん」


 フィンの目が、妙に大人びていた。16歳の少年にこの目で見られるのは、なかなかに居心地が悪い。



「水路の進捗確認に来た」


「ありがとうございます。進捗報告書をご用意しておりますので、どうぞ」


 エリーゼが報告書を差し出すと、ヴォルフは受け取って黙読した。


 ページをめくる速度が速い。この人は書類を読むのが嫌いなわけではない。ただ、自分で作るのが苦手なのだ。


 (前世の上司にもいたな。報告書を読むのは好きだけど、自分では一枚も書けない管理職)


 いや、ヴォルフの場合は「好き」なのかもしれない。書類を読んでいるときの目が、真剣を通り越して——楽しそうだ。


「第一期工事は予定より2日前倒しで完了。第二期は明日から着工」


「はい。工兵の皆さんが優秀なおかげです。閣下にお礼を申し上げます」


「礼はいい。それより、この設計図を見せてくれ」


 エリーゼは灌漑設備の全体図面を広げた。


 領主館の机では狭いので、工事現場の横に仮設の作業台を出した。大きな羊皮紙を広げると、風で端がめくれそうになる。


 ヴォルフが無言で書類の端を押さえた。


 反対側をエリーゼが押さえた。


 自然と、二人で同じ図面を覗き込む形になった。


「調整池の位置はここで確定しました。閣下が指摘された通り、この平坦部が最適です」


「分水路は何本引く」


「三本。畑への農業用水、生活用水、そして薬草の栽培用。将来的に薬草を自生地からの採取ではなく、栽培に移行するための布石です」


「栽培か。供給量が安定する」


「はい。品質も管理しやすくなります。天候に左右されにくい栽培方法を、今マルグリットさんと試しているところです」


 ヴォルフが図面の一箇所を指さした。


「ここの合流地点、角度がきつい。水流が渦を巻いて石を削る。もう少し緩やかなカーブにした方がいい」


「ああ、確かに。角度を120度くらいに広げれば……」


「そうだ。城壁の排水溝で同じ問題が起きる。鋭角は水の敵だ」


 エリーゼはペンを取って、その場で図面を修正した。ヴォルフが横から見ている。


「……お前の線は迷いがないな」


「え?」


「図面を引くとき、一本の線にためらいがない。訓練された手だ」


 (それは前世で何千枚と書類を書いたからだけど、そんなこと言えないし)


「お褒めいただき……ありがとうございます」


「褒めていない。事実を述べている」


 (それを褒めると言うのでは)


 クルトが少し離れた場所で、村人のマルグリットと何やら話し込んでいた。時々こちらを見て、二人でにやにやしている。


 不穏だ。


 (あの二人、何を話しているんだろう。嫌な予感がする)



 ヴォルフは工事現場を一通り視察した後も、しばらく村に留まった。


 工兵たちの作業を確認し、石積みの手本を自ら示し、村人に声をかける。言葉は少ないが、一つ一つが的確だった。


 村人たちの態度が変わり始めていた。


 最初は「隣国の怖い将軍」に怯えていたのが、今は「無口だけど手を貸してくれる人」になっている。


 子どもたちがヴォルフの周りに集まり始めたのには驚いた。


「おっきいー!」


「つよそー!」


「剣みせて!」


 ヴォルフが困惑した顔をしている。こういう顔もできるのか。


「……エリーゼ。子どもの扱い方がわからない」


「私に聞かないでください。私も苦手です」


「…………」


「…………」


 二人で困っていると、マルグリットが子どもたちを回収してくれた。


「ほらほら、将軍様を困らせるんじゃないよ。おやつだよ、来な」


 子どもたちが歓声を上げて走っていく。


 残された二人が、同時にほっとした息をついた。


「……お前も子どもは苦手なのか」


「対応マニュアルがないものは全般的に苦手です」


「マニュアル」


「手順書です。手順書があれば大抵のことは処理できるのですが」


 ヴォルフが、少しだけ口元を緩めた。


 笑ったのだと思う。たぶん。普通の人間なら見逃すくらいの変化だ。


 でもエリーゼは見逃さなかった。


 ——見逃さなかった自分に、少し驚いた。


 (なぜ私は、この人の表情の変化に気づけるんだろう。他の人の顔なんて、いつも見ていないのに)


 そのとき、足元にハンコが現れた。


 三毛猫は前回と同じように、まっすぐヴォルフに向かった。


「あっ、ハンコ、だめ——」


 遅かった。ハンコはヴォルフのブーツの上に乗り、そのまま座り込んだ。完全に定位置を確保した顔をしている。


 ヴォルフの鼻がひくついた。


「……閣下、降ろしますね」


「いい」


「でもアレルギーが——」


「この程度で撤退する兵士はいない」


 (猫アレルギーと戦場は関係ないのでは)


 ヴォルフが、そっとハンコの頭に手を伸ばした。大きな手で、不器用に、撫でた。


 ハンコがごろごろと喉を鳴らした。


 ヴォルフがくしゃみをした。


 くしゃみをしながら撫で続けた。


 (……なんでこの人は、くしゃみしながら猫を撫でてるんだろう。離れればいいのに)


 その姿が——なぜか、目の奥に焼きついて離れなかった。



 帰り際。


 ヴォルフが馬に乗る前に、振り返った。


「次は来週、来る。工事の進捗確認だ」


「かしこまりました。報告書を用意しておきます」


 クルトが横から口を挟んだ。


「閣下、今月のエルデ訪問はこれで3回目ですが」


「国境警備の一環だ」


「はぁ。国境警備に灌漑設備の図面は必要なのですか」


「…………黙れ」


 クルトが肩をすくめた。まったく懲りていない。


 ヴォルフは馬上からエリーゼを見下ろした。


「図面の修正案、送ってくれ。書面で」


「もちろんです。書面以外のやり方を知りませんので」


「……そうだな。お前はそういう女だ」


 褒められたのか呆れられたのか、よくわからなかった。


 馬が遠ざかる。銀色の髪が風に揺れて、やがて見えなくなった。


 フィンが横に立っていた。


「ねえちゃん」


「なに」


「あの将軍さん、絶対ねえちゃんのこと——」


「帳簿の練習しなさい」


「まだ何も言ってないのに」


「言わなくていいの。帳簿。今日中に収支報告の下書きを仕上げること」


「……はぁい」


 フィンがしぶしぶ領主館に戻っていく。


 エリーゼは一人、夕暮れの道に立っていた。


 風が吹いた。水路の工事現場から、土と石の匂いがする。


 その匂いに混じって——かすかに、鉄と革の匂いが残っていた。


 鎧の匂いだ。


 (……いい匂い、とか思ってない。思ってないから)


 エリーゼは首を振って、領主館に戻った。


 灌漑設備の修正図面を仕上げなければ。書面で送ると約束した。


 机に向かう。ペンを取る。


 図面の合流地点——ヴォルフが指さした場所に、修正線を引く。


 120度のカーブ。鋭角は水の敵。


 (「鋭角は水の敵だ」か。面白い言い方をする人だな)


 ペンが止まった。


 あの人の指は大きかった。図面を押さえていた手は、剣ダコだらけだった。なのに、紙を扱うとき不思議と丁寧だった。


 ——だめだ。集中できない。


「……仕事しよう」


 自分に言い聞かせて、エリーゼは図面に向き直った。


 向き直ったのに、ペンを持つ手がなぜか止まってしまう夜だった。

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